Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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我らの勝利の夜明け 大中国にそびえ立て 平和の大城

2003.10.22 随筆 新・人間革命6 (池田大作全集第134巻)

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1  中国の周恩来総理は、革命の闘争のなかにあって、青年たちに叫んだ。
 「われわれの世代の青年は、このような大動乱の時代に生を受けたことを喜ぶべきである」
 「この時期に鍛えられて、われわれの世代の青年はより偉大な、よりはてしない前途をもつものとなるであろう」(「現段階における青年運動の性質と任務」日本語版《周恩来選集》翻訳室訳、『周恩来選集』所収、外文出版社)
 激烈な戦闘のなか、青年たちは、この叫びに呼応して、さらに奮起して戦い抜いたのである。そして、世界中をあっと言わせる大革命の勝利に導いたのだ。
 すべてが闘争である。勝負である。これが現実社会の流転であり、歴史の法則だ。
 ゆえに、仏法は勝負だ。勝てば幸福である。負ければ悲惨である。断じて勝つために、仏法はあるのだ。信仰があるのだ。
2  私が対談したアメリカの有名な思想家であり、広島の原爆で被災した乙女たちを支援したことでも知られる、ノーマン・カズンズ氏の言葉を忘れることはできない。
 それは「よりいい世界への出発点は、そういう世界が可能であるという確信である」(『人間の選択』松田銑訳、角川書店)という一言である。
 自由の敵、平和を妨げる最大の敵は、人間の「無力感」であると。
 一個の人間――それは、戦争や原爆、国家など巨大な力の前には、あまりにも無力だと思えるであろう。
 しかし、断じて無力ではない。自分自身が変われば、環境が変わる。地域も社会も変わり、やがて世界も変わる。一個の人間には、壮大なる革命の原動力があるのだ。
 これが「人間革命」の原理であり、「広宣流布」の法則なのである。
 その変革の勇気ある人間が互いに心を合わせていくならば、どれほど無量にして絶大な力が出ることであろうか!
 フランスの文豪ロマン・ロランは言った。
 「誰にもそれぞれの使命があるのです。誰もその使命を放棄することはできないし、また放棄してはならないのです」(「ガンジーとロマン・ロラン」蛯原徳夫訳、『ロマン・ロラン全集』42所収、みすず書房)
 私ども、広宣流布を切り開いている皆の決意だ。
 すなわち「『平和の城』を築くのだ」と誓い合って、来る日も、来る日も、努力し、戦い抜いている私たちの心だ。
 なかでも、わが中国方面の同志の真剣な活動は、一段と決意に満ちて輝いている。それは、ロマン・ロランのこの言葉を思い起こさせる。
 「私にとっては、すべてのものが真剣なのです。遊びであるものなどなにもありません」(同前)
3  広島に原爆を投下した爆撃機エノラ・ゲイの乗組員の一人は、爆発直後に、その衝撃の苦衷を、こうメモに書き残していたという。
 「われわれは何ということをしてしまったのか……」
 いったい、原爆は、人類の進歩の勝利なのか。むしろ、反対に、生命に潜む邪悪の力への屈服であり、人間の敗北ではないのか――。
 この人類根本の問題を喝破し、人間自身の勝利へ、人間そのものの正義の叫びをあげたその一人こそ、わが師である戸田先生であった。
 一九五七年(昭和三十二年)の九月八日、あの神奈川の地で、全世界に向かって発表された「原水爆禁止宣言」である。それは、人間の生命の奥底に食い込んだ”魔性の爪”をもぎ取れとの、烈々たる闘争宣言であった。
 日蓮仏法の甚深の生命観は、人間の生命には、元来、善悪ともに具わっており、人間の一念それ自体が、善と悪との戦場だと教えている。
 その人間の”魔性の爪”を抜き取り、悪の根源を断ち切る利剣が信心である。
 ゆえに御聖訓には、「月月・日日につより給へ・すこしもたゆむ心あらば魔たよりをうべし」と仰せである。
 善が勝つか悪が勝つか――その熾烈な精神の闘争、邪悪との戦いが仏法だ。
4  戸田先生は、原水爆禁止宣言から二カ月後、広島の訪問を深く決意しておられた。
 それは、維新の夜明けの天地であり、将来、必ず「平和の大城」となるべき、中国方面の重要な構築を願っていたからである。
 だが、衰弱されたお身体は、無理をすれば、命にかかわる危険な状態であった。
 広島に出発される前日の十一月十九日、私は、木造モルタルの旧本部の一階の応接室で、横になっていた戸田先生に向かって、端座して、深々と頭を下げ、出発の中止を嘆願した。
 しかし、先生は、命を振り絞るように叫ばれた。
 「仏のお使いとして、一度決めたことがやめられるか!
 大作、死んでも、俺を行かせてくれ!」
 死をも覚悟された、その先生の決心に、私は、仏と魔の攻撃と闘争の実体を、生命に鋭く刻み込んだ。
 結局、広島行きは中止となった。先生のお身体を考えれば、お止めしたことは、最善の行動だったと自分に言い聞かせたが、待ちわびる同志の落胆を思うと、引き裂かれるような葛藤に苦しんだ。
 当時の私の雑記帳の記録には、ホール・ケインの革命小説『永遠の都』(戸川秋骨訳、改造社)から学んだ言葉が綴られていた。
 「勇気をおとさないように! 今がお前のあらん限りの勇気を要する肝腎な時なのだ」
 中国の同志よ、かくあってくれと。
 そして、生涯、師に代わって、中国の同志を励まし抜くことを誓い、一人、深く祈念したのである。
5  昭和三十四年の秋、広島の支部結成大会の直前のことであった。その準備に忙しかったゆえであろう。折から行われた寺の行事に、学会員があまり出席しなかった。
 すると寺の坊主は、学会の行事のために、信者を寺に来させないとは何事かと、居丈高に言い放ったのだ。そこには広宣流布に生き抜く精神は微塵もなく、坊主の体面にこだわり、信徒を侮蔑する腐りきった姿であった。
 それはそれは傲慢な坊主を、当時の中国総支部長だった山田徹一さんが一喝した。
 「学会の会合は、仏意仏勅の広宣流布のための会合だ。そのどこが悪い!」
 ずる賢き、権威をカサに着ている坊主の邪悪を許さぬ、この闘魂の炎こそ、わが中国創価学会の正義の魂だ。
 腐った宗門の冷酷極まる本性が見破られた、第二次宗門事件が惹起して間もない一九九一年(平成三年)の、まだ寒き三月、私は関西から広島に入った。
 中国五県の総会に出席するとともに、黒き権力をもつ坊主に苦しめられている、大切な、そして尊き同志を激励するためであった。
 滞在中、私は、言語に絶する、同志たちの悔し涙の報告を聞いた。幹部だけではなく、一会員の方々こそ、この非道な坊主の仕打ちに泣いていた。
 表面はうまく取り繕いながら、学会員を睥睨する、我々が考えもしなかった、中国の「法師の皮を著たる畜生」の実態をつぶさに知った。驚いた。情けなかった。
 布教に走り、供養を尽くしてきた、最高最善の日蓮仏法の信者である我らを、なんと思っているのか。皆があきれ、驚いた。それは、考えられない、狂気の如き態度の坊主たちとなってしまったのだ。
 さらに私は、自分の目で、豪奢な地元の寺も見て、また驚いた。
 皆があきれるのも無理はない。皆の供養で出来上がった寺であるはずだ。恩こそあれ、まともな人間であれば、感謝し、供養した人を尊敬するのが当たり前だ。これが、日蓮仏法であるべきなのだ。
 ――思えば、我らの師である戸田先生は、昭和三十一年、岡山県に創価学会の寄進で新寺院が建築された際、時の日淳法主を前にして、厳然とあいさつされた。
 「折伏を忘れて、お寺参りをするのが信仰だと思っているのは寺信心だ!」
 「住職は威張らないように、また威張らせないようにしてもらいたい!」
 先生には、日蓮仏法の真髄たる「広宣流布」しかなかった。
 折伏の苦労も知らず、衣の権威で威張る坊主など、必ず広布の害毒になると、厳しく呵責しておられた。
 戸田先生が憂慮されたように、財力を蓄え、権威を増長させた宗門は、まさに学会を崩壊させようと、魔性の牙をむいて襲いかかってきたのだ。
 "このままでは、学会は崩壊させられてしまう。宗門の奴隷に成り下がってしまう"
 今、戦わずして、いつ戦うのか。この陰険極まる邪悪と戦わねばならない。攻撃しなかったならば、正法正義を守ることはできない。
 皆が自覚した。皆が訴え始めた。
 「戦う中国」たれ!
 「獅子の中国」たれ!
 遂に、創価の宗教革命の志士、正義の獅子は、猛然と立ち上がったのである。
 一九九一年(平成三年)の私の訪問から、十二年が過ぎた。
 「始めは事なきやうにて終にほろびざるは候はず」との御金言の通り、今や正邪の勝敗は、満天下に明らかとなった!
 我らは勝ったのだ!
6  二十世紀から二十一世紀にかけ、私と中国の同志が刻んできた共戦の歴史は、十年ごとに大きな節目があった。
 昭和五十年――一九七五年には、私は、広島で行われた本部総会で、核廃絶を全世界にアピールした。この年を「第一の十年」の起点として、私は、恒久平和の大道を開かんと、本格的に世界を走った。
 一九八五年には、広島で初めて開催された世界青年平和文化祭が、「第二の十年」の幕を劇的に開いた。この「第二の十年」の後半に入り、学会は、あの堕落の宗門と離れ、「人間のための宗教」「世界平和の宗教」として大きく飛翔したのだ。
 そして、「第三の十年」に入る一九九五年――。
 この年の五月、八王子の東京牧口記念会館で指揮をとる私の耳に、遠くから力強い足音が地響きとなって聞こえてきた。
 学会の原点である牧口記念会館で、わが偉大なる中国方面の青年たちが総会を開くというのであった。
 中国が一番乗りだ!
 私の胸は躍った。ここは、広宣流布の戦士が集う殿堂である。どの方面の青年が一番乗りで進軍して来るか、私は楽しみにしていた。
 私に対する、島国・日本の嫉妬と攻撃の嵐が、荒れ狂っていった時期である。大変な狂気の時代であった。そのなかで、未来の時代を決定しゆく青年たちが、勇んで正義の力を高らかに叫びながら、わが創価の本陣に集ってくるのだ。
 だからこそ、私は、この使命を深く自覚した青年たちに会いたかった。代わりに何人かの幹部を出席させればいいだろうという話も出たが、私は一蹴した。
 「弟子が勝って集ってくるのだ。師匠が会うのは当然だ。戦い切った弟子たちに会わないことは、もはや師弟ではない」
 天高き秋には、広島で十年ぶりの世界青年平和文化祭も予定されていた。
 日本と世界の将来のためにも、中国方面に偉大なる人材の城を構築しゆくのは、今をおいてない!
 五月七日、記念すべき第一回の青年平和総会で、私は、吉田松陰の行動力を通し、満腔の期待を込めて訴えた。
 君たちよ、行動また行動の実戦で自身を鍛えよ!
 広宣流布の「若き松陰」たれ!
 維新回天の激しき原動力となった山口県をはじめ、中国の各県は近代日本の多彩な指導者を輩出してきた。宰相の座についた政治家も多い。牧口先生の「創価教育学説」の支援会に名を連ねた、犬養毅首相も岡山の出身であった。
 いわば、今日の政治風土の原型をつくった天地である。ゆえに、ここに新たな人間と人間の「不滅の平和の大城」を築き上げる使命はあまりにも大きい。
 いっさいは人材で決まる。広宣流布の全責任を担い立つ青年の成長で決まる。
 古代ギリシャの哲学者プラトンは叫んだ。
 「一個の人間全体の善悪はすべて、たましいに始まり、そこから流れ出してくるのだ」(『カルミデス』山野耕治訳、『プラトン全集』7所収、岩波書店)
 中国の青年たちは、決然と立ち上がった。いな、猛然と立ち上がった。
 私は思い出した。インドの詩聖タゴールの言葉を。
 「不可能なことをみずからの力で可能にするのが人間の働きである」(『真理の呼び声』蛯原徳夫訳、『タゴール著作集』8所収、第三文明社)――ということを、尊きこの青年たちに感じ取った。
 一九九七年の冬から翌年にかけ、全国の青年部が核廃絶を願って推進した、「アボリション二〇〇〇」の署名運動を牽引したのは、まぎれもなく中国の青年であった。この青年たちの"平和への大運動"に呼応して、壮年たちも、婦人たちも、自然に一体となり、平和への大行進の旋風が巻き起こった。
 「一切のものは、実は動きであって、それ以外の何ものでもない」「静止は腐らせたり滅ぼしたりする」(『テアイテトス』戸塚七郎訳、『プラトン全集』)
 かの哲人プラトンが語った通り、広島の友は全速力で駆けた。岡山県でも山口県でも、無名の庶民の英雄たちは中国路を走りに走った。
 日本海から寒風が吹きつける島根県や鳥取県でも、青年と一緒に、友だちの家々を回りゆく、気高き平和運動の創価の婦人たちの姿が数多くあった。
 団結とはかけ声ではない。理想論でもない。結局、行動のなかにしか、真実の崩れぬ団結は生まれない。
 「アボリション二〇〇〇」の全国の署名数は千三百万を超えた。そのなかで中国は、大都市圏を抱える他の方面に伍して、多大なる平和の声を結集した。中国五県が一丸となった歴史的な証である。
 その尊き結晶は国連に届けられた。被爆地・広島の平和の声は重く、世界を動かす力となった。
 平和の原点として、求めて広島に足を運ぶ各国のリーダーはあまりにも多い。
 まさに中国方面は、人類がその発信に耳を傾ける「世界の中国」である。正義の声、平和の声を、断固と轟かせる使命ある中国なのだ。この姿を、日本中の青年たちが、いな、世界中の青年たちが必ずや見つめているにちがいない。
7  我らがめざす次の目的地は二〇〇五年――学会創立七十五周年。その年は広島の被爆六十年にもあたっている。
 「第三の十年」の高嶺への遠征は、今まさに八合目から九合目、胸突き八丁の正念場となってきた。
 「戦う中国」よ、今再び立ち上がれ!
 「獅子の中国」よ、走れ!
 ただ前進、あくまで前進、前進だ!
 汝自身の頂点をめざして!
 永遠なる平和の大城・中国の建設をめざして!
 スイスの哲学者アミエルは言った。
 「平和そのものが闘争である。否むしろ闘争、活動が法則なのだ」(『アミエルの日記』1、河野興一訳、岩波文庫)

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