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日蓮大聖人・池田大作

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栄冠輝け使命の同志(上) 偉大な歴史を創れ 勝ちまくれ!

2003.4.10 随筆 新・人間革命5 (池田大作全集第133巻)

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1   わが人生
    不動の富士が
      わが姿
 晴れた日には、八王子の東京牧口記念会館から、富士がよく見える。
 いつ見ても、真白きガウンをまとった王者の富士の姿は悠然としている。人間もかくありたいと思う人が多いことだろう。
 私は、折々に、その英姿をカメラに収めては、少しでも励みになればと、同志や友人に差し上げてきた。
 ある日には、烈風が吹いているのか、稜線にまつわりついた白雲が、まるで雪煙のように高く舞っていた。高い山ほど、風は強く強く吹きつけるものだ。
 私は思った。
 富士が戦っている!
 雄々しく戦っている!
 そして、あの富士のふもとで戦っている、わが静岡の大切な同志に、また山梨の健気な同志に、いつも想いを馳せるのだ。
  負けること
    知らぬ君たれ
      富士の山
2  ローマの哲人皇帝マルクス・アウレリウスは言った。
 「変化を恐れる者があるのか。しかし変化なくしてなにが生じえようぞ」(『自省録』神谷美恵子訳、岩波文庫)
 その通りだ万物は時々刻々と動き、変化していくものだすべてが戦いである変化とは戦いである。
 その戦いにあって肝心なことは、勝負は、多くの人びとの大黒柱となる指導者によって決まるということだ。いかなる風雪があっても、決して恐れてはならない。恐れないで、最後まで勝利を確信して指揮をとりゆく、その毅然たる人こそ真の指導者なのだ。
 多くの歴史は教えてくれた。多くの深き人生経験の勝利者たちも、また教えてくれた。それは、一見、不利と思える変化にも必ず勝機はある。嵐に立ち向かう猛然たる勇気があれば、電光石火の生き生きとした智慧と堂々たる行動で、いかなる変化も味方にできるということだ。
 ゆえに、人生は、非難中傷などに翻弄される愚者には、決してなってはならない。いな、恐れたり、臆病になっては絶対にいけないのだ。それは賢者でなくして愚者である。
 厳然たる魂で、断じて勝つのだとの闘魂を燃やし、混沌から勝利への変化を生み出す人間が勝利者であり、人生の英雄なのである。
 そこにのみ、誇り高き栄光と満足の歴史を創りゆく原理があるのだ。
3   君立ちて
    富士の山見て
      勝ちまくれ
 私が対談したトインビー博士は、歴史上の偉大な政治家として、三人の人物を高く高く評価しておられた。私も忘れられない洞察であった。
 その三人とは、まず、中国の漢の高祖(劉邦)であり、またローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスであった。そして、日本に、おいては、戦国乱世を勝ち越え、”泰平の世”の土台を築いた、かの徳川家康公であった。
 今年は江戸開府四百年にあたっているが、家康は晩年の九年間、眼前に富士山を仰ぐ駿府城(現在の静岡市内)を拠点に、大御所として新しい国造りに精魂を傾けた。
 ある時、家康は、「天下の邪悪を禁断する事政務の要なり」(黒板勝美・国史大系編修会編『徳川実紀』1、『新訂増補 国史大系』38所収、吉川弘文館)と語っている。
 当時、各地で狼籍を働いていた”無頼の悪党”があったらしい。そこで社会の安寧を図る政治の責務として、世にはびこる邪悪を絶て、と厳命したのである。
 悪とは、断固として戦わねばならない。
 仏法もそうだ。戦わなければ、善を破壊し、正義を失ってしまうからだ。
 「仏法破壊の極悪を根絶することが、広宣流布の実現への要である」とは、雄々しき静岡の同志の決意である。なかんずく、黒き瞳の輝く、紅顔の青年たちの邪悪に対する猛然たる追撃は見事である。
 わが師は言われた。「若き青年たちの決心に勝る力はない」と。
 わが学会の世界的発展の源流も、この若き青年たちの決心と行動によって築き上げられたものである。
4  私たちのよく知る、あの大文豪ユゴーもこう叫んだ。
 「迷信、頑迷、欺瞞、偏見など(中略)それらに対して白兵戦を演じ、戦闘を開き、しかも間断なき戦闘をなさなければならない。なぜならば、亡霊らと絶えざる戦いをなすことは、定められたる人類の運命の一つだからである」(『レミゼラブル』2、豊島与志雄訳、岩波文庫)
 全く、その通りだと、私はユゴーに頭を下げる思いであった。
 あらゆる罪悪のなかでも、人間として最低のものが忘恩である。
 戸田先生の生前にいただいたど高恩を忘れ、亡くなったその晩から、先生に対し、悪意に満ちた態度を露にし、中傷、暴言を吐いた坊主や議員や幹部の名前と顔は、今もって私の頭から離れない。
 この卑劣な忘恩の輩とは一生涯かけても、永遠にわたって打倒してみせると、心に深く強く刻んだ。
 よく先生は、「人間の心は恐ろしい。死の瞬間まで見届けなければ、その本人の心の底は見えないものだ」と言われていた。あまりにも鋭き師の言葉であった。
5  それは、一九五四年(昭和二十九年)のことであった。
 二月八日の夜、師である戸田先生が、突然、学会本部で発作を起こして倒れられたのである。ちょうど私が用事で不在の時であった。
 「大作は、大作は……」と呼ばれておられた。
 それを後で知って、私の胸は、申し訳なさと表現しがたい苦痛に千々に乱れた。
 獄中で痛めつけられた先生の体は、次第に衰弱し始めておられた。
 しかし、翌日、先生は発作の話など全くされず、何事もなかったかのように振る舞われていた。ただ、「勉強せよ、勉強せよ」と、幾度もおっしゃりながら、何かを深く思索しておられた。
 それから約五十日が過ぎた三月末、私は先生より、「まず君が、次の時代を創りゆく全青年部をがっちりとまとめ、指導していくように」と言われ、青年部の室長に任命された。
 師の心が、私には痛いほどよくわかっていた。いわゆる青年部長、男子部長という立場になると、かえって、緊急な時にすぐさまご自身のもとに呼ぶことができなくなるからである。
 船のスクリューが見えないように、組織の陰の原動力としての全責任をもたせながら、いつも私を側に、おいておきたいという、お考えであったのである。
  語り合う
    偉大な師匠と
      富士の山

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