Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

民衆の歓喜の港友情の街 創価の完勝へ 兵庫の船出

2003.10.27 随筆 新・人間革命6 (池田大作全集第134巻)

前後
1  秋の一夜。自宅の縁側で、懐かしい歌を妻と歌いながら、わが師である戸田城聖先生を偲んだ。その歌とは「白菊の歌」であった。明治時代に作られた商船学校の寮歌である。
  ♪かすめるみ空に
       消えのこる
  おぼろ月夜の秋の空
  身にしみわたる夕風に
  背広の服をなびかせつ(作調・神長瞭月)
 この歌を、私は幾たびとなく、戸田先生の前で歌った。
 先生は、大事な来客との会談の席に、必ず私を連れていかれた。ある来客には「親子ですか」と言われたこともある。来客を歓待され在がら、戸田先生はよく言われた。
 「大作、歌を歌いなさい。お客さんにも喜んでいただけると思うから」
 私が「白菊の歌」を歌い始めると、師も、客も、じっと耳を傾けておられた。
 歌は二番、三番と続いた。長い歌であったようだけれども、私は三番までしか知らなかった。
  故郷の空を眺めつつ
  ああ、父母は今いずこ……
 ある日ある時、先生は関西の会長室で、この歌を聴き終わるや、ぱっと顔を上げて、「この歌の心は何だと思う」と尋ねられた。
 私は、即座に申し上げた。
 「この歌は、海軍の士官学校ではなく、もともと民間の航海士と機関士を養成する、商船学校の歌です。”戦争のためではなくして、平和のために、七つの海へ! 小さな島国の権威がなんだ! 我らは真の海の英雄として、世界と友情を結びゆくのだ!”──そうした心意気が伝わってきます」
 師は、黙って頷かれた。
 先生は、いわゆる流行の歌を歌っても、鋭く「その歌は嫌だ。俺の前では、絶対に歌うな!」と厳しく叱るのであった。
 意義のある使命の歌を歌うと、「大いに歌って、活発に戦い抜くことだな」と言われた。
 一九七八年(昭和五十三年)に作った関西の歌「常勝の空」は、私が戸田先生にお聞かせしたかった、第一の歌である。
2  広宣流布とは、民衆の幸福のため、世界の平和のための正義の大航海である。
 航海には「港」が必要だ。
 わが創価の大船団が「完勝」の大海原へ船出する港は、どこであろうか。
 その重要な母港こそが、大兵庫であることは、議論の余地はない。
 大兵庫は、国際貿易港・神戸を擁している。そして、南北ともに海に面し、陸路と橋で、中国とも、四国とも、結ばれている。この水陸の十字路こそ、人間と人間の交流の起点であり、巨大な母港にふさわしい。
 港には壁がない。海に向かって開かれ、陸に向かっても開かれている。垣根を作らぬ人と人との出会いがあり、交流がある。だからこそ、人は港を愛し、港に集い、港に憩うのである。
 この繁栄する港のにぎわいそのままに、千客万来、隆々と発展しゆく広宣流布の偉大な母港こそ大関西であり、わが兵庫の天地だ。
 この地で戦う、わが同志は、来る日も来る日も、信心のエンジンを全開させ、活気あふれる庶民の大海原に飛び込んできた。だから、学会は伸びた。だから、勝ってきたのだ。
3  我らは、最善の人生を生きるために、妙法を信じているのだ。
 帝王にも勝る、すばらしき、比類なき人生を飾るために、仏法を行じているのだ。
 好智にたけた狐のごとき人生はまっぴらだ。我らは、何も恐れない!
 誰が来ようが、誰に何を言われようが、「来るなら来い!」と胸を張って進む。
 「彼等は野干のほうるなり日蓮が一門は師子の吼るなり」である。
 一九六二年(昭和三十七年)の一月二十四日、あの大阪事件の無罪判決の前夜、私は尼崎にいた。尼崎市体育会館を埋め尽くした関西男子部の広宣の精鋭たちに、私は叫んだ。
 「仏法は、勝負です。私たち地涌の菩薩は、大聖人の弟子として、その自覚と信念に立って、不幸な人びとの味方となっていくのです。そして本当に、全国民が、すなわち日本国中の人びとが、安心して幸福に暮らしていける世の中を築き上げるのが、私たちの使命なのであります」
 法華経には、「地涌の菩薩」の威徳を、端的に「其の心に畏るる所無く」(法華経四七二三ページ)と表現されている。「畏れる」とは、人との聞に壁を作る、臆病な心といってよい。
 「地涌の菩薩」とは、広宣流布のために、見栄や気取りをかなぐり捨てた「対話の勇者」の異名である。
 あらゆる人と勇んで会ぃ、誠実に、賢く、粘り強く、語って語って語り抜いていくことだ。その辛労のなかにのみ、地涌の菩薩の偉大な生命が開花するからである。
 会うことが、「人間革命」の戦いである!
 語ることが、「広宣流布」の第一歩である!
 これこそが自身を菩薩の境産に高めゆく、至極の「人間修行」であり「仏道修行」なのだ。
4  思えば、神戸には、多くの偉人たちの不朽の対話が刻まれている。
 その一人に、近代中国の大指導者・孫文先生がおられる。亡くなる四カ月前に神戸で講演を行った孫文先生は、日本の行く末を憂えて、厳しく問い、訴えた。(一九二四年)
 ──日本は「西方覇道」の道ではなくして「東方王道」の道を行くべきである、と。(安井三吉『孫文と神戸』神戸新聞総合出版センター、引用・参照)
 それは、端的にいえば、国家主義、権力主義ではなくして、人間主義、人道主義の進路を選択することである。
 しかし、傲慢な軍国主義の日本は、この賢者の警告を聞かず、アジアの民衆を蹂躙し、やがて日本の民衆をも、その犠牲にしていったのだ。
 当時、日本の侵略主義に異議を唱えていた孫文先生は、日本の政府から悪感情をもたれていた。そのなかにあって、開かれた神戸の人びとは、彼を深く理解し、熱烈に歓迎したのである。神戸市内には、孫中山記念館が建ち、一代の革命児の生涯が顕彰されている。
 民衆の側に断固と立ち、邪悪と戦った人が、永遠に賞讃される。これこそ、歴史の公平な審判であるのだ。「人民こそ皇帝なり」とは孫文先生の信念であった。
5  素敵な衣装で身を飾ったからといって、それは幸福の衣装ではない。
 心に、いかなる高貴な、聡明な衣装を着飾るかによって、真実の人間として、王者にも王妃にも勝る、仏の境涯の勝利者となるのである。
 御聖訓にも、「我れ等は仏に疑いなしとをぼせば・なになげきか有るべき、きさき皇妃になりても・なにかせん」と仰せの通りである。
 著名人でありながら、永劫にわたる地獄の責苦に遭う原因をつくりゆく人間を見ると、胸が痛む。銀や黄金の財宝よりも、永遠に光り輝く不滅の幸福の心を磨く信心をしていることが、人間にとって最高最大の栄光の道なのだ。
 私は大関西に、いかなる邪悪な攻撃にも崩れない、民衆の王者の大城を築いてきた。
 とくに兵庫には、あの第一次の宗門事件の暗黒を破る、私と同志の、重要な正義の戦いの歴史が刻まれている。
 一九八一年(昭和五十六年)の三月、私は約一カ月に及んだ北・中米への歴訪を終えると、まっすぐに関西入りした。
 当時、数年にわたって、私と学会を襲った、狂気のような迫害の嵐も、また、これ以降の数々の弾圧についても、その謀略の首謀者と実体が、昨今、明確になってきた。皆様も、ご存じの通りだ。邪悪な連中の「無尽の秘計」も、「根露るれば枝枯れ」との仰せ通り、完全崩壊していったのである。
 私は決心した。
 ”今こそ、一騎当千の使命を燃やし、死力を尽くしている同志のなかに飛び込むのだ! 断じて崩れぬ創価の城を、そして、永遠に常勝不敗の学会の城を築き上げる時代が来たのだ!”
6  それは、会長を辞めてから三度目の関西訪問であった。
 三月十八日。私は、朝から関西文化会館にいた。
 執務をしながら、関西の歌「常勝の空」のテープを何回も流し、口ずさんだ。
 仕事を手伝ってくれた凛々しき関西の青年たちにも、歌ってもらった。
 その日、兵庫県の尼崎文化会館で、オープンから一周年の記念大会が行われるとの報告が、私に届いた。
 尼崎といえば、関西の錦州城のなかでも、ひときわ高くそびえる民衆の砦である。
 ”壁を破ろう! 尼崎から戦いの火蓋を切るのだ!”
 会合で一言だけでも挨拶できればと、急きょ、尼崎文化会館へと走った。
 着いて驚いた。会館の広間も、ロビーも、書籍コーナーも、わが同志の笑顔が満開であった。皆、私を待っていてくれたのだ。いな、私と共に立ち上がってくれたのだ。
 涙が出るほど嬉しかった。
 歓喜の会合の席上、私は、この偉大な広布の戦友たちと一緒に、「常勝の空」を聴きたいと思った。私は、女子青年部の一人を指名した。眼鏡をかけた、聡明な女子学生局のリーダーである。
  ♪我等の誉れ
     錦州城
    常勝の空
     晴ればれと……
 彼女は、懸命に独唱してくれた。場内には合唱団もおられたが、あえて一人で歌ってもらった。私は願っていた。
 まず「一人」が立ち上がることを! 青年が猛然と正義を叫ぶことを! 女性が高らかに歌い始めることを!
 そして、わが尼崎から、兵庫から、新たな常勝の歴史が聞かれゆくことを!
7  青年時代、兵庫の神戸から中国に帰国して、生涯の大闘争へ身を投じた周恩来総理は、決然と言われた。
 「人民の断固とした確信と決意があれば必ず勝利をかちとることができる」(『周恩来語録』秋元書房)
 私の胸にはいつも、あの歌声が無敵の師子吼となって響き渡っている
 いざや前進! 恐れなく!

1
1