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日蓮大聖人・池田大作

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「平和の園」関西創価学園 常勝の人生 自他共の幸福を築け

2003.5.9 随筆 新・人間革命6 (池田大作全集第134巻)

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1  「二十一世紀を迎えても、人類は、どこに向かって進むべきか、わからないでいます。池田会長、未来のために、今こそ語り残しましょう!」
 私は今、平和創造の指導者ゴルバチョフ氏から提案をいただき、新たな「対談集」の発刊へ、対話を開始した。
 この三月に氏と再会した時、「あれは夢のような一時でした」と懐かしんでおられた思い出がある。
 それは何か――。ライサ夫人と訪れた、紅葉の秋の交野でのわが関西創価学園生との出会いであった。
 美しき平和の園よ! 桜花の乱舞、眩き若竹の林、静寂な蓮華の池、蛍の舞、金星の煌めき、夕焼けの道、月見の宴、白雪の庭園……この詩情あふるるロマンの学舎から、優しき瞳と強き信念の人材が澎湃と育っている。
 関西創価の同窓のスクラムこそ、私の命であり、また私と妻の宝である。さらにまた、わが家全員の夢であり、そして、我ら関西家族みなの希望でもある。
 関西学園が誕生して、ここに三十年。現役生も含めると、今や一万人を超える陣容となった。「万」には「満つる」という意義もある。
 私は嬉しい。涙が出るほど嬉しい。
 創価の人間教育の真髄をば最も深く体現した、関西創価の常勝の流れが盤石でありさえすれば、もはや未来に恐れるものはないからだ。
2  忘れもせぬ昭和四十八年の春、女子校としてスタートした関西学園の第一回入学式で、私は指針を贈った。
 「他人の不幸のうえに自分の幸福を築くことはしない」
 そして、清々しき眼差しの乙女たちに語ったのである。
 「地球は大きく、学園はケシつぶのような存在かもしれない。しかし、この心をもち、実践していくならば、やがて地球を覆うにたる力をもつはずである。なぜならば、原理は一つであるからだ」と。
 それこそ「人間革命」という不滅の哲理に他ならない。
 だからこそ「一人」が大事だ。自分が強くなれ! 自分が進むその道で、皆を守り、皆のために勝ちゆけ!
 今いる、その場所で、自他共の幸福と平和の世界を快活に断固として広げゆくパイオニアこそ、関西学園生なのだ。
  乱世をば
    幸と文化に
      あやなせり
    園子の螢
      つよく光らば
 「園子」と愛称される女子学園生の同窓生の集い「蛍会」に贈った和歌である。
 その福運に満ちた連帯の光彩が、あの地でもこの地でも、いよいよ燦然と輝きわたる関西創価の世紀に入った。
3  昭和五十四年の四月、私が第三代会長を"勇退"した時、学園生たちは、それをテレビニュースで知り、悔し涙を流した。
 しかし、関西学園の教員であった長男の博正は、学園生に、こう語り、励ましたという。
 「どういう立場になろうが、創立者は君たちの創立者だ。何も変わらないんだよ」と。
 その通りだ。私は、いかなることがあろうとも、創立者として、何よりも大切な学園生を守り、学園生の幸福と勝利のために生命を捧げる。この決心は一生涯変わらない。
 一九八二年(昭和五十七年)に、学園は男女共学となり、さらには枚方の天地に待望の関西創価小学校も誕生した。
 全創価教育のモデルと仰がれゆく、関西の一貫教育は一段と隆々たる大発展
 を遂げている。ご関係のすべての方々へ、感謝は尽きない。
4  青春の原点の炎を燃やし続ける人は強い。
 第二次世界大戦の渦中、あの独裁者ヒトラーが嘯いた。
 ――この戦いは、ヒトラー学校の卒業生と、英国のイートン校の卒業生との間のものだ、と。
 これを耳にした、英国の宰相チャーチルは、昂然と言い放った。
 ”ヒトラーは、わが母校ハロー校を忘れている!”(『人生と政治に関する我が意見』石川欣一訳、創元社、参照)
 いうまでもなく、ハロー校も、イートン校も、数多の逸材を輩出したパブリックスクールの名門である。
 チャーチルが、この母校の後輩たちを前に、手にした杖で床を叩きながら叫んだスピーチも有名である。
 「断じて負けるな。断じて屈するな。断じて、断じて、断じて、断じて」(鶴見祐輔『ウィンストン・チャーチル』講談社現代書院)
 何があろうが、苦難に対して、邪悪に対して、絶対に屈しない。
 これこそ、尊き父母から受け継いだ関西創価ならではの「負けじ魂」でもある。
 私はロシアの文豪ドストエフスキーの一節を思い出す。
 「真理、善、真実はつねに勝ち、悪や悪行に対して勝利をおさめることになるのだ。だからわれわれはかならず勝つに決まっている」(『作家の日記』小沼文彦訳、『ドストエフスキー全集』13所収、筑摩書房)
 「優れた人間は民衆から出てくるであろう、また出てこなければならない」(『手帖より』米川正夫訳、『ドストエーフスキイ全集』20所収、河出書房新社)と。
 それが、わが関西同窓だ!
 男子の卒業生の陣列である「金星会」に、私は詠んだ。
  金星会
    輝き光れや
      勝ちまくれ
    我が人生の
      歴史に悔いなく
5  一九八六年(昭和六十一年)の五月四日、私は何人かの関西の同志と共に、江戸後期の蘭医学者・緒方洪庵が開いた私塾「適塾」を訪れた。(以下、適塾記念会編『緒方洪庵と適塾』を参照)
 古い町家のたたずまいもそのままに大阪・北浜に残る、この史跡には、師弟の魂を刻印した"宝"がある。
 洪庵三十四歳の時から二十年にわたり、塾生の氏名、出身地、入塾年月日が連綿と記された「姓名録」である。
 福沢諭吉、大村益次郎、橋本左内、佐野常民など、幕末・明治の新時代に活躍した錚々たる"同窓生"の名簿は、その数六百三十六人――全体として西日本出身が多いが、関東、東北、遠く北海道出身の塾生も含まれている。
 まさに日本中からこの学塾に来り、師匠のもとで学び、人のため社会のために尽くさむと、雄志を抱いて巣立っていったのである。
 この適塾の「姓名録」から、私は創価同窓の絢爛たる未来を思い描いた。ともあれ、師弟の道を貫き通した人生は、なんと尊貴な輝きを放つことか。
 私は、修学旅行で東京に来た関西小の児童たちを歓迎した折、日本を代表する写真家である白川義員先生の言葉を紹介したことがある。
 「一度、恐怖におびえた人間は、使えない」
 「泣きながらでも、ついてきた弟子は、みんな立派になっています」と。
 厳しい一言であるが、雨の日も風の日も、「負けじの階段」を毎日通い抜いてきた頼もしき児童たちに、真実の師子の生き方を打ち込んでおきたかったのである。
6  ロシアの大詩人プーシキンは、母校の同窓の連帯を誇り高く歌った。
 「わが友よ、我らの連帯は素晴らしい。
 魂の如く、不二であり、永遠――
 揺るぐことなく、そして自由闊達。
 我らの連帯は、友情の調べに包まれ、育まれたのだ。
  …… ……
 運命が、いずこに我らを流そうとも、
 幸運が、いずこに我らを導こうとも、
 我らは変わらない」(А・С・ПУШКИН : СОБРАНИЕ СОЧИНЕНИ И, Tom2, ХУДОЖЕСTВЕННАЯ ЛИTЕРАTУРА)
 わが関西学園の卒業生の「金星会」「蛍会」「創光会(関西創価小の卒業生)」の友情は、世界最強の麗しき連帯であると讃える人は少なくない。
 同窓生の目覚ましい活躍の様子は、私のもとに毎日毎日、伝わってくる。学園主事をしている息子の尊弘から聞き、また多くの先生方から、つぶさに伺ってもいる。
 ああ、懐かしき園子たちよ! わが愛する学園生よ!
 たとえ会えなくとも、私は、妻と共に、いつもいつも祈っている。いな、一日として祈らざる日はない。
 一人ももれなく健康で幸福であれ! 一人も残らず栄光勝利の人生であれ! と。
 交野と枚方の学舎から日本全国へ、世界のありとあらゆる使命の前線へ!
 私の胸には、関西学園生の壮大なる飛翔の姿が、晴れ晴れと限りなく広がる。
 今や完壁に、君たちが二十一世紀の大関西を担い立ち、さらにまた貴女方が日本列島を揺り動かし、そしてまた、皆さんこそが全世界へ新しい常勝の大波動を巻き起こしゆく、希望の時代に入った。「関西創価」の使命は、いやまして深く、大きい。
 スイスの大哲学者ヒルティは、人類にとって貴重な人間とは、自己の弱さと戦い勝った人びとだと言った。
 "人はそうした戦いと勝利を重ねるたびに、いよいよ気高く、いよいよ練達となる"(秋山英夫訳編『希望と幸福』社会思想社、参照)
 私は、関西同窓のわが友に彼の言葉を贈りたい。

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