Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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団結の富山 福徳の人材連峰よ 光れ!

2003.4.25 随筆 新・人間革命6 (池田大作全集第134巻)

前後
1  近代中国の革命作家・魯迅は烈々と訴えた。
 「少しばかり勝利を得ると、凱歌の中に酔いしれ、緊張を失い、進撃を忘れる。そこで敵はまた、隙に乗じて立ち上がるのである」(「滬寧奪回祝賀のかなた」須藤洋一訳、『魯迅全集』10所収、学習研究社)
 この方程式は、いかなる時代も、いかなる団体にあっても、不変の鉄則である。
 さらに、若き日に読んだドイツの詩人であるシラーの言葉を私は忘れることはできない。
 「君も前へ、休むことなく進め
 疲れても立ちどまってはならない
 あくまで自身の完成をながめたいのなら」(「詩集」小栗孝則訳、『世界名詩大成』6所収、平凡社)
 今でも、その通りと思う。
2  かって、私が高岡、富山の地を初訪問したのは、一九五七年(昭和三十二年)の、心も晴れやかな秋の十月二十七日のことである。高岡駅近くの学会員宅で、日曜の午後一時から行われた指導会であった。木造家屋の数部屋を開け放し、真剣な友が三百人も集われた。
 ここ北陸は古来、念仏信仰の根強い土地柄であり、学会員は何かにつけて、非難の対象とされていった。こんな信心のはずでなかったと思いながら、わが友は極めて厳しき環境の中で、必死に信心を貫き通してきた。何百年にもわたって築き上げられた、この既成宗教で埋まっている国土の変革は、誰人もできない現状に見えた。
 しかし、いかなる変革も、一人ひとりの人間革命から始まると、仏法では説いている。
 健気な富山の同志!
 生命の芯の強い富山の同志に、私は頭が下がる思いであった。私は呼びかけた。
 「きょうは何でも聞いてください!」
 指導会は即座に質問会となった。同志の手は、いっせいにあがった。
 この日の夕方には富山市内に移動し、小さな幼稚園を会場に指導会を行った。ここでも、質問が相次いだ。
 対話である。対話こそ、一対一の人間と人間との魂を触発させ、そして結合しゆく、平凡のように見えて最も重要な方程式である。
 指導会が終わる頃に、私は御書の一節を引いて語った。
 ──「仏の名を唱へ経巻をよみ華をちらし香をひねるまでも皆我が一念に納めたる功徳善根なり」との御聖訓があります。わが胸中に功徳善根を輝かせていくのが、信仰の目的です。仏は、外にいるのでなくして、自分自身の生命の中に生きているのだ。それを、涌現するための信仰なのです──。
 窓越しに耳を傾ける友も大勢おられた。三百人近くの同志の顔に、見る見る血潮が漲っていくのが、嬉しかった。
3  有名な富山の「米騒動」は”越中の女性一撲”とも呼ばれてきた(以下、北日本新聞社編『証言 米騒動』〈北日本新聞社出版部〉ほかを参照)
 八十五年前の一九一八年(大正七年)の七月、魚津町(現・魚津市)のおかみさんたちの井戸端会議が始まりであったようだ。
 シベリア出兵で一儲けを企んだ商人や地主が米を買い占め、米価が急騰した。
 魚津では、四十六人の母たちが浜に集まった。
 ──こんなに米の値段が高くなったら、どうやって買えばいいのか。これ以上、子どもたちにひもじい思いをさせたくない!
 家族のことを思う母たちは、米の積み出し船に憤りの声をぶつけ、「米をよそに出さないでほしい」と哀願するがごとく、必死で役場に詰め寄ろうとした。
 事件が新聞で報じられるや、庶民の心の導火線に一気に火がついた。現実の生活に根差し、心の奥深くから発する女性の慈愛の声には、どん在雄弁よりも、人びとの心を射る説得力があった
 米騒動に始まった民衆運動は、やがて全国的な大潮流となり、強権的に民衆を抑圧する軍閥政府を倒し、初の政党内閣を生み出していった。
 わが国の民主主義の出発点には、女性の鋭い智慧と勇気ある行動があったのだ。
 米騒動の当時、日本で学んでいた周恩来総理は、その意義を、中国の「五・四運動」、韓国の「三・一運動」と並ぶ民衆運動と讃えている。
 今、日本列島を揺るがす”創価の母”の勇気と叫びは、何と尊いことであろうか。必ずや、光輝ある女性運動史として世界に残り、永遠の歴史に綴られていくだろう。
4  私の北陸の石川・富山への指導は、十度に及んでいるようだ。
 立山の山麓に咲き誇るコスモスを届けてくださった友に感謝し、即興詩として作った「ああ誓願の歌」も懐かしい。
 さらに、初の中国訪問の直前であった一九七四年(昭和四十九年)の四月二十八日、私は、金沢市で行われた北陸広布二十年記念総会に出席した。
 学会も世界的な広がりをもってきた。共産圏の中固まで親善の訪問をする時代になってきた。
 私は、一段と世界を回らねばならぬ責務を胸に、「北陸には数多く来られないかもしれないが、私たち夫婦は一生涯、皆様方の戦いと幸福を見守っていきます」と話を結んだ。
 世界平和への私の決意に、北陸の同志の皆様も心を合わせて喜んでくださった。
 大聖人が全人類の幸福のために、立宗宣言された四月二十八日を、「富山の日」「石川の日」とさせていただいたのは、この時であった。
5  昭和五十年代の前半、破邪顕正の前進を続ける富山の同志の前に、裏切りの陰険な坊主らが立ちはだかった。
 広布に死力を尽くし、坊主たちに多くの供養をしてきた学会員に感謝するどころか、卑怯にも我らを裏切り、陰湿な弾圧を始めたのだ。坊主の権力を振りかざした、信者に対する弾圧だ。
 幹部は、そして同志は、一軒また一軒、会員宅を訪ね、膝詰めの対話で、正邪を明確に、繰り返し指導した。その迫害との戦いは、毎日毎夜、半年以上も続いた。
 富山の同志は断じて負けなかった。そのスクラムは一段と堅固に鍛え上げられていった。
 正義であるがゆえに誇りも高く、狂気の陰謀の嵐に断固として打ち勝った。
6  一九八四年(昭和五十九年)八月二十六日には、第一回の北陸平和文化祭が行われた。
 石川県の西部緑地公園陸上競技場には、五万人の石川、富山の友が意気軒昂に集っておられた。新しい世紀へ輝く石川・富山の友の顔は、あまりにも美しかった。
 私はグラウンドを一周させていただいた。
 わき起こる歓声! 喜びの笑顔! 真剣な叫び!
 「ああ、新しい北陸の絢欄たる幕が上がった」と心に響き渡った。
 その時の未来部の参加者は、今は青年部の鐸々たる中核の英雄となっている。
 偉大なる石川・富山の北陸青年部の前進は誠に頼もしい。昨年、男子部は見事な弘教で全国を制覇した。多くの人びとが都会へ、都会へと流れゆくなかにあって、わが女子部も着実に大成長を遂げている。わが故郷を愛する本当に尊い姿である。
 「結句は身命よりも此の経を大事と思食す事・不思議が中の不思議なり」──蓮祖が越中(現在の富山)に所領を持っていた大田乗明へ宛てられた御聖訓の一節である。大聖人は、勇気ある”富山有縁の大先輩”の信心を、「不思議が中の不思議」と最大に讃嘆なされておられたのだ。
 広宣流布という、人間にとって最高無比なる目標に向かって立ち上がった北陸青年部を、日蓮大聖人が「善哉、善哉」と誉められ、最大に護り讃嘆なされることは、絶対に間違いないだろう。
7  一九九三年(平成五年)、「創価ルネサンス・勝利の年」。その正月の幹部会のことである。
 創価国際友好会館の一階ロビーに”大白牛車”が出現し、全国の同志の注目を集めた。
 この大白牛車は、伝統工芸で名高い高岡市の同志による真心の結晶であった。
 大工、高岡塗の塗師、蒔絵師をはじめ、数多くの方が仕事を終え、学会活動を終えてからコツコツと制作された。
 高さ二・三五メートル、全長四・七メートル。前面には、学会歌の指揮をとる私を、戸田先生が車駕から見守ってくださる様子が、金彩のレリーフに刻まれていた。
 私たち夫婦は、見つめながら、作り上げてくださった崇高な魂に涙した。そして「富山大白牛車」と命名 させていただき、深く深く合掌した。
 その時に詠んだ一詩が、妻の手帳に今でも残っている。
  壮大な
    真心忘れじ
      高岡の
    友の福徳
      永遠に光らむ
8  富山で、チューリップの品種改良に取り組まれてきた同志が語っておられたという。
 「チューリップの成長には休みがありません」
 「年中無休で世話をしなければ、決して良い花をつけないことが分かりました」
 「チューリップは、こまめに通ってあげればあげるほど、とちらの思いに応えてくれます。耳があるのではないかと思うほど、人の足音を聞いて育つ植物なのです」
 この話の感動は、私の胸から一生離れないだろう。粘り強く励ましの春風を友に贈る富山の同志の姿と二重写しになっている。
 白雪を冠にし鎧にして輝く、毅然たる三千メートル級の高山が連なる立山連峰と同じく、北陸の人材連峰の栄光と勝利を、私は絶対に祈らずにはいられない。
 新世紀の富山よ、そして、新世紀の北陸よ、万歳!
 一人ももれなく、健康であれ、幸福であれ!
 私は、まばゆき異体同心の北陸に、大幸運の人材山脈が輝きゆくことをば、一生涯、祈りに祈っていきたい。

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