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日蓮大聖人・池田大作

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今再びの師弟の陣列 大関西に“常勝”と“団結”の大金字塔

2003.10.7 随筆 新・人間革命6 (池田大作全集第134巻)

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1  「今月の第一位、大阪支部!……」
 前代未聞の折伏の大成果が発表された。
 昭和三十一年(一九五六年)の五月三十一日、木曜日の午後六時過ぎである。
 会場の豊島公会堂は、驚異と賞讃の万雷の大拍手が沸き起こり、長時間にわたって鳴りやまなかった。この五月、大阪支部の折伏は、空前絶後の一万一千百十一世帯であった。
2  広宣流布の夜明けの鐘を打つのは、我ら関西の決意だ。
 それが“常勝関西”だ。これこそ“常勝関西”の使命だ。
 ――こう決意を綴った手紙を、無名の青年部より受け取ったことがある。
 戸田先生は、関西指導の時に言われた。
 「関西の幹部は、いつ見ても、広布の闘争が嬉しくて嬉しくて仕方がない。そこにこそ本当の生きがいを感じている」と。
 私も、“関西の建設即広布の建設”と期待されていた戸田先生の魂の叫びがよくわかる。
 「現在の限界を乗り超えろ。おまえたちは、不可能なことを達成すべきものであり、不死のものなのだ」(「創造的統一性」山口三夫訳、『タゴール著作集』9所収、第三文明社)──これは、私の好きなインドの大詩人タゴールの至言である。
 前進を止めるな! 眼前の壁に挑め、限界を破れ!
 まったく正しい叫びだ。
 この一節は、かつて私の胸を完璧に打った。青春時代より仏法の真髄を実践してきた、仏道修行の魂の的を射ている。絶えざる前進の戦いの,なかにのみ、不可能を可能にしてゆく広布の血路が開かれているのだ。学会は、その通りにしてきたからこそ、世界的な広がりをもつ学会になったのだ。
 わが関西の同志は、広宣流布の遠征にあって、簡単な戦いなどあるわけがないことを、よく知っている。「強敵を伏して始て力士をしる」との御聖訓を、皆が強く胸に抱きしめている。
 苦労もなくして勝てる戦など歴史上どこにもない。最高峰の勝利の武勲は、難攻不落の壁を破る大闘争の結果、つくれるものである。常勝関西の闘魂はかくの如く、赤々と燃えてきた。
 ゆえに関西の勝利は、目の覚めるような大勝であった。敵さえ“天晴れ”と驚嘆する圧倒的な完勝であった。痛快な劇であった。
 大関西の勝利、大阪の勝利――それが私の勝利だ。
 私の心には、いつも関西の同志がいる。常勝の柱石たる大阪の英雄たちがいる。
 私が戦っている時、関西も戦っている。関西が戦っている時、私も戦っている。
 この共戦の偉大なる炎が、仏意仏勅の広宣流布に生き抜く師弟の、絢爛たる魂なのだ。
3  今もって、私の忘れることの出来ない光景がある。
 あの異常な宗門事件の嵐のなか、私が第三代会長を退いて迎えた、昭和五十四年の五月三日のことである。
 この日は、新世紀へ希望の出発となるべき本部総会であった。ところが、私の“会長辞任式”となり、学会らしい勢いも歓喜もなく、重い空気に包まれていた。
 総会の終了後、退場した私のもとへ、各方面の幹部が駆け寄って来た。そして、私の来訪を求めて、口々に声をあげた。
 私は、それは新しい執行部に言うべきだと、皆を制止した。落胆した顔が辛かった。
 しかし今、名誉会長の私が表立って動けば、学会を壊滅させようと狂奔する坊主どもが、新たな攻撃材料にすることは明白だ。私の胸には、苦悩と憤怒が渦巻いていた。
 “今こそ弟子が立ち上がる時ではないか! 会員を苦しめる邪悪を倒すために、猛然と戦う時ではないか!”
 その時だった。関西の最高幹部が言い放った。
 「関西は、断じて勝ちます! 永遠に先生は私たちの師匠です。広宣流布の師匠です」
 彼の気迫の声に、私は瞬時に反応した。
 「そうだ、その心だ! 会長を辞めようが、いかなる立場になろうが、私は断固として、創価学会即広宣流布のために戦うよ。だからこそ、今、真剣に戦っている人は、私と直結の創価の英雄だ。何があろうが、どうなろうが、師弟はどこまでも師弟だ。関西だけは、断じて、この一点を忘れてはいけない」
4  一九五六年(昭和三十一年)の、あの創価の決然たる大道を開きゆく“大阪の大法戦”で、私は、師である戸田先生に固くお誓いした。
 「どこの方面が負けようとも、一番厳しい大阪は、断じて私が指揮をとって勝ちます!」
 それは、あまりにも厳しき戦いであった。誰も勝てると思えない大阪の実情であった。世帯数もまだ少ない。団結も弱く、訓練も浅い。
 このころ、私は知っていた。戸田先生はご病気のために衰弱し始めておられ、死ぬ前に大きい未来のために、広宣流布の大道を弟子たちに築き残していきたかったのだ。
 この戸田先生の決意した戦闘に負ければ、死を覚悟している先生の寿命は一段と縮むことであろう。先生は無理を覚悟で打って出たのだ。
 その時の私の決心は、マハトマ・ガンジーの言葉の通りであった。
 「満足は到達ではなくて努力することにある。最大限の努力は完全勝利なのだ」(K・クリパラーニー編『抵抗するな・屈服するな』朝日新聞社)
 私は、捨て身になって「断じて勝つ!」と決意した。御本尊に深く誓った。
 昼夜を忘れて走りに走り抜いた。弱音や愚癡など微塵もなかった。
 関西で私が猛然と戦っているのと同じころ、アメリカで人権闘争の炎を上げたのが、公民権運動の指導者として有名なキング博士であった。
 博士は烈々と訴えた。
 「いまは、冷淡にかまえたり自己満足におちいったりする時ではなく、積極的な精力的な行動にでる時なのだ」(『自由への大いなる歩み』雪山慶正訳、岩波新書)
5  一九七九年(昭和五十四年)のあの日、あの時、わが愛する大切な弟子である関西の同志は、若き日の私と同じ炎の心で、師子の如く、決然と立ち上がった。
 「我々は先生の弟子や、こんなことで負けへんで!」
 「今こそ団結やで。関西が先頭きって戦い勝ってみせる!」
 わが偉大なる同志のその胸中には、前年、私が贈った学会歌「常勝の空」が鳴り響いていた。
   ♪今再びの 陣列に
   君と我とは 久遠より
   誓いの友と 春の曲
   愛する関西 勇み立て
 やがて関西の同志は、皆の総意として、雄々しき決意を高く掲げた。
 ――さあ! 今再び関西から次の十年を開くのだ。そして、断じて常勝関西の歴史を残してみせる!
 そこには、学会を覆う三障四魔、そして三類の強敵の暗雲を決然と破り、絶対に勝ってみせるとの、私と広宣流布の責任感を共にしゆく、深くして壮烈な弟子の誓いがあった。
6  若き日より私は、関西の会合には、できる限り出席するように努力してきた。必ずといつていいほど、年に何回かは訪問していた。
 それは、将来、最も重要な広宣流布の大拠点になると確信したからだ。
 戸田先生の広布の大構想を、さらに強く、さらに拡大していきたかったからである。心から尊敬する師の偉大なる魂を、わが行動の魂としてゆけば、何事も乗り越え、勝ち越え、壮大無辺の師弟の未来の大道が完成されることを、私は知悉していたからだ。
 しかし、今はまだ、私は動けなかった。すぐにでも飛んでいきたい衝動を抑えながら、私は関西の全同志の健闘を祈りに祈った。
 一九七九年(昭和五十四年)の七月には、山本伸一作品を中心に、師弟の心を歌い上げた合唱祭が開催された。
 当時の私は、宗門の圧迫のために、自由に地方指導に動けない事情もあって、合唱祭には出席できなかった。妻と長男が参加させていただき、はちきれんばかりの躍動の舞台に、借しみなく拍手を送った。
 そして十一月には、歴史に残るであろう第一回の関西総会が、盛大に開かれた。また翌年三月には、関西の友が、私を求めて六百人も学会本部に来られるドラマもあった。
7  私が名誉会長として初めて関西を訪問したのは、学会創立五十周年にあたる一九八〇年(昭和五十五年)の四月であった。
 そのまま第五次訪中に旅立った私は、続いて九州指導を行い、再び大阪へ戻った。
 そして、五月三日の「創価学会の日」を、私は、第二の故郷である大関西で迎えた。私の築いた、私と生死を共にしゆく、私の真実の弟子が集まる常勝の大関西で迎えたのだ!
 豊かにして壮麗な五月晴れであった。最善の常勝の空であった。
 落成まもない新・関西文化会館は、遠くまた近く、永遠なる輝きを放つとともに、広布の魂をひたむきに、精神の王者の如く形成されていた。堂々と、青空にそびえ立っていた。
 私は心に強く決めていた。
 ”私が頼りとし、心から信頼できる関西の同志と、永遠の祝賀の「五月三日」を痛快に祝うのだ! 去年のあの悔しさを断じて忘れるな。学会は学会らしく、断じて勝利する戦いをするのだ!”
 私の体は疲れきっていた。しかし、私の魂と、関西の同志の魂が互いに一体となった歓喜と決意の渦巻きに、私は勇んで飛び込んでいった。いずこに行っても、記念勤行会の会場には、大歓声の爆発があった。
 私は嬉しかった。学会は勝った。不死身の如く立ち上がった。
 永遠に勝ちゆく法則を、関西がつくり上げた。
 新出発を互いに祝賀しあいたいと、何ものをも恐れず、立ち上がった友は無数であった。その行列は限りなく続いていた。無我夢中で駆けつけて来た友も多かった。
 学会は厳然と再び立ち上がったのだ。関西は、その先頭をきって立ち上がったのだ。
 私は、私の決意を、関西の同志の決意のなかに放った。
 「何があっても、共に戦おう。何があっても、学会は勝ち抜こう。何があっても、創価の使命は、勝ちまくって歴史を残すことだ。真の人間の強さは、真の信心の強さなのだ。断固として、同志として戦い抜こう! そして断じて勝利しよう!」
 すべての会場で、関西魂は燃えに燃え上がっていた。
 その使命と決意の信心の陣列は、大きく、そして深く、全世界へと広がっていった。それが巨大な波動と衝動となって、限りなく、今日までも広がってきたのである。
 私の滞在は七日間であった。しかし、まさに、永遠なる勝利への原動力、そして推進力となったのである。
 その関西の英雄の同志は、実に五万人が集合したのであった。
 こうして関西に燃え上がった師弟一体の大攻勢の炎は、十年後、二十年後、いな二十一世紀の創価の勝利を、決定づけていったのである。
8  古代ギリシャの詩人ピンダロスは声高く歌った。
 「そこは、勇敢な行ないの数々による
 無数のいさおで名声赫々たる町である」(『祝勝歌集/断片選』内田次信訳、京都大学学術出版会)
 わが関西には、わが大阪の街々には、広宣流布の誇らしき偉大な歴史が点々とある。地涌の戦士である勇敢な庶民の勲が、赫々として輝いている。今再び、常勝関西には、一段と高き新たな広布の金字塔が打ち立てられようとしているのだ。
 使命深き偉大なる関西の友よ、私と共に、一生涯、勇敢に戦ってくれ給え!
 今、君たちがいる場所で、今、君が戦いを起こした所で、断じて勝ちまくってくれ給え!
 そして、正義と友情の常勝不敗の連帯を、限りなく広げていくのだ。“常勝の先頭”に立つ世界の大関西よ、大阪よ、勝って、勝って、勝ちまくれ! 粘り強く、朗らかに、関西らしく、君らしく、「新しき五十年」の栄光の扉を開いてくれ給え!

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