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日蓮大聖人・池田大作

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創価の本陣・大東京 威風も堂々 勝利の指揮とれ

2003.9.30 随筆 新・人間革命6 (池田大作全集第134巻)

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1  「われわれはあすの戦いに勝ってみせる、どうあろうと勝ってみせる!」(『戦争と平和』上、中村白葉訳『トルストイ全集』5所収、河出出版書房)
 断じて勝つ――これは、トルストイが名作『戦争と平和』に綴った、ロシアの若き将校の決意の一節である。
 その文豪が「ただ一つあすの日に必要なもの」と結論したものとは何か。
 それは、一身を惜しむな、断じて勝ち抜くという兵士たちの大感情であった。
 すなわち、全軍に、「何もをも恐れるな!」「絶対に勝て!」との闘志があるかないかである。
 「仏法は勝負なり」と生命に刻みゆく、広宣流布の本陣・東京の同志も、今また同じ決心で立ち上がった。常に、勝敗を決するのは、勇気と執念の行動である。その根本は、心深く勝利を誓願する祈りだ。
2  一九七九年(昭和五十四年)の六月三日、豊島区巣鴨に、恩師の名を冠した大殿堂が誕生した。東京戸田記念講堂である。
 ここ豊島には、牧口先生と戸田先生が、戦時中、軍部政府の弾圧を受けて投獄された東京拘置所があった。現在、池袋のサンシャインビルが立つ場所である。
 牧口先生が逮捕後、警視庁からこの拘置所に移されたのは、六十年前(一九四三年)の九月二十五日。翌月には、戸田先生も師に続いた。
 以来、初代・二代の創価の師弟は、牢獄で、仏法の魂を死守して戦い抜いた。
 「三障四魔ガ紛起スルノハ、当然デ、経文通リデス」(『牧口常三郎全集』10)
 最後の手紙にこう記された牧口先生が、獄中で生涯を閉じられたのは、一九四四年(昭和十九年)の十一月十八日であった。
 翌年一月、師の殉教を知った戸田先生は、一人、血涙を振り絞って誓った。
 「今に見よ! 先生が正しいか、正しくないか、私が証明してみせる。断固として勝ってみせる」
 ここから、恐るべき権力の魔性を木っ端微塵に砕く戦いは始まった。正義の中の正義たる広宣流布の、新たなる直弟子の大闘争が決然と始まったのだ。
3  この師弟不二の天地に、戸田講堂が落成する、その一月余り前、私は会長職を辞任した。
 すると、あの悪辣な反逆者と嫉妬に狂った宗門は、ここぞとばかり、私と同志を離間させようと、学会の破壊の謀略を本格化させ始めた。
 名誉会長は会合に出てはいけない、聖教新聞に出てはいけない等と、異様な雰囲気がつくられていった。意気地なしの幹部は、それに対して、何も言えなかった。
 戸田講堂の落成式にも、私は出席を控えた。目に見えない鉄鎖があった。
 それでも私は、落成式の前日、悠然と戸田講堂を訪れ、心ゆくまで同志を励ました。
 その時、私の胸中にあったのは、ただ、恩師の生命ともいうべき、仏意仏勅の和合僧団たるわが学会を守り抜くという一点であった。
 かつて、第六十四世日昇法主はこう言われた。
 「創価学会は戸田城聖氏のもと、全学会員が一致団結して、日に月に増大しているのは、十方三世の諸仏の加護はもちろん日昇深く感激にたえぬ次第であります」
 さらに第六十五世日淳法主も、学会を大賞讃された。
 「創価学会が人類の幸福の為に着々と自他共にその幸福を実現している事は尊い事であり何とも申し様の無い尊さを感ずる次第である。学会は人類の幸福を願いとし、正しい宗教、信仰を招来せしむる事に大願を置かれて日夜活躍している。それには寸分の曲りも無い天地宇宙の法則に結合せしむるこそ幸福でありそれにそぐわねば不幸なのである」(『日淳上人全集』上)
4  いかに厳しき状況下にあっても突破口は必ずある。鉄格子の中からでも戦える。
 牧口先生を思え! 戸田先生を忘れるな! 断じて師弟の魂の松明を消すな! これが私の炎の決意であった。
 御聖訓には、「大悪をこれば大善きたる、すでに大謗法・国にあり大正法必ずひろまるべし、各各なにをかなげかせ給うべき」と明確に仰せだ。
 最も大変な時に、最大の力を出すのが師子王である。
 私は、立川文化会館、神奈川文化会館に続き、この戸田講堂を大東京の一大法城として、猛然と、広宣流布の戦闘を開始していったのだ。
 以来、幾度ともなく、この尊き師弟の大城に、思い出深く足を運んだのであった。
 わが東京の、勇気に満ちた同志も、勇みに勇んで、我らの法城・戸田講堂に来てくれた。臆病者は、宗門の顔色を見て右往左往していた。
 私は、あらゆる機会、あらゆる瞬間をとらえ、一人また一人と、激励を続けた。今日の出会い、今この時の対話が未来を決する。一瞬たりとも無駄にできなかった。
 地元の豊島区、また講堂内に北文化会館(当時)を持つ隣接の北区の同志とも、六月十四日を第一回として、意気も高らかに、壮大な広布のロマンを語り合った。
 そうした大事な会合の模様も、新聞紙上にはいっさい報じられなかった。しかし、勝利への潮流は、水面下で、確実に、うねりをあげ始めていたのである。
5  東京戸田記念講堂――この名称は、私が提案して付けたものである。
 ここには、恩師がおられる。「大作、戦おうじゃないか!」と、先生の師子吼が耳朶に響いてくる。
 ここを"戸田塾"として、本物の広布の弟子をつくってみせる。この師のもとから、全東京へ、関東へ、日本全国へ、全世界へと、正義と勝利の大波を起こしてみせる!
 私は、信頼する東京の友に訴えた。
 「さあ、戦おう! 大攻勢に転じていくのだ! 時は来たのだ」
 東京は、絶対に常勝の東京でなければならない。東京には、世界の模範の勇敢なる同志の陣列を置かねばならない。
 創価学会は現代の法華経の行者だ。経文に照らし、御書に照らし、三障四魔、三類の強敵の迫害は必然だ。
 日本の中心たる大東京が、その嵐を激しく受けるのも、これまた当然のことだ。
6  ある日、戸田講堂を訪問した私は、館内を点検した幹部から受けた報告が腑に落ちなかった。すぐに現場に行って確認すると、やはり報告が間違っていた。
 「情報が間違ったら戦いにならない。連携を密にせよ。常に現場に立て!」
 私は厳しく指摘した。リーダーの油断や甘さで苦しむのは、健気な会員たちであるからだ。
 また、地元幹部との懇談の折、私は強く訴えた。
 「草創の足立支部にみなぎっていた、泥まみれになって動きに動く、あの庶民の根性を忘れるな! 骨のある人間を育てることが大事だ」
 世間の中傷がなんだ、悪口罵詈がなんだ!
 そんなことで紛動される臆病者は、創価の師弟城からは去ってもらいたい。
 勝つためには、幹部が見栄や気取りを捨て、現場で泥まみれになって、阿修羅のごとく戦う以外にない。
 学会には、学会の信念がある。裸一貫、庶民のなかから立ち上がった、不撓不屈の負けじ魂が我らの誇りだ。
7  嵐のなかの一九七九年(昭和五十四年)、私の戸田講堂訪問は、わずか半年で十八回に及んだ。ことに、十一月十六日は、本部幹部会であった。
 途中入場した私は、最後に登壇した。久方ぶりに私に会った幹部が大半であり、大拍手の雷鳴が講堂を包んだ。
 この時、私は、扇を手に、「威風堂々の歌」の指揮をとったのである。それは、会長辞任後、初めての学会歌の指揮であった。
 大東京よ、立ち上がれ!
 全同志よ、立ち上がれ!
 私は心で叫びながら、愛する同志のために、わが五体をなげうつ思いで、力の限りに舞った。私の舞に息を合わせた同志の歌声は、遠い未来までも消えぬ、師弟の正義の師子吼となったのだ。
 それから十一年後。すべてに打ち勝ち、絢欄たる創立六十周年を、皆と祝賀した舞台は、新装なったばかりの戸田講堂であった。
 さらに新しき「七つの鐘」が鳴り始めた、二〇〇一年の創立の日を祝ったのも、この戸田講堂であった。
 講堂に掛かる牧口、戸田両先生の肖像が、微笑みながら見守ってくださっていた。
 この時、私は後世のために厳として宣言した。
 ――私が、戸田先生の本物の弟子である。その本物の弟子に続く人間も、また本物なのである、と。
 師弟不二の戦いは、かくも峻厳であり、至高の使命に包まれゆくものだ。
 東京は、赫々たる広宣流布の勝利を決する師子王とならねばならない。それが東京の責務であり、永遠の宿命であるからだ。
 ギリシャの哲人プラトンは言った。
 「自身の内にある臆病と戦い、それを克服して、そのようにして完全に勇敢な者にならなければならない」(『法律』上、岡田正三訳、『プラトン全集』11所収、全国書房)
 そして、断固と進むのだ。
 「前進! 前進! 英雄のゆく道はただ一本だ。まっすぐ前へ前へ!」(鶴見祐輔著『ナポレオン』潮出版社)激戦の怒濤に生きたナポレオンは、こう結論した。
 「いかなる戦いも、最後の五分間で勝負が決まる」

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