Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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広宣流布の勝利の大船 大四国に轟く

2003.10.15 随筆 新・人間革命6 (池田大作全集第134巻)

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1  “勇者は甘味では養われない。偉大なる者の住まうところは牢獄である。王者の帆には、まともに嵐が当たる”(『勇壮論』平田禿木訳、『エマアソン全集』1所収、国民文庫刊行会)
 私は、アメリカの大思想家エマソンのこの言葉が、青春時代から好きであった。
 ともあれ、わが四国は、近代日本の自由民権運動の思想の大波が、澎湃としてわき上がった歴史的な天地である。
 その渦潮の中心点には、板垣退助、中江兆民、植木枝盛……まことに錚々たる若き革命の人物が連なっている。
 愛媛県出身の末広鉄腸(一八四九~九六年)も、そうした先駆者の一人であった。
 彼は二十六歳で東京曙新聞の編集長に就任する。時の政府が言論抑圧の悪法を定めると、直ちに猛反撃した。そのために彼は、禁固刑等に処せられ、この悪法の第一号の被害者となったことで有名である。
 「氷雪の艱苦を凌ぎて、百花の先魁を為す」(『雪中梅』、『明治文学全集』6所収、筑摩書房)――彼にとって、これこそ信念の言論戦の使命であった。
 戦いにあって沈黙は悪だ。正義は叫ぶものだ。叫ぶことのない正義はありえない。一人の鉄の信念の叫びは、必ずや千波万波に広がるのだ。これが歴史の法則である。
 偉大なる四国は、正義の言論の天地であった。
 決然と、その先頭に立って広宣流布を叫ぶのは、わが若き血潮に燃える青年部であることは当然だ。
 末広鉄腸は三十九歳の時、渡米の船中で、フィリピン独立をめざして戦うホセ・リサールと親交を結び、彼をモデルに『南洋の大波瀾』という小説を書いた。
 波瀾万丈の大海を乗り越えて生まれた、フィリピン独立の若き英雄と、四国生まれの若き言論の闘士の友情! なんとロマンに満ちた一幅の絵であろうか。
2  その狂乱の大波を乗り越えゆく正義を思うと、私の胸中には、わが同志である四国の、広宣流布に勇み立ちゆく青年たちの雄姿が、無限の希望の道を走りゆく名画となって、生き生きと蘇る。
 昭和五十五年初頭――あの狂気じみた宗門事件の暗黒の嵐が、まだ吹き荒れていた日々であった。
 青年の決意に燃えて立ち上がった、わが四国の賢者たちが、神奈川で広宣流布の指揮をとっていた私のもとへ、客船をチャーターして、海路、意気揚々と駆けつけてくれたのである。
 ――一月十三日の午後のことであった。
 私は驚いた。香川、高知、愛媛、徳島の若々しき“正義の千人の勇士”が、熱くして深き決意をもって、烈風と強風が吹きすさぶなか、指揮をとってくれる師のもとへ、断じて守りに行くのだと、高松港を発ったのである。
 船は白亜の客船「さんふらわあ7」号である。
 東海上に低気圧があり、海上は荒れていた。しかし、船は高らかに汽笛を響かせ、さっそうと、大波浪に向かって勇敢に旅立った。
 壮年もいた、婦人部も乗っていた“男女の青年部は当然のこと、皆が創価の決意も固く、波また波の大海原の彼方を見つめながら乗っていた。
 同志の胸の奥は、義憤に燃えたぎっていた。
 “なんと卑劣な宗門か。なんと残酷な宗門か。先生を狙い打ちにして、広布の師弟の絆を断絶させようとの謀略だ。なんという卑怯な陰謀だ。宗祖の精神に背いた、この悪逆なしわざは永劫に広布の大汚点として残りゆくことは間違いない!”と。
 学会を撹乱させよ、池田を倒せ――これが、未曾有の正法の大興隆を実現し、無量無辺の世話になった学会に対する仕打ちであったのだ。その陰には、例の“提婆”等が結託していたことは事実である。
 極悪のナチスと戦ったフランスの大詩人アラゴンは、わが同志に呼びかけて、こう叫んだ。
 「極悪人どもが善人を狩りたてる」
 「いつまで いつまで
 ただ黙って許しておくのか いつまで」
 「いまこそ追い払わねばならぬ
 野獣どもを 犬を 裏切者を
 もう 黙っているときではない」(『フランスの起床ラッパ』大島博光訳、『アラゴン選集』2所収、飯塚書店)
 ともあれ、四国の地涌の戦士は全員が今、神奈川にいる私と共に、広布に立ち上がった不二の人生である。彼らの心は躍った。
 “さあ、出発しよう! さあ、出発だ! 私たちの広布の指導者と語り合うのだ!”
3  船は揺れた。幾度となく、大波が襲った。
 だが、同志の心は微動だにしなかった。旅は長くして、短かった。
 この山のような怒濤を越えれば、明日は横浜港である。
 皆が興奮して、なかなか寝付けなかった。夜が明けるのが待ち遠しかった。
 青年たちの瞳は輝いていた。青年たちの言語は生き生きとして確信に満ちていた。青年たちの心は、もはや勝利の境涯にひたっていた。
 そして彼らは、寝るのも惜しんで、語りに語り合っていた。
 ――なんと卑怯な宗門か。これでも人間か。真の大聖人の仏法を看板にした、民衆を騙す宗教屋か。どす黒い心で、宗教を売り物にした奴隷たちの集まりか――と、怒りの言葉が交差していた。
 「我らは、正義の学会を、正義の師匠を、断固として守るのだ! これが正義の四国の青年部である。断固として、我ら四国は立ち上がろう! いかなる時代、いかなる状況になろうが、俺たち四国の青年部は、今こそ、師弟の旗を掲げようじゃないか!」
 「そのためには、断じて自分に勝つことだ。邪悪を倒すことだ。四国に勝利の旗を掲げることだ!」
4  明けて十四日。煌々と光る朝日がまぶしかった。
 波はおさまり、大空は晴れ渡っていた。
 待ちに待った「さんふらわあ7」号の、大きな堂々とした船体が見えた。千人もの四国の勇士を乗せて、日本の文明開化の夜明けを創った歴史のある横浜港に、その姿を現した。
 私は、側にいた職員たちに言った。
 「さあ、四国の同志を桟橋べ迎えに行こう! 皆で大歓迎しよう!」
 海路はるばる来てくださったのだ。
 経文には、法華経を行ずる人をば、「当に起って遠く迎うべきこと、当に仏を敬うが如くすべし」と説かれているではないか。
 私は、春のような陽光に包まれた、横浜港の大桟橋まで足を運んだ。そして、手を振り、瞳を輝かせながら下りてくる、凱旋将軍である千人の使命深き勇者たちを、一人ひとり、心から歓迎したのであった。
 山下公園の前にそびえ立つ神奈川文化会館では、創価の四国と創価の神奈川の、友情と使命の交流の幹部会が、明るく、また明るく、楽しく、また楽しく、にぎやかに、力強く開催されたのであった。
 私も、同じ目線に立って、同志のなかに入り、創価の家族の語らいを、折伏・弘教への語らいを、師弟の語らいを、しながら、時間の許す限り、握手を交わし、歴史をつくったのである。
 そして、四国と神奈川は、がっちりとスクラムを組みながら、新しい友情と団結と勝利の船出を誓い合ったのである。
 午後七時、わが四国の同志は、疲れを笑顔に変えて再び旅立っていった。
 わが永遠の戦友よ、断じて負けるな!
 わが三世にわたる友よ、断じて勝ちゆけ!
 皆が心で祈り送った。
 私は、妻と共に、神奈川文化会館の窓から、同志の無事を、同志の栄光を祈りながら、懐中電灯を幾度も振って見送った。
 妻は、「遠いところ、ご苦労さま」と、小さい声だけれども、しっかりした声で言っていた。その目には、きらっと涙が光っていた。
 到着から再び船上の人となるまで約七時間――だが、それが、創価の広宣流布の未来を切り開きゆく、凝結した誓いの時間となったのである。
5  あの日、あの時、参加した四国の同志が中核となって、新生創価学会を力強く建設してくださったのである。
 あの日、あの時の無名であった方々までが、今では、二十一世紀の四国の指導者となって活躍している。
 私は、嬉しい。本当に幸せだ。
 そして、あれから二十一年が過ぎた二〇〇一年の「創立記念日」、私は中国・広州大学から、栄えある名誉教授の称号を賜った。
 この栄誉を万雷の拍手で祝福してくれたのが、わが四国の青年部であった。涙が出るほど嬉しかった。参加者のなかには、二十一年前、親御さんが“さんふらわあ号”で来られたというメンバーも多くおられた。
 いずこであろうが、いかなる怒濤があろうが、広宣流布のためなら、その主戦場へ、真っ先に駆けつける! 正義の言論戦で、勝利の旗を必ず打ち立てる!
 大四国には、その闘争の精神が、時代とともに燃え上がっている。
 「一万ブロック」という、壮大な創価の正義の大城も完壁にできあがった。
 昨年まで七年連続で聖教新聞の増部を成し遂げた、大言論城の天地でもある。
 今や、四国の勝利栄光の“紅の朝”は、皆様の胸中に、そして一族に燃え広がっていることを、私は心から祝福したいのである。
6  ところで、かのホセ・リサール博士の戦いは、植民地支配の圧政との戦いであるだけでなく、民衆の魂を惑わし、収奪してきた邪悪な宗教的権力との戦いであった。
 彼は勇んで言い切った。
 「宗教の袈裟に隠れて私たちを貧困に陥れ、残忍な仕打ちをしてきた偽善者の仮面を、私は、はぎとったのである。『にせものの宗教、迷信的な宗教、また、金をしぼり取るために聖なる言葉を利用する宗教』と、『真実の宗教』とを、私は、はっきりと区別したのである」(Quotations from Rizal's Writings, Republic of the Philippines Department of Education, Culture and Sports, National Historical Institute.)
 誰人も納得する正論だ。人間のための宗教か。宗教のための人間か――二十一世紀の宗教は、この指標に照らして、明確に峻別していかねばならない。
 リサールは、自分が宗教界の腐敗を糾す戦いを起こしたことを、「誰もやりたがらなかったことに挑戦してきた」と自負していた。
 創価学会もまた、日本社会のなかで、「誰もやりたがらなかつた戦い」を起こしてきたのである。それは、いかに「貧乏人の集まり」「病人の集まり」等と激しき悪口をされようが、「ここに絶対的な人生の幸福の大道がある!」と絶叫しながら、常に一番苦悩している人間の中へ分け入り、人間を騙し不幸にしゆく邪悪の勢力と戦い抜いてきたという事実だ。
 これこそ真実である。宗教が、人間のために、民衆のために泥まみれになって戦うことを忘れ、民衆の上に君臨するようになったら、もはや宗教の権威ほど恐ろしく、悪辣な“天才的欺瞞の魔物”はないからだ。
 真実を求め抜き、人間が人間としての最高の人生を生きゆくための、崇高な闘争を開始した、わが同志たちも、長い間、傲慢極まる坊主どもの権力に苦しんだ。
 しかし、正義の信仰者は、断固として権力の坊主と戦った。そして勝った。
7  一九八一年(昭和五十六年)の晩秋、強欲卑劣な坊主どもの攻撃に耐え抜いて、正法正義を高く掲げ抜いて戦ってきた同志を励ますために、私は久方ぶりに、わが四国へ向かった。
 会長を辞任して二年半が過ぎていた。この間、私も、わが同志も、重い鎖を、暗い一日一日を引きずり、ながら、必死に前に進むような歳月であった。ある時、最高幹部たちが、「夏の暑さも、冬の寒さもわからないほどの、多忙な、熾烈な一日一日でありましたね」と語っていた言葉が、今もって忘れることができない。
 ともあれ、決然として、私自身が立ち上がる時は来た。徳島を回り、源平合戦の古戦場に近い、香川・庵治町の四国研修道場に勇んで入った。
 皆が真剣な顔で、または笑みを満面にたたえながら、送ってくれる拍手の大波のなかを、私は大会場の席についた。そして、挨拶のために立ち上がって、宣言した。
 「もう一度、私が指揮をとらせていただきます! これ以上、皆様にご心配、ご苦労をかけたくない。私の心を知ってくださる方は、一緒に戦ってください!」
 それは、鉄鎖を断ち切った師子の叫びとなった。
 万雷の拍手が鳴りやまなかった。皆の喜びは天を衝く喜びであったと、当時の幹部は述懐していた。
8  その四国指導で完成させたのが、あの学会歌「紅の歌」であった。
 このころ、世界芸術文化アカデミーが主宰する世界詩人会議で、私への「桂冠詩人」の称号の受章が決定した連絡が届いた。
 つまり、私が「桂冠詩人」として最初に作詞した歌こそ、わが四国の青年との共同作業でつくった、創価の夜明けを呼ぶ「紅の歌」であったのだ。
 私には、真実を叫んでやまぬ四国の若き英雄たちの頭上に、正義の桂冠が誇り高く見える。
 「詩国」――私にとっての四国は、歴史的に重要な国である。
 私が詩心という精神の剣をひっさげ、新たな闘争を開始した国である。晴れ晴れと師弟の共戦の大叙事詩を綴りゆく国である。
 「志国」――四国はまた、広宣流布という人間勝利への闘志が燃える国である。
 そうした私の心情を汲んでくださった四国の皆様方の尽力により、「桂冠詩人展」が意義深く開幕したのは、平成三年(一九九一年)の十月のことであった。
 四国研修道場に設けられた会場に、私の拙い詩や、直筆原稿などのほかに、ユゴーやタゴール、ホイットマンゆかりの品も展示された。
 前年から宗門は、どす黒い本性をあらわにしていた。
 べートーベンの「第九」の“歓喜の歌“を、「外道」であると批判し、そして自由な魂の表現を圧殺する、実に野蛮な行為に出たのである。
 そして、学会が優れた人間文化を愛することを理由に、“謗法”と断じ、壊滅させようとしたのであった。
 残虐と謀略の悪党が宗門であった。我々は大謗法の宗門から離れて、本当に幸福だ。ますます正義が光ってきた。全同志の心も、そのような気持ちであることを、私は知っている。
 イタリアの革命家マッツィー二は、邪悪な圧制者に向かって言い放った。
 「正義と神聖な自由を望み、そのために戦い苦しむ国民の勝利は絶対に確実だ」(ボルトン・キング『マッツィーニの生涯』力富阡蔵訳、黎明書房)
 そして、彼、マッツィーニは言い切った。
 「人々が宗教と呼んでいるものから、彼らの教育方針や、政治形態や、経済機構や、芸術活動が生まれるのである」(トルストイが『文読む月日』上〈北御門二郎訳、筑摩書房〉の中で紹介)
 仏法を根底にしての、文化・教育・平和の運動も、政治を改革する活動も、まったく自然の法則であり、完壁に正しいのだ。
 四国の友らは、恐るべき文化否定の邪宗門に対して、世界に開かれた詩心の炎で戦った。最も人間らしい言葉の力で、真実の仏法を、人間性の輝きを表現し、野蛮な宗門に鉄槌を下したのである。
 十年前(一九九三年)、私もこの「桂冠詩人展」を鑑賞させていただいた。
 なんと鮮やかな反撃であろうか。痛快な文化の勝利が、ここにあった。しかも、四国の愛する弟子たちが、自発的に発想した戦いの結晶である。私は、それが嬉しかった。
 ともあれ、本当の戦いは、自ら起こすものだ。
 過去に安住することなく、おのれの新たな戦場を見つけて、決然と立ち上がりゆくことだ! その新しい勇気の挑戦が、新しい偉大な歴史を創るのだ!
9  私が若き日より暗唱していた、ドイツの革命詩人ハイネは歌った。
 「ぼくは革命の子だ」「ぼくは全身、よろこびと歌、全身、剣と焔だ!」(井上正蔵訳『ハイネの言葉』彌生書房)
 数年前、私は、青年のためにと、この言葉を揮毫した。その揮毫が、四国で開催された「桂冠詩人展」で、展示されたこともある。
 詩心とは、社会の不条理や不正を許さない、「人間としての魂」にあるのだ。真の詩人とは、断固として邪悪と戦いゆく、勇敢なる精神の革命児でなければならない。
 おお、わが四国の同志よ!
 アメリカの大思想家エマソンの言葉を、君たちに再びの感謝を込めながら贈りたい。
 「吾々の記憶に於ける最善の日は何であるか。真に友人と名づくべき友に遇ったその日こそそれである」(『社交及孤獨』戸川秋骨訳、『エマアソン全集』4所収、国民文庫刊行会)
 この一生を正義のために断固と戦い抜いた人が、正義と幸福を勝ち取ることができることを忘れまい。
 卑しき売名の奴隷などになるな! 同志を裏切って、因果の懲罰を受けるような人間になるな! 不正への怒りもなく、臆病者になって、野良犬のごとき敗北の無残な人生を送るな!
 “不正への怒りなくして、真の正義はわからない”“臆病、優柔不断は悪である”との、「現代のソクラテス」と言われたフランスの哲学者アランの洞察を忘れてはならない。
 これが仏法に通ずる教訓であるからだ。

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