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日蓮大聖人・池田大作

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2 無限の宇宙をめぐる信仰と知性  

「新しき人類を」「学は光」V・A・サドーヴニチィ(池田大作全集第113巻)

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1  ロシアの宇宙開発にまつわるエピソード
 池田 2001年3月23日、人類初の宇宙ステーシヨン「ミール」(「平和」の意味)が、その使命を終え、南太平洋上に落下して、歴史的な宇宙ステーシヨン廃棄事業は大成功に終わりました。日本では、落下の途中で上空を通過する、というととで大変な話題になりました。
 総長はロシアの宇宙開発の発展にも寄与してこられたとうかがっております。今回の「ミール」の廃棄事業について、お聞かせください。
 サドーヴニチィ ええ。計画どおりに、南太平洋上に落下してよかったと思います。ロシア宇宙管制センターは、この計画を、細心の注意を払って、人類に被害を起こさないように、よくやったと思います。当初の日程からは遅れたりしましたが、「ミール」の燃料を使い果たすのに予定より時間を要したことがありました。
 池田 「ミール」は、一九八六年に打ち上げられ、百四人の宇宙飛行士を乗せ、地球軌道を八万六千一百三十一回も周回したことになるそうですね。
 サドーヴニチィ 私も、宇宙開発では、人工衛星の軌道の数学的解析や宇宙飛行士訓練のための遠心分離機のような無重力シミュレーション装置の開発に携わってきました。ですから、今回の「ミール」廃棄事業も、特別かつ複雑な思いがあります。
 池田 わかる気がします。総長の友人であるロシア国際高等教育科学アカデミーのシュクシュノフ総裁も、宇宙開発に従事してこられましたね。宇宙船でトラブルが発生したときの秘話をお聞きしたことがあります(一九九九年十一月十五日)。少々長いのですが、紹介させていただきたいと思います。
 「ベリャーエフ飛行士の乗った宇宙船の自動操縦装置が故障したことがあります。そのとき、地上管制室にいたガガーリンがマイクを握りしめ、『いいか、これまでだれもやらなかった手動着陸実験をやるぞ。もう一回地球を回るのだ。そして着陸するのだ』と叫びました。カザフの砂漠に着陸する予定が、六千キロも離れたシベリアに着地し、一昼夜を雪のなかで過ごしました。たまたま通りかかったへリコプターに発見されましたが、着陸時の緊張で宇宙服のなかには膝のところまで汗がたまっていたそうです……。
 私たち研究者はいつも、責任の重大さに心を引き締めています」と。
 当時の開発当初の科学技術と今回の宇宙ステーション「ミール」の廃棄事業には、隔世の感があるのでしょうが、こうした先人たちの教訓が生かされているのでしょうね。
 サドーヴニチィ ロシアの長い宇宙開発の歴史には、さまざまなエピソードがあります。池田博士が紹介してくださったように、いつも、ロシアの宇宙管制センターの全スタッフが全力で取り組んできたことだけは、確かです。
 池田 宇宙開発も、貴国をはじめ、アメリカや、世界中が参加する「国際宇宙ステーション」建設の時代に入っていますね。今後、人類益のための宇宙開発であってほしい。これは共通の願いではないでしようか。
 サドーヴニチィ 本当にそうであってほしいものです。ミール(平和)は皆の願いですから。
2  言語では表現しきれない「無限」「永遠」
 池田 リンゴの実が樹から落ちるのをヒントに、「万有引力の法則」を発見したとされるニュートンのエピソードが示しているように、ふだん、人々が何でもない当たり前の常識のように考えていることに、疑問を投げかけ、「なぜ?」と聞い直してみる――古今の偉大な発見や発明の背景には、必ずといってよいほど、そうした事情が潜んでいるようです。
 たとえば、「1、2、3」という数え方は世界共通です。不思議といえば不思議ですが、数字というのは、いったい何なのか、記号なのか。
 サドーヴニチィ 池田博士は、じつに根本的命題を提起してくださいました。これは、私の専攻テーマでもあるのです。
 「数」の理論には、人間の認識の問題すべてが含まれているといっても過言ではないと思います。
 たとえば「1」と「2」の中間には「1.5」が存在します。さらに「1」と「1.5」の中間には「1.25」が存在します。そうやってみていくと、きりがありません。√2(ルート2)も「1」と「2」の間にある数です。
 池田 「2」は有理数(整数または分数の形で表される実数)であり、√2は無理数(有理数でない実数)ですが、「数」という点では同じですね。
 サドーヴニチィ ええ。それでは、この√2という無理数の実体とは何でしょうか。じつは、これは古代人も現代人も認識することができません。ある程度まで数字で表現することはできても、表現しきることはできない。
 ここで、人間は「無限」というものに思いいたります。宇宙も終わりがなく、無限です。ミクロの世界も、どこまでも小さく小さく、割っても割っても、割り切れず、終わりなく続いていきます。
 池田 卓越した数学者の発想がよく理解できる「美的」「芸術的」なお話に感嘆します。のみならず、総長の論及された「無限」あるいは「永遠」、そしてミクロとマクロの世界といった境域は、科学と宗教との接点――決して矛盾、対立するのではなく、整合し融合しゆく接点を示唆していると私は思ってきました。
 サドーヴニチィ 私こそ、池田博士のご質問に驚きました。冒頭の「当たり前の常識」うんぬんではありませんが、なにげないようで数学の根本にかかわる問題を提起してくださったからです。
 池田 じつは、総長が「表現してもしきれない」「割っても割り切れない」世界であるとされる「無限」や「永遠」は、仏教の世界観、生命観と二重写しになってくるのです。
 写真にたとえれば、「無限」や「永遠」は、事象の輪郭しかはっきりしていないという点で、ネガ(陰画)であるとすれば、仏教的世界観は、「無限」や「永遠」という事象の輪郭に、「生命」などの内実を与え、いわば彩色をほどとしているという点でボジ(陽画)であり、当然のことながら、両者の輪郭は、驚くほど符合しています。
 サドーヴニチィ なるほど……。
 池田 以前、「縁起」というととに若干触れましたが、「縁起」論は(数や記号を含む)広い意味での「言語の虚構性」(真の実在は、数や言語などの表記によっては、とらえきれないということ)を、ぎりぎりまで問いつめた思索の結晶として、仏教哲学のバックボーンを成しています。
 言語といい数といっても、それらは人間の約束事であって、多かれ少なかれバーチャル(仮想)性を帯びざるをえない。真実のリアリティー(現実)とは、そうした約束事では「表現しきれない」「割り切れない」世界であって、だからこそ森羅万象をつないでいる「縁」ということを非常に重要視するのです。
 根底において「縁」で結び合わされていて、「表現しきれない」「割り切れない」のです。そうのような万物一体の存在のなかから、「縁」に触れて「個人」や「個物」が顕在化し、現前してくるのです。私が、”コップが存在する”のではなく、”存在がコップする”との説を紹介したのも、その意味です。
 サドーヴニチィ 約束事である限り、それが唯一絶対ということはありえません。
 もしも古代人が、「1、2」という概念と違うものを考え出していたら、人間の思考方法も、文明も、まったく違うものになっていたでしょう。ですから「数」は、文明の発展の法則、性格を内包しているといえます。
3  知識を求める心から大学が生まれた
 池田 そのような約束事をどうとらえていくかは、哲学上の大問題でもありましたね。
 古代ギリシャ哲学でいえば、タレスなどの自然哲学者は、「地」「水」「火」「風(空気)」などを万物の根源としてきました。そうした「自然」を絶対視する立場から、宗教や道徳、法律、習慣などの人為的世界へと目を転じ、「自然的なもの」から「人間的なもの」への転換をはかったのが、周知のようにソフィストであり、なかんずくソクラテス、プラトンであったわけです。
 感覚的な知覚の対象――たとえば火の美しさを取り上げてみれば、時間・空間の枠内にあるその美しさの有限性を超えて、なおかつその美しさを美しさたらしめている永遠の原型を、プラトンは「イデア」と呼びました。感覚的知覚の対象は、その永遠の「イデア」を分有するものである――と。
 サドーヴニチィ そのとおりですね。
 池田 しかし、何といってもそうした思索を究めた人は、カントでしょう。カントは、我々の外界に広がる現象世界は、認識主観によって構成され、秩序づけられたものであるから、それ自身が「物自体」とはいえない。「物自体」とは、人間が直接認識できない不可知な存在であり、それは、思惟によってのみ仮定でき、また、そうするととが、思惟を完結させるための不可欠の要請である、としました。
 そうしたカントのいわゆる”批判哲学”はさまざまな反批判を呼び起こしながら、絶大な影響を及ぼしました。私も、人間の理性(悟配)の思い上がりを戒めるという点で、啓蒙主義の最も良質な部分を体現していると思っております。
 知識や理性に使われず、それらを使いこなしていく――その意味では、カントは真正の知識人でした。
 サドーヴニチィ 「ホモ・サピエンス」(知性人、英知人)という言葉があるように、知性は人間に本然的なものであり、知識はつねに人間に奉仕してきました。知識を求める心は、人間の持つ最もすばらしい特性の一つです。
 一説には、こうした人間の欲求に応えるために、九世紀に大学ができたといわれます。大学そのものについては、のちに論じたいと思いますが、大学は、基本的に人間の知識欲を満足させてきました。つまり、知識欲をいかに充足させるか、という問いに対する自然な帰結として生まれたのが大学であるということになります。
 池田 大学は、知的欲求の自然な受け皿であったということですね。
 サドーヴニチィ 西欧に、おいても、一方で、大学の起源について別の説もあります。それは、カトリックの聖職者の独身主義がもたらした結果であるというものです。
 中世ヨーロッパに、おいて、職業教育は普通、父親が息子に仕事を教えて、その職業にまつわる権利と義務、特権等を息子が引き継ぐというふうにして行われていました。手工業の世界では、同業組合のなかで子どもたちが徒弟となるのが普通でした。
 しかし、聖職者は妻帯しないために、そのような方法をとることはできません。聖職者の後継者をつくる手段としては、形式的な読み書きの教育がなされていただけでした。そして知識をいかに残していくかが、聖職者の一番重要な課題となり、修道院に付属する学校や大学が、大きな図書館や教授陣を備えでできていったということです。
 池田 ヨーロッパの中世にあって、哲学は神学の「端女」とされ、その他の諸学もカトリックの教義に沿ったものとして展開されたのも、その結果ですね。しかし、知識・科学の発達で次第に宗教的教義との矛盾が大きくなっていく。有名な”ガリレオ裁判”は、その典型でしょう。
 サドーヴニチィ おっしゃるとおりです。もちろん、現代科学は、アリストテレスやガリレオの時代と比べると驚異的な変化を遂げており、国家や社会、学者自身の科学に対するアプローチも変わりました。今や科学は、学者だけのものではなく、人々の生活・文化レベル、さらには、人類文明の進歩も科学の発展に大きく左右されるようになりました。今日、科学は国の重要な収入源ともなっています。
 なぜならば、産業や技術革新と直接結びつき、さらに、環境や人々の生活習慣までも変えうるからです。
 池田 二十世紀の前半には”物理帝国主義”という言葉が流行しました。二十世紀は、物理学を中心にしたテクノロジーが善悪両面で驚異的な発達を遂げましたが、それも、最後の四半世紀ぐらいになると、コンピューターを扱う情報科学や遺伝子操作などの生命科学に、にわかにスポットが当てられるようになってきました。
4  科学では解明のむずかしい人間の内面世界
 サドーヴニチィ 知識は少しずつ幅が広がってきました。今や、無数の学問分野ができています。人間は周りの世界について、また自分自身について、多くのことを知るようになりました。しかしながら重要な問題の大半はまだ答えのないままです。
 池田 よくわかります。前世紀の最後の四半世紀ぐらいだと思いますが、地球環境問題の深刻化などもあって「知のパラダイム(思考の枠組み)の転換」ということが、しきりにいわれました。従来の機械論的な自然観を機軸にした「単純系のパラダイム」から、生命論的自然観を機軸にした「複雑系のパラダイム」への転換は、文明論的な課題である、と。
 「複雑系」という言葉は、非常に多岐にわたっているようですが、単純化していえば、因果関係がはっきりしており、未来がどうなるかを予測できる「単純系」に対して、因果関係が複雑に入り組み、謎や不可思議な部分が多く、したがって、結果や未来が予測困難な事象を「複雑系」と呼んでよいと思います。人間の行動、社会や歴史の動向などは「複雑系」の最たるものです。
 サドーヴニチィ 人間にとって最もむずかしいのは、自分自身を解明することでした。人体の構造や生理機能の研究はかなりやっかいなものでしたが、それでも、ある程度のことは解明されました。しかし、さらにむずかしいのは人間の内面世界の解明です。なぜなら、個々の人間は、よくいわれるように、さまざまであって、同じ人間などいないからです。人は同じときに、同じ状況に置かれでも、その環境の受けとめ方はさまざまですし、そのときの状況に対する対処の仕方も違えば、他人の行動に対する態度も異なります。
 こういった意味では、聖書に出てくるアダムとイブ、カインとアベルの逸話などがわかりやすい例でしよう。カインとアベルは血のつながった兄弟で、同じ環境で育ち、生きてきたにもかかわらず、善悪の考え方も、自分を取り巻く世界を見る目もまったく違いました。なぜそういうことが起きるのでしょうか。そもそも、社会に生きるすべての人が、理想的人間になる、とまでいかなくとも、せめて聡明になるというようなことは、はたして可能なのでしょうか。私たちは、そうした人間の理想的状態と知恵とを結びつけることがよくあります。
 人間の心や行動は、いまだに最も大きな自然界の謎です。
 池田 重大なご指摘です。外面世界の探求と内面世界の探求との間の乖離というか、極端なアンバランス――現代文明の直面している最大の課題がそこにあります。ゲーテの美しい言葉が想い起こされます。
 「ケプラーいわく。『わたしが外界のいたるところに見る神を、ふたたびわたしの内部に、わたしの心に、おなじように見出したい、というのがわたしの最大のねがいだ。』この高貴な精神は、一瞬、内部の神的なものが宇宙の神的なものとかたく結びあうことを、すでに無意識ながら感じていた」(『ゲーテ格言集』大山定一訳、11所収、『ゲーテ全集』人文書院)
 人間であることの真の充足感は、こうしたところにしか求められません。
 サドーヴニチィ ヘーゲルが『美学』のなかで次のように指摘しています。
 「信仰も理性も既知のものであるとされているため、その内実を改めて問うのは、無教養だとみなされている。ゆえに、近代の人々は信仰と理性について、さも関心ありげに饒舌をふるうが、それでは信仰とは、そして理性とは何なのかについては知ったかぶりをしているにすぎない」
 たしかに、こういったことなどはわかっているものだとされがちですが、実際には、人間には心があるのか、意識とは、理性とは何か、という問いに対して私たちはいまだに答えられないでいるのです。
5  「善く生きる」ために不可欠な宗教性
 池田 そうした「謎」を聞い続けることが人間の本然的な欲求であるならば、その「問い」の果てに、何らかの「解答」を得ようと模索を続けることも、人間の人間たる証といえます。単に「生きる」だけでなく「善く生きる」ためには、その模索の旅を欠かすことができませんし、事実、人類はその旅路で、数多くの試行錯誤を繰り返してきました。アダムとイブ、カインとアベルは、いうまでもなくその原初の形ですし、彼らの所業が示しているように、「解答」への模索には、必然的に宗教的要因が関わってきます。
 サドーヴニチィ 認識の枠組みとしての「無限」や「永遠」という”ネガ”に対して、より積極的な信仰の内実ともいうべき”ボジ”が要請されるということですね。
 池田 ええ。この点でも、カントの思索は、重要な示唆を与えてくれます。人間の理性の欲求、関心事は、大別して、第一に「私は何を知ることができるか」、第二に「私は何をすべきか」の二点に分かれるでしょう。前に触れたように、カントは「物自体」を不可知とすることによって、第一点への形而上学的根拠づけを斥けました。いってみれば「解答」を拒否したわけです。
 しかし、彼は第二点の問いについては、人間が「善く生きる」ためには、生きることの意味、意義の根拠づけが不可欠であるとし、そのために「神」や「来世」の存在が実践的に要請される道徳的宗教を唱導し、問いへの彼独自の「解答」としました。カントに『単なる理性の限界内の宗教』という著作があるように、それは一種の理性宗教であって、「不合理なるがゆえに我信ず」(テリトゥリアヌス)といった、理性と背反する部分を多分に有する旧来の啓示宗教は、とうてい彼の受け入れるところではありませんでした。
 サドーヴニチィ そのとおりです。
 池田 そのうえで、なおかつ「善く生きる」ための根拠づけとして「神」や「来世」「不死」などの宗教的要因を、必須の要請と位置づけているのです。それなくしては総長のおっしゃる、カインとアベルは性格的にも物の見方もなぜあのように違うのかという疑問、謎など、闇のなかに葬り去られてしまうのですから――。
 カントの宗教観は、大別すれば、パスカルが激しく糾弾してやまなかったデカルトの宗教観の系列に属しています。たしかに、それはパスカルやキルケゴールなど正統派のキリスト教徒から見れば宗教が道徳の補完物へと矮小化されてしまった感さえあり、とうてい容認できないところでしょう。
 しかし、私は、科学や理性の側からの挑戦――といって悪ければ問いかけ――を真正面から受けとめ、文明をどう正しい方向に向けていくかという不断の努力なくして、ただでさえ追いつめられている宗教に、未来はないと思っております。まして、現代は、情報や技術はカントの時代とは比べものにならないほど発達し、かつては”神の領域”とされていたところに、科学がどんどん踏み込んできている時代です。
 サドーヴニチィ 科学者の立場から見ても、大切な視点であると思います。
 池田 そうした時代にあって、宗教は、知識と知恵の架橋作業に、どう貢献していけばよいのか―^。おそらく、そのポイントは何らかの教義的な差異性、すなわちドグマにあるのではなく、宗教が人間の内なるものを発現させていくことができるのかどうかという一点にあると思います。内なるものとは、人間の才知を超えて、大いなるものの存在や働きにつねに畏敬の念を抱き続ける内発的な精神性ともいえるでしょう。そして、その内なるものとは、カントが『実践理性批判』の末尾に記したあまりにも有名な言葉と、きわめて親近しているのです。
 「ここに二つの物がある、それは――我々がその物を思念すること長くかつしばしばなるにつれて、常にいや増す新たな感嘆と畏敬の念とをもって我々の心を余すところなく充足する、すなわち私の上なる星をちりばめた空と私のうちなる道徳的法則である」(『実践的理性批判』波多野精一他訳、岩波文庫)
 人間は無限の宇宙に畏敬を抱くが、こうした内なる道徳律にはあまりにも無関心すぎたのではないでしようか。
6  有限なモデルは宇宙の無限を再現できない
 サドーヴニチィ 私は数学者として、この問題について違った観点から考えてみたいと思います。
 まず、人間をモデル化して考えてみます。人間は細胞や分子といったレベルで物理化学反応を起こしている一種の有機体です。細胞はそれぞれ何十億もの神経で結ばれており、その神経を通じて指令が「流れ」ていきます。人間の頭脳を再現することは可能かどうか、という議論がありますが、私は、はっきりした根拠はないものの、「ノー」と答えたいと思います。人工知能はつくれるという学者もいますしかし、はたしてプーシキンの『エフゲーニ・オネーギン』を書けるようなコンピューターがつくれるでしょうか。コンピューターはあくまでも機械です。人間には個性があり、感情があり、知性があります。
 このような議論を進めていくと、「世界は無限だ」というところに帰着するのではないかと私は考えます。物質は無限です。原子核は無限に細かい素粒子からなっています。宇宙も無限に広がる天体からなっています。ですから、無限の構造をそのまま再現するような有限のモデル(モデルというのは有限なものです)をつくるのは不可能といわざるをえないでしょう。
 アキレスは亀を追い越せるかという、有名な「ゼノンのパラドックス」がありますが、人間には無限性という性質が本然的に備わっているのです。もっとも、この問題もはっきりと解明されたわけではなく、いろいろな意見がありますが。
 池田 いかにも数学者らしい明断な分析ですね。有限なものをもって無限なものを再現するのは、論理的に無理である――と。たしかに脳は二十一世紀の大きなフロンティアだといわれていますが、私もプーシキンの脳がそっくり再現できるなんて信じません。
 もし、そのようなことが可能になるとすれば、人間が人間であることをやめる、暗澹たる逆ユートピアを招来してしまうでしょう。
 サドーヴニチィ いろいろ論じ合ってきたことのまとめとしていえることは、知識の習得には際限がないということです。人間が知りたいと思うことがすべて解明されるような時代は、決してやってこないでしょう。
 人間はつねに、より新しい知識を得たいという気持ちを持ち続けていくことでしょう。先に申し上げたとおり、知識欲はよりよい暮らしへと直結しているのですから。知識について語るとき、知識そのものと知識の活用とは区別して考えるべきだと思います。核兵器や化学兵器、生物兵器の製造と使用をめぐる問題などよく知られた例でしょう。これは倫理を無視した科学的知識の利用の一例です。
 しかし、まったく逆の例も少なくありません。
 人類に食糧供給を確保するためには、食糧生産を年間二パーセント増やさなければなりません。これは、従来の方法で達成できるものではありません。そのため今日、遺伝子・染色体工学の研究がさかんに行われています。
 池田 袋小路に入り込んでしまった感のある現代文明の諸課題をみれば、もちろん知識や科学技術に過大に期待をかけることなど、できません。かといっで、極端から極端に走り、それらの役割を過小評価してしまうことも、厳に戒めるべきです。
 アルビン・トフラーは『パワ・シフト』(徳山二郎訳、フジテレビ出版)のなかで、暗黒の時代を招き寄せてしまう要因の一つとして、エモーショナルな「環境神権政治」をあげていました。それは、合理的な選択というよりも、むしろ、宗教的な原理主義に似ています。「ホモ・サピエンス」らしく、知識や科学技術を過大評価も過小評価もせず、適正なスタンスで、それらを使いこなしていくべきです。
7  生命尊厳の理念を守る新しい倫理規範
 サドーヴニチィ 次に重要なのは、医学です。医学はまったく新しい発展段階に入っています。
 なぜ今、ヒトゲノムがこれほど話題にされるのでしようか。それは、遺伝子のなかで、どれを強化し、どれをシャットアウトあるいは交替させればいいのかをつきとめるために、ヒトゲノムを解明する必要があるからです。すでに、遺伝的性格をもっ疾病が約四千種発見されています。ゲノムを解明して、どとに欠陥があるのか、どの遺伝子が壊れているのかをつきとめ、それらを遮断あるいは交替させるための技術を開発する必要があるというわけです。
8  こうして科学的知識はつねに、新たに生まれ、発展の途上にあるのです。そしてあるものは悪用され、あるものは善用されます。
 池田博士、最近の生物学――正確にはバイオテクノロジーですが――に対してはあなたと同じように、私も一抹の不安を抱いています。
 そもそも、同じ現代科学といっても、核物理学と分子生物学には根本的な違いがあります。
 原子の研究においては、人間は、自然界がその影響を受けるのを外から観察している立場にいます。もちろん、放射能汚染の危険が人間自身にも及ぶという点では、人間と自然界を単純に分けて考えることはできませんが。それでも人間は、その危険性から身を守る方法を開発できる、つまり自然界を避けて通れると思っています。
 池田 そうした見方もありますが、環境破壊は、早晩、人間の上にもふりかかってくることは、火を見るよりも明らかです。
 オルテガ・イ・ガセットは「単純系のパラダイム」の原型ともいうべき、デカルトの「コギト=エルゴスム」(我思う、ゆえに我あり)に対して「私は、私と私の環境である。そしてもしこの環境を救わないなら、私をも救えない」(『ドン・キホーテに関する思索』A・マタイス、佐々木孝訳、現代思潮社)という知駆的なテ一ゼを残しました。これなど、「複雑系のパラダイム」の原型として、もっとスポットが当てられてよいと思います。
 サドーヴニチィ 遺伝子工学の場合、さまざまな危険性から人間を守る余地は間接的にさえ残されていません。それは、生物の進化に対する制御不可能な直接干渉だからです。
 今日、人工的な細胞増殖がどんな結果をもたらすのかは、まったくわかっていません。生物進化のプロセスは長くてゆっくりとしたものです。人工的につくられた生物と、自然の生物との関係がどうなっていくのか、だれにもわからないのです。人工細胞が人間をはじめ生物にとって「健全な」ものなのか、病原体となってしまうのか、あるいは人間の遺伝子型の進化を助けるのか、逆に異常をきたさせるのか……今のところ、こういった疑問に対する解答はありません。しかし、分子生物学という現代科学が、生命操作という人間の聖なる領域にじかに踏み込んでしまったということは、まぎれもない事実です。ですから、科学は未知の道徳規範を必要とする質的に新しい段階に入ったのです。
 こういったことを背景にお聞きしたいと思います。現在のグロバリゼーション(地球一体化)は、進化をつねに早め、追い立てることを是としていますが、そのようなグローバリゼーションが進むことによって人類ははっきりとした納得のいく答えが得られると思いますか。ご意見をお聞かせください。
 池田 グローバリゼ―ションは、情報や技術の飛躍的な発展をバネにして、政治、経済、文化、学術等のあらゆる面で、現代のグメガ・トレンド(巨大な時流)になってきています。そこには、あまりにも未知の領域、危険な領域が多く、随所に黄信号、赤信号が点滅しているのではないでしょうか。
 ご指摘の分子生物学、生命科学の提起する問題は、その最先端の事例といえましょう。
 たとえば、近年のクローン羊やクローン牛など哺乳動物のクローニングの成功は、『エフゲーニー・オネーギン』が書けるかどうかは別にして、ある種のクローン人間の誕生を、現実の問題として浮上させました。世界の大勢は、今のところクローン技術の人間への応用には、反対のコンセンサス(合意)が形成されており、各国では、この問題を含め生命科学のあり方をめぐる倫理委員会などによって原則を定め、監視の目を光らせているようです。
 サドーヴニチィ そのとおりです。
 池田 とはいえ、油断はできません。いったん技術が開発され、かつ自分の遺伝子、自分のコピーを残したいという人間の欲望が続いている限り、いつ、どこで、だれがタブーを犯してしまうかは、予測の限りではないからです。
 また、欲望という点からいえば、バイオテクノロジーの産業化はどこまで許されるのか、それは、本来目的であるべき生命の手段化にならないのか、ある程度の手段化はやむをえないとすれば、人間、動物、植物を含めその線引きをどうするのか、それは、生命の尊厳の理念と整合性をもつのか等まざまな問題が派生してきます。
 いずれも、二十一世紀文明の命運を左右しかねない重要な問題群です。
 サドーヴニチィ そのとおりです。だからこそ私は、科学が「人間の内面世界の解明」によって対応が迫られる「質的に新しい段階」に入った、と申し上げているのです。
 池田 人類がかつて遭遇したことのない難問ですので、その道の専門家が委員会などを通して慎重に検討を加えることが当然必要です。また重要なことは、検討の内容、問題の所在がつねにオープンに、市民の監視下におかれていなければならないということです。フランスの集団遺伝学のパイオニアの一人であるアルベール・ジャカールは、それを「国民の道徳を国民自身が決める」「倫理学のデモクラシー」(アルベール
 ・ジャカール、ユゲット・プラネス『世界を知るためのささやかな哲学』吉沢弘之訳、徳間書店)と呼んでおります。
 そうした市民意識の向上こそ、バイオの領域に限らず、テクノロジーの暴走を抑制し、社会を健全な方向へと導いていくうえで、第一義的な重要性をもっています。シビリアン・コントロールは、軍事面にもまして、この分野で強めていかねばなりません。そこで、倫理の確立と欲望の制御ということが、喫緊の文明論的課題となってきます。欲望の解放が近代文明発展の大きな力となったことはいうまでもありませんが、このまま進めば、早晩、破局を余儀なくされるであろうということも、現代文明の置かれた境位であります。そうした地球的規模のコンセンサスづくりに、一刻の猶予も許されないゆえんです。
 私は、一九九八年の「SGI(創価学会インタナショナル)提言」(「万年の遠征――カオスからコスモスへ」。本全集第101巻収録)で牧口初代会長の「他のためにし、他を益しつつ自己も益する方法」(『牧口常三郎全集』2、第三文明社)、およびトインビー博士の「おのれも生き、他人も生かすという心がまえ」(秀村欣二・吉沢五郎編『地球文明への視座』経済往来社)等の先達の言葉をもって訴えました。また、一昨年(一九九九年)の提言(「平和の凱歌――コスモロジーの再興」。本全集第101巻収録)で、知友であるへン
 ダーソン博士の持論である「皆が勝者となる世界(Win Win World)」構想に賛同したのも、他を思いやり、自らの欲望やエゴイズムを制御していくことこそ、市民意識の成熟しゆく土壌であると信ずるからであります。
9  人間精神を腐蝕させるハイテク兵器
 サドーヴニチィ その意味では、生物進化への干渉だけが、複雑な未来の文明に立ちはだかる未知の問題ではありません。それに劣らず予測のむずかしいのが、情報化の問題です。
 「情報化社会」への移行期といわれる二十世紀末に、おいては、池田博士もいわれたように、国家が経済力増強のために知識を利用するようになりました。知識は今や、秘すべきものとなってしまいました。いわゆる「ノウハウ」や企業秘密、国家機密です。そういったものは、他の国が利用して優勢に立たないよう、厳重に防護されています。もちろん、いい意味での競争原理が働く場合もあります。しかし、ここで私が言おうとしているのは別の観点です。知識が他国に害を及ぼすために利用される、しかも、それが武力をともなう場合もあるということを問題にしているのです。
 近年をふり返るだけでも、近代的な知識を駆使したハイテク兵器をもっ国々が、よってたかつて他の独立国家に対する殺戮をしかけるために、その武器を使用するという例を、私たちは目の当たりにしているのです。しかも、そういった行動は「人道的干渉」という名称まで、すでについています。
 池田 ロシアの立場は、私も承知しています。ハイテク兵器による攻撃は、味方の人的被害は皆無に近いにもかかわらず、敵方には甚大な被害を与え、またその惨状(たとえば死にゆく者、傷つく者の苦悶)に直接に接しないという点で、きわめて非人間的だと思います。もちろん、兵器に人間的、非人間的の区別などありませんが、それにしても不気味で、勝者の人間精神をも腐蝕させ、破壊してしまう。そうした状況は、離人症や人情不感症などの心の病の温床となってしまいます。
 サドーヴニチィ 「知識と道徳性」の問題について、ロシアのすぐれた歴史学者V・O・クリュチェフスキーの言葉がよく事の本質を言いあてているのではないかと思います。
 「学問と知識を混同することがままある。これはとんでもない誤解である。学問は知識にとどまるものではなく、意識そのもの、つまり、知識を用いる力である」
 これはもう、「知恵」の領域に近づいているといえるでしょう。
 池田 なんのために知識を使うのかを、はっきりさせないといけないということですね。そこに知識を使いこなす知恵が必要となるわけです。
 サドーヴニチィ ええ、そのとおりです。このクリュチェアスキーの考えの根拠もそこにあるのです。このような問題提起とアプローチは、「科学的実証主義」として知られています。科学的実証主義というのは、「真理」と「人生に有益なもの」との間に境界線を設けようとする考え方です。
 私は、この科学的実証主義の研究がどのように進んでいるのか、専門外なので詳しくは知らないのですが、本質的には、「学問すること」は、「人間にとって必要で有益な知識」の母体には、必ずしもならないという主張であると理解しています。
 例を挙げてみましょう。学術会合でよくあることですが、議論が過熱してくると学者たちは、それほど重要でもなく、なんの現実的価値もない問題に熱中してしまうのです。たとえば、量子力学の解釈や、宇宙の膨張論と静止論では、どちらのモデルがより科学的に証明できるか、といった議論です。科学的実証主義の見地からすれば、このような議論は、とりあえずは無用の議論です。
 池田 諸学をすべて渉猟してきたにもかかわらず、「おれはちっとも賢くはなっていない」(『ゲーテ全集』2、大山定一訳、人文書院)――ゲー1テ描くところのファウスト博士の慨嘆は、決して”今は昔”のことではない。
 サドーヴニチィ そうなんです。ただ、そういってしまうと、学問そのものが成り立たなくなってしまいます。そもそも古代ギリシャ・ローマでは、「学問的な理論」(哲学すること)と「実用的な知識、技術」とは、明確に一線を画す別々のものだった事実もあるわけですから。
 ノーベル化学賞受賞者のイリヤ・プリゴジン博士はこういっています。
 「古代人にとって、自然は知恵の源だった。中世における自然は、神を想起させた。近世になって自然は何も意味をなさなくなり、カントは科学と知恵、科学と真理を完全に切り離して考える必要があると結論した。この分断はもう二百年間続いている。今やそれに終止符を打っときが来た」
 I・プリゴジンがいうように、たしかに科学と知恵、より正確には(私の意見では)科学的知識と人間の知恵とは切り離されたままになっています。
 池田 プリゴジン氏は、古代や中世に存在していたホーリスティック(全体的)な自然観、宇宙観を、現代科学の最先端から再構築していこうとする壮大な営為に挑戦しておられる方ですね。私は、氏の「この新しい状況は、科学と他の文化的な人間の営みの間に新しい橋渡しをもたらすことになろう」(『存在から発展へ』小出昭一郎・安孫子誠也他訳、みすず書房)との言葉に、満腔の賛意を表します。それは、知識と知恵の架橋作業に挑戦している我々の試みと、深い次元で志を一にしているからです。

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