Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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偉大なる埼玉の友へ贈る 激戦に輝け 黄金の人生

2003.12.6 随筆 新・人間革命6 (池田大作全集第134巻)

前後
1  多くの苦悩の友が、涙ながらに真剣に生き抜いている姿を見て、私は断固として信仰の尊さを深く知った。
 悲しみに悩み苦しんでいる幾多の人びとのために、名誉ある冠を捨てて、私たちは決然と、真実の人間の旗を振りながら立ち上がった。
 真実に生きる人生には、孤独になる時もある。正義には、批判の嵐もある。
 たとえ、深き苦悶が夜々に続いたとしても、私は悲哀を乗り越えながら、爽やかな勝利の美しい道をつくるのだ。
2  私は走った。埼玉へ!
 私は走った。愛する埼玉の同志のもとへ!
 それは、一九九一年(平成三年)の師走の八日のことである。
 あの日顕宗から「破門通告書」が送りつけられて十日。わが創価学会が、極悪の邪宗門の鉄鎖を、奮然と断ち切った、まさにその時であった。
 「魂の独立」を勝ち取って最初の記念すべき本部幹部会は、いずこで行うべきか。
 私の心は、一点の曇りもなく定まっていた。
 埼玉しかない! 埼玉こそ、世界広宣流布へ飛翔しゆく新たな起点とするのだ。
 埼玉文化会館を埋め尽くした友は、意気軒昂であった。会場いっぱいに、創価の三色旗の万波が揺れた。青年部の合唱団、音楽隊、鼓笛隊の友が、「ルネサンスヘの出航」等の歌を力強く歌い上げてくれた。
 あの凛々しき青年たちの勝利の歌声は、今も私の胸にこだましてやまない。
 わが同志は、宗門の陰謀にも微動だにしなかった。
 学会は正しい!
 埼玉は強い!
 大埼玉が盤石であれば、何も恐れるものはない。私は本当に嬉しかった。
 この埼玉での本部幹部会、埼玉総会の模様は、SHN(SGI・ヒューマン・ネットワーク)の衛星中継を通して、日本全国の百万の友に生き生きと伝えられた。
 いうなれば「鉄桶の埼玉」の呼吸と息吹が、そのまま全国・全世界の創価家族の「異体同心」の大団結に広がっていったのだ。
 この日、私は、甚深なる「下種仏法」の意義を踏まえ、同志に呼びかけた。
 「一句でも仏縁を結ぶならば、その人の胸中には、永久に消えることのない成仏の種が確実に植えられるのだ。 ゆえに、勇気をもって語れ! 友情の縁を結べ!」
 こうして新しき推進力となった「会友運動」が、この日この時から、埼玉を発火点に爆発的に広がっていった。それが、今日の未曾有の大発展につながったのである。
 ともあれ、この十二年――。
 大埼玉の同志は、本当によくぞ勇敢に戦ってくれた。あらゆる戦いにあって、首都圏の勝利の原動力となって、破邪顕正の不滅の歴史を刻み残してくれた。私は、全埼玉の同志の健闘を心から労い、讃えたい。
 埼玉には、社会の閉塞感を打破する新鮮な発想がある。湿った空気を一変させる朗らかさがある。いかなる状況であれ、断じて変革の炎を燃やし、新時代の扉を開いてみせる! これが、新生・埼玉の魂だった。
3  「純金は火によって精錬される」
 「まことの金は試金石に会いてられる」(『レオナルド・ダ・ビンチの手記』上、杉浦明英訳、岩波文庫)
 ルネサンスの大巨人レオナルド・ダ・ビンチの深き見識である。
 「石はやけばはいとなる金は・やけば真金となる」との御聖訓にも通ずる言葉といってよい。
 レオナルドが、その創造的な果てしなき人生の総仕上げの日々を、フランスのロワール地方で送ったことは大変に有名である。
 私も、青春時代から夢見ていた、この彼の最期を迎えた館を、フランスの青年と一緒に訪ねた。
 「創価のロワール」である、わが埼玉の戦友もまた、永遠に輝きわたる黄金の魂を光らせている。
 黄金なればこそ、断固として、いかなる試練にも耐えられる。黄金なればこそ、光り輝いて、試練に立ち向かうのである。黄金は、どこまでいっても黄金である。
 炎に鍛え上げられて、いよいよ輝きを増していくのが、真金の英雄なのだ。
4  埼玉といえば、幾重にも思い出は尽きない。一九五〇年(昭和二十五年)、わが師・戸田先生の事業が窮地に陥り、先生も学会の理事長を辞められた大苦難のころであった。
 給料は出ない。社員も次々に辞めていく。私はただ一人、先生にお仕えしていた。
 戸田先生は、広宣流布の大師匠であられる。この先生を護ることこそが、学会を護ることであり、更に大仏法の命脈を護ることであると、私は死力を尽くして奔走した。
 その日、先生と私は、埼玉の大宮方面へ、打開策を求めて足を運んだが、奮闘むなしく不調に終わった。
 帰途、先生と荒川沿いの土手を歩いた。
 天座の星々は、あまりにも美しかった。負け戦の師弟の姿を見守り、輝いていた。
 すり減って穴のあいた私の靴の紐が、ほどけてしまった。私は結び直しながら、師の心を少しでも和らげたいと思って、当時、大変に流行していた歌を歌った。
 その歌の「星の流れに……こんな女に誰がした」というところを、「こんな男に誰がした」と、愉快に歌った。
 すると、師匠である先生が笑みを浮かべながら、一言、「俺だよ!」と言われた。
 生きるか死ぬかという苦難の渦中である。
 私は安心した。いな、幸福であった。
 先生さえ健在なら、何も心配ない。いな、だからこそ、弟子である私は、断じて戦い抜くのだ! 今度こそ、断じて勝ってみせるのだ!
 この光景は、今でも忘れることのできない、埼玉の満天の星空の下で飾り残された、師弟の劇であり、歴史である。
 先生は、よく私に語られた。
 「人生、行き詰まった時が勝負だぞ! その時、もう駄目だと絶望し、投げやりになってしまうのか。まだまだ、これからだと、不撓不屈で立ち上がるのか。この一念の分かれ目が勝負だ!」
 そう言われながら、私の精神に深く厳として打ち込んでくださった。
 「いいか、大作、途中に何があろうが、最後に勝て! 断じて勝て! 最後に勝てば、全部、勝利なのだ」
 私には、一日一日が激戦の連続であった。
 瞬時も、感傷にひたる暇など、なかった。
 師のために、億劫の辛労を尽くしゆく苦闘の連続の胸中にこそ、永遠に常勝不敗の大城が築かれていることを、私は深く実感したのである。
 厳然たる仏法の因果の理法に照らして、未来の栄光の大果報を、私は師弟の魂の響き合いから、強く確信した。
 戸田先生と私は、この悪戦苦闘の荒れ狂う嵐を突き抜けて、翌年の晴天の五月三日、第二代会長就任の、晴れ晴れとした勝利の朝を迎えたのである。
 「人ははねかえされたときに、はじめて自己の突進力の全容を知るのだ」(『ジョゼフ・フーシェ』吉田正己・小野寺和夫訳、『ツヴァイク全集』11所収、みすず書房)
 これは、「迫害と人生」を洞察したオーストリアの作家ツバイクの叫びである。
 彼は、幾多の歴史的事例を挙げた。
 ――大詩人ミルトンは視力を失い、ダンテは故郷を追放された。楽聖べートーベンは聴力を失い、文豪ドストエフスキーは懲役に処せられ、そして、作家セルバンテスは牢獄に囚われた、等々と。
 艱難と闘い抜いてこそ、初めて偉大なる生命の底力が開花されるのだ。最大の試練の時に、最大の力を奮い起こした人間が勝つのだ。ここに、峻厳なる歴史の法則がある。
 あのアメリカ公民権運動の指導者キング博士もまた、そうであった。(以下、『黒人はなぜ待てないか』〈中島和子・古川博巳訳、みすず書房〉から引用・参照)
 一九六二年、ジョージア州のオールバニーでの運動は、所期の目的は達成できず、不本意に終わった。「非暴力的抵抗は廃物化す」という中傷も、浴びせられた。
 だが、キング博士と同志は、毅然と叫んだ。
 ――我ら正義の市民の連帯は、傲れる邪悪よりも絶対に強力である、と!
 博士は、この乱戦の経験から、幾重にも教訓と知恵を引き出し、青年の力を糾合して、即座に厳然と新しい目標に立ち向かったのである。
 その新たな戦野は、当時、最も差別の激しかった都市、バーミングハムであった。博士は、そこで、偉大なる歴史に残る「嵐のような拡大運動」を起こしていった。
 そして一九六三年の五月、見事に永遠に輝く勝利を勝ち取ったのだ。
 この間断なき反転攻勢こそが、同年八月の、二十五万人による「ワシントン大行進」の偉業へと連動していったのである。
5  私は若き日より、少人数ではあったが、学会を支える埼玉の同志と共に、そして広布拡大の同志と共に、御書を拝し戦ってきた。
 埼玉は、「悪を滅し善を生ずる」如説の修行を繰り広げてきた、私にとって大切な大切な忘れ得ぬ法戦場である。
 戦いは粘りである。忍耐である。執念である。
 蓮祖は仰せになられた。
 「今に至るまで軍やむ事なし」、「日蓮一度もしりぞく心なし」、そして「いまだこりず候」と。
 更にまた、勝利の要諦は、一にも二にも、「団結」であり、「心を合わせる」ことだ。
 「異体同心なれば万事を成し同体異心なれば諸事叶う事なし」と説かれる通りである。
 私が、「鉄桶の団結」という指針を最初に訴えたのは、三十年前の夏、埼玉の最高会議の席上であった。
 そして引き続いて、私は、埼玉の皆様方に、こう団結のメッセージを贈った。
 ――仏法は、亀裂が生じたら、もはやそれ自体、地獄である。戸田先生は『学会に派閥を作ったら、その人間は大悪人である』と遺言された。
 「団結」の二字の実践が、わが創価学会を世界的にしたのである。この原理を生涯、忘れないでほしい、と。
 何人かの裏切り者が、埼玉から出た。ご存じの通りだ。
 ナチスと戦ったフランスの詩人・エリュアールは叫んだ。
 「勝ってかれらに罰をやれ、そういう日が来たんだ」
 これは、私が青春時代から好きであった言葉である。
 ともあれ、永遠に崩れざる「難攻不落の大埼玉」を断固として築くことを、私は祈りに祈ってきた。ここ埼玉にこそ、首都圏を完璧にし、創価学会の未来を盤石にしゆく急所があるからだ。
6  わが創価大学の本部棟からは、洋々たる武蔵野の大地が一望できる。
 特に、海外の賓客を迎える最上階のロビーから見つめる埼玉の天地は、何と光り輝いていることか。狭山丘陵には、銀色に映えて西武ドームが見える。その前身の野球場は、二十一年前、「世界平和文化祭」の舞台となった。
 創価大学のある八王子からほど近い埼玉の地に、待ちに待った研修道場も、遂に誕生する運びとなった。
 私も、この研修道場を訪問して、二十一世紀の大埼玉の人材城の構築に総力を上げていきたいと願っている。
 中国革命の父・孫文は、先輩の指導者たちが仮に年とともに消えたり、動揺したとしても、自分には多くの青年の弟子がいると達観していた。
 「ただ青年たちだけが、決然として一切を克服できる」(『宋慶齢選集』仁木ふみ子訳、ドメス出版)――これが、孫文の期待であった。
 焦点は、青年である。
 私が、この埼玉の「随筆」を書き起こしたのは、十二月二日である。
 それは、一九六四年、沖縄の地で小説『人間革命』の執筆を開始した日である。
 以来、自らに課したペンの闘争を止めたことは、今日まで一日たりともなかった。
 停滞と逡巡は、敗北であるからだ。
 嫉妬に狂った、中傷批判が何だ。
 絶えざる前進と出発の生命にこそ、人間の真実の栄光と勝利が待っているのだ。
 ゆえに私は、今日この日、わが深く信頼する埼玉の同志と共に、新しき黎明を心に抱きながら、強き決心で筆をとった。
 「さあ、反撃だ!」
 南米の解放者シモン・ボリバルは、同志に叫んだ。
 「完勝あるのみ!これぞ、わがモットーなり」と。
 日本一の断固たる拡大をされた、誇り高き埼玉の勇敢なる同志よ!
 堂々と胸を張り、すべてに勝ってくれ給え!
 広布のために!
 同志のために!
 創価のために!

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