Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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「正義の言論」の勝利 世界に赫々たり 創価の太陽

2003.8.12 随筆 新・人間革命6 (池田大作全集第134巻)

前後
1  戸田先生は、よく言われた。
 「卑劣なつくり話の文章には、唾を吐く思いだ」
 われわれは威風堂々として、世界平和を願っての正義の大運動をしているのだ。
 正確な事実を全く調べもせず、ただ悪い印象を残すことのみに終始する、低俗な雑誌の中傷は目にあまる。
 正義の人を陥れる陰謀と策略を、卑しい感情のまま興味本位に残した、これらの文章など、絶対に信じてはならない。決して愚か者であってはならない。
 しかし、浅はかな人びとは、その金儲けの卑しさを知ってか知らずか、悪書に踊らされ、不潔な悩みの種を自分自身に植えてしまっているのだ。
2  幸福な人間になるには、私たちは、ためになる善書を見つけ、読んでいかねばならない。これは、当然の生活と生命の法則だ。
 まことしやかに流された多くの中傷批判も、時が過ぎゆくにつれ、その欺瞞性の仮面ははがれ落ち、ただ残るのは、人権侵書という畜生の命で濁った活字のみである。
 ともあれ、残酷な仕打ちは、いつしか歴史が裁くであろう。いな、その醜態は必ずや暴露され、永遠に滓だけが残る。あの暗き謀略、計略、復讐等々の扇情的な悪戯は、いつまでも続くものではない。
 人類の進歩を止めゆく、そして豊かさの深淵を塞ぎゆく悪意に満ちた人間は、眩い太陽から、いつも目を背けて生きてゆかねばならないのだ。
 それにしても、なんと多くの悪書が、世に氾濫していることか。
 「悪書は、心を曇らす精神的毒物である」(ショーペンハウエル『読書について 他二篇』斎藤忍随訳、岩波文庫)とは、ドイツの哲学者ショーペンハウアーの有名な言葉である。
 無数の人びとが、その売文の毒に侵され、右往左往していく姿ほど、哀れにして非人間的なことはない。
 ロシアの大文豪トルストイは叫んだ。
 「有害なる書籍が多く著され弘布されるに於ては、この害悪に対抗するにはやはり書籍に依るより外は無い」(『書籍の意義に就いて』八杉貞利訳、『トルストイ全集』20所収、岩波書店)
 その通りだ。文化の向上のため、人間性の開花のために良書がある。特に目を楽しませ、心を楽しませ、更に生命を満足させゆくものでなければならない。
 今、喜ばしいことに、わが青年部が企画し実現した「世界の書籍展」が、全国の各地で大きな共感を広げている。懐かしい北海道の小樽でも、まもなく開催される予定だ。
3  法華経にも説かれる提婆達多が、嫉妬と野心に狂い、清浄無比なる釈尊を陥れ、教団の麗しい和合を破らんと用いた邪智の手口は、いったい、何であったか。
 それこそ、「妄語(ウソ)」であり、「綺語(不当に飾り立てた言葉)」であり、「悪口」であり、「両舌(二枚舌)」であった。ここに、正法正義への迫害の常套手段がある。
 大聖人も、「日蓮を失わんと為て無かろう事を造り出さん」と、喝破されている通りだ。御本仏さえも、「無尽の讒言(尽きることのない悪口・中傷)」によって貶められたのである。
 仏意のままに広宣流布を続けゆく、この尊き学会にも、反逆と敵対の者たちから、数限りない言論の暴力を浴びせられてきた。
 近年も、さも特別の情報を握っているかのように知ったかぶって、嘘八百の言々句々で人の心を撹乱し、世間を操らんとする、悪宣伝の策謀が繰り返された。
 それらの陰湿な文章は、なんと毒々しく、人の心を破壊することか。名前だけ真実で、あとは九十九パーセントが嘘という、全くのデタラメを載せられたことも少なくない。
 御聖訓には、讒言について「そねみ候人のつくり事」――つまり、"嫉んでいる人間のつくり話"と打ち破っておられる。
 学会に対する多くのつくり話も、その陰には、必ずといっていいほど、この悪逆な嫉妬が蠢いている。
 かの日顕も、嫉みに狂い、かつては自分が苦々しく忌み嫌っていた「提婆達多みたいな人間」と結託した。そして、無惨にも「不知恩の畜生」と化して、正義の学会を見境なく弾圧し始めたのであった。
 そのやることなすこと、中傷批判のはったりと、デマの言論の凶悪と、すべての団結を破壊しゆく陰謀、また画策の動きだけであった。それは、その魔性を知る多くの人の結論だ。
 しかし、正義の学会は、断じて負けなかった。ありとあらゆる誹謗の雑誌を使い、政治権力を使っての彼らの暴虐も、ことごとく叩き割ったのである。
 裁判でも、邪悪はみな、峻厳に断罪されている。
 インドのマハトマ・ガンジーは語った。
 「嵐の海でわれわれを導き、山を動かし、大洋を跳び越えるのは信仰である」(K・クリバラーニー編『抵抗するな・屈服するな』古賀勝郎訳、朝日新聞社)
 学会は、まさしく信仰の真髄の力で、すべてを乗り越え、勝ち越えたのである。
4  昨年の夏のことだったと思う。秋谷会長が本部幹部会で発表した一文を、私たちは忘れることはできない。
 ――以前、反逆者の事実無根の捏造の話を、ある著名な週刊誌が掲載したことがあった。
 この時、学会からの抗議に対し、その週刊誌は、連載を打ち切ったが、頑なに謝罪はしなかった。しかし、その週刊誌を統括する元編集幹部が、その反逆者の極悪の本性を知って、こう語ったのである。
 当時、気づかなかったこととはいえ、「取材もせずに原稿を載せたということは、よくなかったことは、わかっています」。編集に携わった者として、「前々から言っている通り、私個人としては、名誉会長及び関係者の皆様にお詫びします」と――。
 このように良心を持っている人がまだいるということが、私は嬉しかった。
5  思えば三十年前、大歴史家のトインビー博士と対談した時、博士は私に言われた。「あなたに、多くのいわれのない批判があることも知っています。しかし、そのような皮相な論難は、なんら本質と関わりはありません」と。
 そして、その証拠として、「あなたは、将来、必ず、世界中の大学から、名誉博士の栄誉を受けられるでしょう」と励ましてくださったのであった。
 その博士の温かい激励の通り、私は今、全同志を代表して、世界の大学・学術機関から、百四十三の名誉博士・名誉教授の称号を拝受している。
 「此の経の広宣流布することは普賢菩薩の守護なるべき」と、御義口伝には説かれている。
 いかに、卑劣な退転者が結合して、学会を壊滅させようとしても、世界中の「普く賢き」知性が厳然と支持し、擁護してくださっているのだ。
 仏法の人間主義を掲げた我がSGIは、今や百八十六の国々や地域に広がり、世界中で、私どもに対する大きな賞讃と期待が高まっている。
 それ自体が、あらゆる偏見と讒言を打ち砕いた、創価の正義と勝利の厳然たる証である。学会は、断固として勝ちに勝ったのだ。
 ゲーテは綴った。
 「罵詈の矢は、それを放った当人にはね返ってゆきます」(『ツルクヴァート・タットー』小栗浩訳、『ゲーテ全集』5所収、潮出版社)。これが道理である。学会を悪口罵詈した者たちの陰惨な末路が、「還著於本人(還って本人に著きなん)」(法華経六三五ページ)という厳しき法理を如実に示しているのは、ご存じの通りだ。
6  私たちの信念の運動が、多くの面で、世界から注目されていることを、最大の誇りとしたい。
 時として、思想を異にして、互いに関係の薄い、多くの人びとや団体のなかには、表面的に学会を見て、誤解を抱くことがあるかもしれない。
 しかし、豊富な知識と理路整然たる思考に裏打ちされた、善意の方々の正視眼は、的確に学会の実像に迫る。
 悪意に満ちた、先入観に基づく邪見とは、歴然とした違いがあるものだ。我らは、あくまでも、仏法という人間主義の哲学、生命尊厳の哲学をもって、あらゆる民衆のために、平和な社会の建設をめざして、具体的に行動している。
 この崇高な精神性を失ったら、政治も、教育も、経済も、文化も、現実の人間の幸福に貢献することはできないからだ。
 宗教を単に個人の内面に閉じ込めるのではなく、人間一人ひとりが、自他共の幸福と平和へ尽くしていく。ここに、「立正安国」の宗教たる日蓮仏法の使命があると断言したい。
 その使命を果たしゆくゆえの迫害は、無上の誉れであると、私は常に思ってきた。
 かのガンジーは訴えた。
 「私にとっては、宗教を離れた政治は全く汚いものであって、常に忌避すべきものだ」(前掲『抵抗するな・屈服するな』)
 ローマクラブの創立者であるペッチェイ博士と、私は幾度となくお会いし、対談集を発刊した。(『二十一世紀への警鐘』。本全集第4巻収録)
 ファシズムと戦い抜いた不屈の闘士であった博士が、最後に私の目を見つめながら語った言葉を、思い起こす。
 「低次元の非難や中傷など、問題ではありません。どういうことがあろうと、私たちは、より深い友情でいきましょう!」
 そしてまた博士は、私の手を固く握り締めて言った。
 「才知ある畜生に、人びとを騙させては、断じてなりません。絶対に負けないでください。共に真実の人間として!」

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