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日蓮大聖人・池田大作

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3 「多様性の調和」へ知恵の教育  

「新しき人類を」「学は光」V・A・サドーヴニチィ(池田大作全集第113巻)

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9  規範からの逸脱を止める内発的な精神性
 サドーヴニチィ よくいわれることですが、現代社会では、自己中心的に生きること、ウソをついて平気でいること、好き勝手に生きることがあたりまえになってしまったようです。かつては、そのような生き方を潔しとはせず、社会の病ととらえたものでした。道徳性を著しく欠く人がかつては少数で、その人たちが病んでいるとされていたのに対して、現代は、道徳性をもつ人が少数派となった感を否めません。
 そうだとすると、過去において奇形だったものが現代の正常者となり、過去における非道徳が時代を経て標準になってしまったことになります。グローバリゼーションというのは、まさにそのような状況を認知してしまう働きをするのではないでしょうか。
 たとえば麻薬公認の状況をみてもよくわかると思います。一部の国ではいわゆる「軽い麻薬」はすでに公認されています。オランダなどがそうです。アメリカではなんとジョージ・ソロスがそういった麻薬の公認を主張しています。「麻薬文化」が「新世界文化」としての様相をますます帯びてきています。
 池田 ソロス氏は、自分の創設した慈善団体を「オープン・ソサエティ」財団と名づけていますが、その目指すところは、人間の本能や欲望ができるだけ規制されない、その意味で自由の保障された社会、を意味しているようです。(浜田和幸『ヘッジファンド』文春新潮、参照)
 ドストエアスキーの『悪霊』の主人公たちのセリフを聞いているようで(もとより、ドストエアスキーが付与している無神論の思想的な深淵などとは無縁ですが)、自由の逸脱、自由と放縦とのはき違えであり、快楽と幸福とを混同しているとの感を深くします。ソロス氏が積極的に進めている「麻薬の合法化」や「安楽死是認」のキャンペーンは、表向きのスローガンだけでは割り切れない、警戒すべき側面を有していることを、見逃すべきではありません。
 サドーヴニチィ 新しいグローバル社会の標準的価値基準として定着しつつあるものの別の例として、従来の概念におさまらない性の概念が、一部の国で公認となりつつあることがあげられるでしょう。
 このように、「危険な知識」というべきものが社会に蓄積されつつありますが、そのもとになっているのが科学であり、非科学的知識です。こういった危険な知識がいろいろな経路をたどって少しずつ合法化され、それが社会の規範になりつつあります。以前はほんの一部でしかみられなかった規範からの逸脱が、大衆的なものとなって蔓延しつつあるのです。このような状況について、ジャン=ポール・サルトルはこういっています。
 「ここは盗人の国である。ここでは盗みをはたらいても、何か特別のことをしたのではない、ここの規範を破るどころか、従ったことになる。私は悪を作り出しているのでもなく、平穏を破っているのでもない。スキャンダルはここでは考えられない。盗みをしながら、それが盗みにならないのである」
 これは規範の逸脱を前提とする新たな道徳規範体系が生まれてきていることを意味するのではないでしょうか。もし、そうであるとすれば――事実に照らしてみるとそうとしか思われませんが――「内発性に根ざした寛容」をもってして、世界が「逸脱」してしまわないようにすることは可能なのでしょうか。
 池田 私は、今日の文明史が”引き返し不能の点”(ポイント・オプ・ノー・リターン)を超えたとは必ずしも思っていません。しかし、おっしゃるような「逸脱」が随所に顔をのぞかせ、不気味な黒雲のようなものが、社会に漂っていることも事実です。
 総長の懸念されている「麻薬文化」など、その典型でしょう。心の空虚を、麻薬という「外発」的な毒をもってまぎらわそうとするのですから。
 私は、一つの大きな原因は、現代社会が情報化の波のなかであまりにもバーチャル・リアリティー(仮想現実)に囲まれすぎていて、人間らしさが失われ、リアリティー(現実)とのつながりが希薄になってしまった点にあると思っています。いわゆるコミュニケーション不全です。主客対立の構造をもつ機械論的自然観は、人間と自然とのコミュニケーション不全をもたらします。その不全は、人間も自然の一員であることの当然の帰結として、人間同士のコミュニケーションにもはね返ってきます。かくて、表面上はかつてない繁栄を謳歌しているかにみえる現代社会のいたるところから、コミュニケーション不全から発するきしみ音が聞こえてきます。
 テクノロジーの発達によるコミュニケーションの進展は便利なものですが、生の現実(リアリティー)とのコミュニケーションを補完することはできても、代替は不可能です。「内発」的な精神性は、あくまで人間や自然との直のコミュニケーションを土壌にして成り立つものだからです。
 サドーヴニチィ その点はよく理解できます
 池田 プラトンは「書簡」のなかで、巧みに述べています。
 「そもそもそれ(=肝心の事柄)は、ほかの学問のようには、言葉で表現されえないものであって、むしろ、(教える者と学ぶ者とが)生活を共同しながら、その問題の事柄を直接に取り上げて、数多く話し合いを重ねてゆくうちに、そこから、いわば飛び火によって点ぜられた燈火のように、突発的に学ぶ者の魂のうちに生じ、以後は、生じたそれ自体がそれみずからを養い育ててゆくという、そういう性質のものなのである」(「書簡集」長坂公一訳、『世界古典文学全集』15所収、筑摩書房)
 昨秋(2000年)、日本に総長二付をお迎えして種々語り合った際、同行されていた、私も旧知のヤゴジン・ロシア国際大学総長が「教授は知識を与えるだけでなく、自分の行動、自分の全存在を通して教えなければなりません。そこで、どんな優秀な教授でも、四人を超える研究生の面倒をみることはできないといわれています」と語っておられました。
 四人という数字は理想論でしょうが、まさに、プラトンの言葉を裏書きする卓見であると感じ入りました。
 そうした「内発」的な精神性、プラトンのいう「肝心の事柄」を触発させゆくためにも、とめどもなく押し寄せるバーチャル・リアリティーによる幻惑から、自然や人間との直のコミュニケーションをどう保全するかということが、いわば文明論的課題となってくるのです。
 サドーヴニチィ もう一つ、人間が動物世界から独立したのも、生物学的逸脱の、おかげであることを考えれば、「逸脱」を止めることができるかどうかということは、単なる問いのための問いではありません。そもそも、文明史そのものが進歩したのも、一般的基準を飛び越えた人々のおかげです。
 この章の結びにあたって、あるスペインのことわざをあげたいと思います。
 「神ょ、我に出来うる変革を成し遂げるだけの力を与えたまえ。変革しあたわざるものをあきらめる忍耐の力を与えたまえ。そして、前者と後者を区別するための知恵を与えたまえ」
 池田 重ねて留意すべきは”科学の進歩によって、人間は動物並みになった”というニーチェの逆説です。先に触れたジヤカル氏は、すべての行動の指針として、「やらないほうがましなことがある」とのアインシュタインの言葉をあげています。(前掲書『世界を知るためのささやかな哲学』)
 近代文明は、傲慢さと訣別し、節度と慎みを身につけなければ、カタストロフィー(破局)を迎えてしまいます。

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