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日蓮大聖人・池田大作

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わが新生の8月 戦争から平和へ 正義は我らの魂

2003.8.27 随筆 新・人間革命6 (池田大作全集第134巻)

前後
1  私は、一九八九年(平成元年)の六月、フランス学士院で、「東西における芸術と精神性」と題して講演した。
 その学士院の会員でもあった詩人のラ・フォンテーヌの鋭い言葉が、私は好きだ。
 「上手にたくんだ計略も 
 たくんだ者の害になる。
 そして、しばしば裏切りは
 裏切り者にはねかえる」(『寓話』上、今野一雄訳、岩波文庫)
2  この夏、私は、群馬の研修道場で、若き同志と有意義に語り合った。ちょうど終戦記念日を迎えたばかりで、あの暗い、苦しい戦時中のことが話題になった。
 当時を思い起こすと、言い知れぬ怒りと悲しみが、今も胸にわき上がる。
 一九四一年(昭和十六年)に太平洋戦争が勃発すると、私は蒲田(現・大田区)にあるディーゼル機関を製造している軍需工場の新潟鉄工所で働き始めた。
 戦地からは連戦連勝の調子のいい喧伝が続いていた。
 しかし、早くも四二年(昭和十七年)の四月には、東京などが米軍の最初の空襲を受けた。昼過ぎだったと思う。
 やがて戦況は悪化し、"銃後"をあずかる内地も、だんだん戦火におびえる事態に陥っていった。
 戦争末期になると、爆撃機のB29が、昼となく夜となく、我らの上空を飛んで来た。その悠然たる機影は忘れることができない。若き私の魂に刻み込まれて離れない。
 私は蒲田の糀谷二丁目に住んでいたが、昭和二十年三月の「東京大空襲」のあと、わが家は「強制疎開」を命じられてしまった。
 空襲の際の類焼を防ぎ、消火活動を容易にするために、強制的な取り壊しの対象とされたのだ。
 四月十五日の夜には、蒲田の大半を焼き尽くした空襲があった。
 四人の兄が戦地に行っているので、私は、父親と母親を守るべき立場であったが、はぐれて正反対の方へ逃げてしまった。
 父親たちは池上の方面へ、私は海岸の方へ行った。今もって、悔いが残っている。
 大空襲が去り、焼け終わったあと、戻ってきた母親や父親と会った時、本当に嬉しかった。また、申し訳ない思いでいっぱいであった。
 蒲田の矢口にあった、私の妻の実家も、この空襲で全焼してしまった。
 幸い、その一週間ほど前に、当時十三歳だった妻は、母たちと一緒に東京を離れていて、直接の災難は免れた。だが、残っていた父親と姉が罹災している。
 妻は両親の故郷である岐阜に疎開したが、三カ月後の七月、その岐阜の地で空襲にあい、焼け出されてしまった。
3  あの家の誰が死んだ、どこそこで誰が亡くなった……という話は、聞きたくなくとも耳に飛び込んでくる。
 「世間に人の恐るる者は火炎の中と刀剣の影と此身の死するとなるべし」――後年、戦慄して読んだ「佐渡御書」の一節の通りだった。
 「死」は、私の日常を取り囲んでいた。結核にも侵されていた。だが、いかに恐ろしき日々であっても、生きねばならなかった。
 五月の二十四日、強制疎開のため、馬込町西の親戚宅に急ごしらえした家に、ようやく家財を運び終わったころ、またも大空襲があり、新居はあっけなく焼けた。
 引っ越しと同時に、わが家はバラック小屋の生活を余儀なくされたのだ。
 ともあれ、私たちは、戦争という恐ろしき魔物に追われ、生きて今日のあることが奇跡ともいえる日々を、ただ必死になって生き抜いていく以外に道はなかった。
4  戦争を本能的に嫌悪しながらも、若い男として、兵隊に行かないと、いわば罪悪感を感じてしまう時代であった。私は、お国のためには命を捨てて働かねばならないと思っていた。
 そこで私は思い詰めて、両親に黙って少年航空兵(予科練)に志願した。入隊していれば、きっと特攻隊として出撃していたかもしれない。
 しかし、私の志願を知った父の、意外な猛反対にあって断念した。
 それでも、予科練は当時の少年たちの憧れである。心はなお葛藤し、霞ケ浦の予科練の先輩を訪ねた。彼は、真顔で言った。
 「身体の弱い君は、絶対に志願なぞ止めたほうがいい。ここは、話で聞くような、いい所じゃないぞ」
 その言葉が、いっそう激しく私を苦悩させた。
 ある日、私は、蒲田の「大鳥居」の駅前で、若い兵士が恋人らしき女性と一緒にいるのを見かけた。
 たまたま、そこに通りがかったのが上官だったらしい。兵士がさっと挨拶した。
 ところが、上官は、突然、「貴様は、ちゃんと敬礼しなかった」と難癖をつけ、その兵士を激しく殴っていったのである。連れの女性は、おろおろと泣いていた。
 当時は、"軍人にあらずんば人にあらず"という浅ましき風潮の時代であった。
 これが国を守り、国民を守る軍隊か。なんと嫌な根性の世界か……。
 私は情けなかった。いな、憤りを覚えた。
5  一時、長兄が除隊して中国大陸から戻っていた時、兄は私にしみじみと語った。
 「戦争は美談なんかじゃないぞ。日本軍は傲慢だ。あれでは中国の人びとがかわいそうだ」
 こんな言葉を軍隊で口にしたら、大騒ぎになっただろうが、長兄は真剣だった。
 「聖戦」の美名のもとに、戦争を賛美し、戦意を鼓吹する宣伝が、社会を黒々と覆い尽くした時代である。しかし、平凡な一少年にすぎない私の眼にも、軍国日本の醜い本性は、だんだんと見え始めていた。
 かのマハトマ・ガンジーは、ある時、日本の軍部の中国大陸への暴虐を聞いて、激怒したという。
 「いかに老いたりとは言え、文化の恩師である中国や朝鮮を侵略するとは恩知らずにもほどがある」(高良とみ『非せ戦を生きる──高良とみ自伝』ドスメ出版)
 これこそ人間としての正当な怒りであると思った。
 そのガンジーは言った。
 「私は全世界との友好を目標にしており、悪に対する最大の抵抗に最高の愛を結びつけることができる」(K・クリバラーニー編『抵抗するな・屈服するな』古賀勝郎訳、朝日新聞社)
 これと正反対が、国家主義であり、軍国主義である。
  国家主義は、人間の心を狂わせる。どれほど多くの人びとが、否応なく、戦争の濁流に飲み込まれ、自覚せぬままに、国家の暴力の歯車となり、宣伝スピーカーになっていったことか……。人間を人間でないものにしてしまう戦争ほど、残酷にして悲惨なものはない。
6  あの八月十五日、"神州不滅"とされてきた軍国日本は無条件で降伏し、負けた。
 それとともに、人の心も、激しく揺れ動いた。
 昨日まで"聖戦完遂"を叫んでいた者が、昔から軍隊批判の急先鋒であったかのように振る舞い始める。
 一夜にして、民主主義者、平和主義者に鞍替えする。
 あれだけ威張りちらし、あれだけ自信満々に、軍国主義を礼讃していたのは、いったい何だったのか。人間としての信念も、確信も、一時の炎であったのであろうか。
 戦争を引き起こす、人間の愚かさや弱さ、残酷さは、いったい変わるのか、変わらないのか。
 いかなる嵐にも揺るがぬ、大樹のごとき「精神の柱」はいずこにあるのか。
 若い魂は、飢餓感にさらされ続けていた。
 「(国の指導者は)教育のあり方が自分たちの知らぬまに堕落することのないように気を配らなければならない」(『国家』上、藤沢令夫訳、岩波文庫)とは、古代ギリシャの哲人プラトンの戒めである。
7  私が、生涯の師である戸田城聖先生にお会いしたのは、魂の暗中模索の渦中、敗戦から二年後の、昭和二十二年の八月十四日であった。
 一青年の質問に、権威ぶる態度は微塵もなく、どこまでも誠実に、明快に、答えてくださる先生であった。
 あの最悪の戦時下にあって、軍部政府の弾圧で牢獄に入っても、寸毫も信念を曲げなかった先生であった。そこには、人間として極限の「実像」があった。
 私は決めた。
 我、この師に続かむ。
 我、この道を進まむ。
 それが、私の新生の出発となったのである。
8  ガンジーは断言した。
 「私は全人類と一体化していなかったならば、宗教生活を送れなかったろう。それは、私が政治に立ち入ったから可能になったのである」(前掲『抵抗するな・屈服するな』)
 人間と社会の現実にどこまでも関わり、人間生命そのものを変革し、内なる智慧と慈悲を開発していく以外に、真実の平和はない。
 そのためにも、人間革命の宗教が絶対に必要なのだ。
 戦時中、私が初めて読んだ『レ・ミゼラブル』の中で、文豪ユゴーは叫んでいた。
 「迷信、頑迷、欺瞞、偏見など、それらの悪霊は、悪霊でありながらもなお生命に執着し、その妖気の中に歯と爪とを持っている。それらに対して白兵戦を演じ、戦闘を開き、しかも間断なき戦闘をなさなければならない」(『レ・ミゼラブル』2、豊島与志雄訳、岩波文庫)
 人間の心と社会の暗闇にうごめく忌まわしい邪悪とは、間断なく戦うのだ!
 広々と、人間勝利の平和の世紀を開きゆくために!
 その熾烈な精神闘争に終わりはない。
 だからこそ私は、今日も、必死に「戦うペン」をとり続けるのだ。

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