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日蓮大聖人・池田大作

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「対話」は人間の大道 人と会う勇気を 語る勇気を

2003.5.31 随筆 新・人間革命6 (池田大作全集第134巻)

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1  二十世紀を代表する大歴史学者トインビー博士と私の対話は、五月に始まり、そして五月に終わった。
 それは、第一回が一九七二年(昭和四十七年)の五月五日。回を重ね、最後が翌年の五月十九日──二年越し、延べ四十時間に及んだのである。
 イギリスでは、「三月の風と四月の雨が五月の花を連れてくる」といわれる。
 厳しい冬を越えた、ロンドンの″五月の花咲く季節″は格別にすばらしい。博士ご夫妻は、わざわざ、この季節を選んで、私と妻をご自宅に招いてくださったのである。案内していただいた近くのホーランド公園では、私が博士を支えつつ、散策したことも懐かしい。
 先日、その語らいの姿を刻んだ等身大のブロンズ像を、ふるさと大田の友が届けてくれた。高潔な大学者の英姿を見事に留めた、彫刻家の芸術部の方による力作であった。
 博士のズボンの丈が幾分、短かったところまで絶妙に表現されていた。「服は古着でも、本をもっと買いたいという心境です」と微笑んでおられた碩学が偲ばれる。
 ブロンズの博士の左手は、私の右手に、何かを託すが如く重ねられようとしている。
 あの日あの時、八十四歳の博士は柔和な目に鋭い光をたたえて、四十五歳の私に言われた。
 「人類の道を開くのは、対話しかありません。あなたはまだ若い。これからも世界の知性との対話を続けてほしい」
 以来、三十年。私は、この信託に応えるべく、千五百回を超える対話を重ねてきた。
2  本部周辺を車で走る折に、青山、千駄ヶ谷、代々木、渋谷方面を回る機会も多い。渋谷区内の創価国際友好会館や東京国際友好会館でも、私は、何百人もの識者と有意義な対話を行ってきた。
 なかでも、キッシンジャー博士、ウィルソン博士、ベッチェイ博士、ユイグ先生、ログノフ博士、デルボラフ博士、ウイツクラマシンゲ博士、常書鴻画伯、へンダーソン博士らと、哲学、平和、文化、教育などを縦横に語り合い、対談集を刊行したことは、人生最大の思い出である。
 「対話」──それは、私の人生そのものといってよい。
 それぞれの文明を代表する英知の方々と発刊してきた対談集は三十三点を数え、今後もさらに出版の予定だ。
3  世界的な経済学者ガルプレイス博士とも、新たな対談が進んでいる。(=二〇〇五年九月、『人間主義の大世紀を』と題して潮出版社から発刊)
 現在、九十四歳の博士との最初の出会いは、一九七八年(昭和五十三年)の秋、信濃町の聖教新聞社での二時間の会談であった。
 「ようこそ、いらっしゃいました!」
 玄関前でご夫妻をお迎えした。博士は身長二メートル四センチ。見上げるような長身であられる。私は右手で握手を交わしながら、空いた左手を博士の頭の上に伸ばしたが、とても届かないほどであった。
 この親愛の念を込めたユーモアに、博士も笑顔で応えてくださった。
 「私は、背の高さが示すほど、危険な人物では決してありません」
 そのウイットに富んだ言葉を受けて、私は、当時の流行語になったベストセラー『不確実性の時代』の著者である博士に申し上げた。
 「背の高い人は、すべてを見通せます。しかし、地面の方は、背の低い人の方がより明確に見える。したがって、両者の論議を合わせることによって、全体の″確実性″があるのではないでしょうか」
 違いがあるからこそ、対話によって、新たな価値が生まれ、新たな発見も得られる。ガルプレイス博士と私も、すべての問題について意見が一致したわけではない。しかし、博士は今もって、喜びに溢れた楽しい会見であったと回想してくださっている。
 ボストン近郊のご自宅にご招待いただいた際、真剣に語られた言葉も忘れ難い。「戦争ほど愚かで、残酷なものはないというのが、私の人生の結論です。だからこそ、対話によって平和を生み出そうとされる、あなたの信念に共鳴するのです」
 博士は、ハーバード大学の誇る名物教授であり、同大学での私の二度目の講演で、講評も行ってくださった。(=ガルプレイス博士は二〇〇六年四月、九十七歳で逝去)
 ハーバード出身で、この五月二十五日に生誕二百周年を迎えた思想家エマソンは、友との語らいこそ″哲学の本当の学校″(『エマソン選集』5、斎藤光訳、日本教文社)と言った。
 対話という鏡に照らされて、人は他者を知り、自分を知る。対話が、自己の殻を破り、境涯を拡大するのだ。
4  日蓮大聖人への嫉妬に狂って敵対した良観は、対話を拒絶した臆病者であった。その陰で、卑劣な讒言によって、大聖人を陥れたのである。
 良観は、大聖人が流罪地・佐渡に行かれる時は、「早く法論を」と虚勢を張ってみせた。ところが、一度、蓮祖が鎌倉へ戻られると、門戸を固く閉ざしたり、風邪などと仮病を使って、対話から逃げ回ったのだ。
 大恩ある学会に対して、何の話し合いもなく一方的に弾圧を加えた日顕一派は、まさに良観の末流といってよい。
 女性門下の千日尼への御聖訓には、
 「弥信心をはげみ給うべし、仏法の道理を人に語らむ者をば男女僧尼必ずにくむべし、よしにくまばにくめ法華経・釈迦仏・天台・妙楽・伝教・章安等の金言に身をまかすべし」%(御書1308)
 この御文通り、どんなに憎まれ、悪口罵詈を浴びせられようとも、断じて恐れず、正義を語って、語り抜く。そして「悩める友を必ず幸せにしてみせる!」という一念を燃え上がらせ、執念の対話で、広宣流布を成し遂げてきたのが、尊き学会精神の真髄である。
5  もちろん、この濁り切った複雑な人間世界、「話せばわかる」というほど単純なものではない。しかし、「話さなければわからない」ことは明確にいえる。
 会って話すこともせず、憶測や先入観で決めつける傲慢さが、無用な誤解や敵意を増幅し、どれほど人類を苦しめたことか。個人の人間関係も、近隣の交際も、さらにまた、国際的な関係も、会って、対話し、互いを知ることが一切の基本である。人と会う勇気、語る勇気をもつことだ!
 「対話の選択」そのものが平和の勝利であり・人間性の勝利であるからだ。
 ゆえに私は、国家、民族、宗教、イデオロギー、世代、性別、立場等の差異を超え、一個の人間として、あらゆる人びとと会ってきた。
 キリスト教、イスラム教、ヒンズー教、ユダヤ教などを信仰する方々とも、平和への宗教間対話を広げてきた。
 国家指導者をはじめ政治家もいれば、教育者、文学者、科学者、経済学者、平和運動家、ジャーナリスト、作家、詩人・芸術家、宇宙飛行士など、立場も多岐にわたる。獄中闘争の闘士もいた。
 お会いする時、私がいつも心が廿るのは、その人が何に人生を賭けてこられたのか、いわば"人生の本懐"を尋ね、そこから学ぶことである。
 一流の人物の珠玉の経験と知恵を聞くことは、万巻の書を播く以上の得難い一時だ。
 対話は、何幕もの劇のようでもある。火花の散る瞬間があり、共鳴の音楽が高鳴る至福の時がある。生き生きとした対話には、充実があり、活力が漲る。だから私は、いかなる対話であれ、真剣勝負で臨む。
6  中国の指導者の方々とは、周恩来総理ご夫妻から、胡錦濤国家主席まで、変わらぬ友誼を深めてきた。今は、"革命第五世代"というべき全青連(中華全国青年連合会)の若き凛々しき指導者たちとも対話を重ねている。
 この四月、晴れわたる創価大学で、伝統の「周桜」の観桜会が行われた。
 その日、私は、中国の中央文献研究室の方から、鄧穎超先生(周恩来夫人)の生誕百年を記念する番組のインタビューを受けた。
 質問の焦点は、昭和五十四年、鄧穎超先生が訪日された折、どのような会話を交わしたかにあった。
 元赤坂の迎賓館での会見で、私は、第一に「周恩来展」を提案した。また、サミット(主要国首脳会議)への中国の参加を提唱した。鄧穎超先生は「一番核心を突いたお話ですね」と、満面に笑みを浮かべられた。
 嬉しいことに、四半世紀を経て、今回のエビアン・サミット(フランス)に、胡錦濤国家主席が、中国の首脳として初めて出席される運びとなった。人類の融合への対話が一段と拡充することを祈りたい。
7  「言葉が種となる」とは、お隣・韓国のことわざだ。対話を通して蒔かれた種は、時とともに花を咲かせる。眼前の一人は、一人ではない。その人の背後に家族があり、友人がいる。後継の若人がいる。
 心通う麗しき対話は、常に新たな対話への出発となり、大いなる"友情の環"を広げる第一歩となるのだ。
 対話のなかに、対立から協調への軌道があり、平和の懸け橋が築かれる。
 私は生涯、「日々、これ対話」の人生を歩み抜きたい。この大道に、わが青年たちが限りなく続きゆくことを信じて!

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