Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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創価の永遠の都 正義の大関東よ 断じて勝て

2003.11.2 随筆 新・人間革命6 (池田大作全集第134巻)

前後
1  日蓮大聖人は、声高らかに御聖訓を残された。
 「心ある人びとは、自分たちのために日蓮はこんなにも苦しんでくれたのかと感謝すべきである。もし恩を知り、心ある人びとならば、日蓮が二つ打たれる杖の一つは代わって打たれるべきである。しかし、そうではなく、かえって大恩ある日蓮に怨をなそうとすることは、まことに理解できないことである」(御書一四五〇ページ、通解)
 この「弥三郎殿御返事」の一節を、私は、生涯にわたって忘れることはできない。戸田先生のお宅で、この御書をご一緒に拝読し、滂沱の涙を流したものであった。
2  "関八州を制する者は、天下を制す"とは、あまりにも有名な歴史的言葉である。
 かつて、箱根の関から東に広がる関東の八カ国(相模・武蔵・上野・下野・安房・上総・下総・常陸)は、関東八州(関八州)と呼ばれ、政治上も、軍略上も、まことに重要な大地であった。
 特に、徳川家康が関八州に君臨し、武蔵の国の江戸に、政治の中心地たる幕府を開くに至って、関東は天下を制する急所となった。
 この関東の重要性は、首都・東京を擁する今も、全く変わっていない。
 わが創価の広宣流布の前進と拡大を凝結してみる時に、またこの方程式は一致する。
 東京即関東、関東即東京の前進と拡大が、日本全国の人材と陣営と広宣流布の命脈を決定していくことは論をまたない。
3  それは、忘れることもできない、一九七七年(昭和五十二年)の一月三十日のことである。
 寒い日であった。この日、関東の本部長が、遠くから、信濃町の学会本部に、雄々しく集ってこられた。関東方面の本部長会が開催されたのであった。
 若き魂を燃やした私は、誠実に、ただ誠実に指導しなければ、この方々に申し訳ないと思い、出席した。
 彼らは、交通費も全部、自分の負担であった。責任を胸に秘めながら、真剣に走り来った、この広布の指導者たちの実像を見つめ、私は涙が出た。
 皆、商売がある。皆、仕事がある。皆、生活がある。
 不景気のなかを、何の代償も求めず、いな、自分自身を学会に捧げ、全家族も、全財産も顧みず、仏意仏勅の創価学会を護るために、発展させるために、馳せ参じてくださったのだ。なんと尊い方々であるか。なんと頼もしき、尊貴な方々であるか。
 折伏すれば必ず非難中傷があるのは覚悟の上で、かくも厳然と自らの信念のままに走ってくださった創価の宝である。関東の本部長たちを見つめながら、私は心のなかで泣いた。
 ”学会は強い!””学会は必ず発展する!”と。
 私は、ナチズムに激しく抵抗した、かのフランスの作家ジッドの言葉を思い出すのであった。
 「魂はその幸福を、一般的な《幸福》のなかにではなく、そのはげしい活動感のなかに見いだしてほしいものだ」「苦悩は魂を溌刺とさせ、意欲を激発させるからだ」「強烈な生、これこそすばらしいものだ」(『アンドレ・ワルテルの手記』若林真訳、『世界文学全集』16所収、河出書房新社)
4  "一騎当千の勇将"である大関東の本部長が、わが本陣に勢揃いするのは初めてのことであった。重責を背負った壮年部も、"広宣"の一切を背負った婦人部もいた。闘魂に燃える男子部も、聡明にして愛くるしい女子部も、真剣に、そしてまた使命に燃えて集っていた。
 「今日を第一回として、毎月、関東本部長会を開いていこう! 私も必ず出席させてもらいます!」
 私の呼びかけに、大拍手が起こり、皆の顔に明るい、そして決意あふれる光が走った。
 当時、学会の「関八州」である、この関東方面は、埼玉・千葉・茨城・群馬・栃木・山梨の六県の体制であった。(=一九九九年八月から、山梨は第二総東京に所属)
 ただ、一つの方面組織といっても、各県の連合体の性格が強かった。いわば、方面を貫く、太い精神の背骨が定まっていなかったのだ。
 埼玉は埼玉として、千葉は千葉として、各県の伝統を生かしながら、「大関東は一つなり」と、がっちりとスクラムを組むならば、創価の本陣は、さらに大盤石となる。東京・関東一体の、難攻不落の広宣流布の大城が構築されゆくことは、絶対に間違いないと確信した。
 未来永劫に栄えゆく、人間主義の拡大が広宣流布であるからだ。
 この関東本部長会は、一回一回、意義深き、いな慈悲深き師弟の歴史を刻みながら、翌年の昭和五十三年の秋まで、実に通算十八回にわたって開催された。
 信濃町の学会本部はもちろんのこと、立川、八王子、さらに山梨へと、私の転戦する先々に、関東の本部長は勇んで馳せ参じてくれた。
 私も時間をこじ開け、この最も重要な本部長会に必ず駆けつけるように努力した。
 世界的な経済学者のガルブレイス博士と初めてお会いした直後に、関東本部長会へ飛び込んだこともあった。
 私は真剣であった。必死であった。同志の完勝のためには、全く休息はなかった。
 戦う関東たれ! 連戦連勝の大関東たれ!
 私は、常在戦場の覚悟で、不滅の「関東精神」――すなわち「敢闘精神」を刻み込んでいったのである。
5  「敢闘精神」とは何か。
 第一に、「師弟直結」で戦う精神である。
 関東本部長会は、私が会長を辞任する前年まで続いた。私と第一線の会員の心の絆を断ち切ろうとする、あの宗門の卑劣な離間工作の嵐が吹き荒れていった時期である。
 私は、暗記していた、あのイタリアの革命家マッツィーニの言葉を思い出した。
 「同胞の善のために到るところで不正や誤謬と戦うことは権利であるのみならず義務である」(ボルトン・キング『マッツィーニの生涯』力富阡蔵訳、黎明書房)
 烈風が強まるにつれ、私の決意も深まっていった。
 "私は断じて戦い、勝ってみせる。勝つことが正義である。いかなる嵐があろうとも、絶対に崩れぬ、関東の光り輝く師弟城を築いてみせる!"
 私は、断固として行動を開始した。行動のなかにしか、真実の信仰は起こりえないのだ。
 これは、初代会長・牧口先生がいつも仰せになられた確信の指導であった。
 広布の途上には、必ず師弟の絆を寸断し、破壊しようとする、狡猾な魔の攻撃が企てられる。その本質を、鋭く見抜かねばならない。
 御書に「かたきをしらねば・かたきにたぼらかされ候ぞ」と説かれているのは、敵を知れとの大聖人の厳しき戒めである。
6  第二に「敢闘精神」とは、開拓の精神である。
 宮廷や大伽藍が並ぶ京都や奈良が、政治や文化の都であった時代には、関東平野は、あちこちに葦原が広がり続く未開拓の天地であった。
 しかし、関東人には「都人よ何するものぞ!」という誇りが、強く高くあった。彼らの無骨さをあざ笑う者など歯牙にもかけず、決然と現実の大地を切り開いていく、屈強なる開拓魂があった。
 ともあれ、こうした見栄も格好もかなぐり捨てた、不撓不屈の負けじ魂が、東京・関東の土台を築いてきたことは、歴史的な事実である。
7  それは、一九七八年(昭和五十三年)の二月の関東本部長会でのことである。
 私は、信仰の喜びと使命を和歌に託し、"広布の万葉集"として、後世に残すことを提案した。有名な『万葉集』を彩る、関東の歌ともいうべき「東歌」のことが念頭にあったからである。
 この五年前、私は、埼玉の上尾で行った県幹部総会で、東歌に触れ、埼玉をはじめとする「東国」の豊かな底力を讃えていた。ここ埼玉はもちろん、伊香保、武蔵野、常陸……今に続く地名とともに、東歌からは、東国の大地に生きる庶民の実像が、千二百余年の歳月を超えて鮮やかに立ち上ってくるのであった。
 人間の真実の声ほど力強いものはない。生き抜く民衆の叫びほど不滅なものはない。
 私が"広布の万葉集"を提案した当時、埼玉をはじめ全関東の各地でも、わが学会員の発言をいちいち監視するような、陰険な坊主たちの言動が目立ち始めていた。
 恐るべきことである。考えもしなかったことである。後世の歴史家が、必ずやこの悪逆極まる坊主の恩知らずの行動に対して、鉄槌の文字を書き残していくであろう。
 「坊主が何と言おうと、我らは、学会のなかで仏法に出あい、信心の偉大さを知ったのだ!」
 これが、わが同志の生命の底からの実感であった。
 関東の本部長たちは、その歓喜と感謝を和歌に託し、率直に表現していった。それが「広布万葉の譜」に結実したのである。
 学会は正しい! 学会に仏法の真実がある!
 邪悪な、陰険極まる嫉妬の本性を暴露した坊主どもに対して、我らの正義の勝鬨の大反撃は堂々たるものであった。その誉れの先駆の道を開いたのが、わが大関東であったのである。
 我らの「敢闘精神」とは、何ものをも恐れぬ師子王の心である。
 人間は、誰しも未知の領域に足を踏み入れることに躊躇するものだ。「もう限界だ」「もうこれでいい」と感じる地点がある。だが、そこで逡巡しては何も生まれない。
 恐れるな! 臆病の壁を破れ! 限界かと思う壁に突き当たった時が、本当の勝負だ。そこに、赫々たる勝利が待っている。
 師子王の生命には、さらに創価の師弟には、絶対に行き詰まりはないのだ。また、あってはならないのだ。
 「敢闘」とは、「敢えて闘う」と書く。「敢えて」挑戦するのだ。「敢えて」一歩を踏み出すのだ。そこに、豁然として、大平野の如く自分の境涯が広がっていくことを忘れまい。
 三世の生命を、勝利と栄光で飾りゆく、わが大関東の同志たちよ、さらに愉快に、一歩前進して、大いなる完勝の歌を、栄光の歌を、歌いゆこうではないか!

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