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日蓮大聖人・池田大作

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秋田の英雄の闘魂 波よ来れ 風よ吹け 我ら戦わん

2003.3.3 随筆 新・人間革命5 (池田大作全集第133巻)

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1  「戦いを避けて逃げ歩くことや、自己を憐れむことが不幸の始まりである」(『生きる姿勢について』佐藤佐智子・伊藤ゆり子訳、大和書房)
 これは、著名なアメリカの女性社会運動家であるエレノア・ルーズベルトの言葉である。彼女は、ニューディール(新規まき直し)政策で知られるルーズベルト大統領の夫人である。
 戦う人は前途に希望が湧く。戦わない人は、心まで消沈して侘しい。これが人生の法則だ。
 先日、私は、ペルー国立ピウラ大学のベガス総長ご一行とお会いした。
 世界的な環境学者である総長は、十五年前(一九八八年)、ペルーの南極調査にも隊員として参加しておられ、会談でも、その苦心談が話題になった。
 南極といえば、日本の南極探検の先駆者・白瀬中尉は、秋田出身である。
 南極点にこそ到達できなかったが、一九一〇年代初頭、ノルウェーのアムンゼン隊や英国のスコット隊と時を同じくして、雄々しく未踏の大陸に挑んだ彼の足跡は、人類の歴史に輝き残る。
 しかし、彼が、極地探検の夢を実現する道程は、悪戦苦闘の連続であった。
 国は口先だけで何の支援もしてくれぬ。やっと民間の援助を得て、南極探検の準備が動き出すと、今度は「児戯に等しい」だの、「学問上から見て価値は零」だの、全く無責任な嘲笑や非難が霰のごとく襲った。
 白瀬中尉は、これらの難関を越え、遂に船出にこぎ着けた心境を書いている。
 「艱難汝を玉にす。逆境に育った児は意志が強固である。いざ行かん、氷山来たれ、怒涛来たれ、暴風吹け、われらは日ごろの手練をあっばれ現わして、みごと南極の果てまで息もつかずに突進しよう」(白瀕矗『南極探検』、『世界ノンフィクション全集』36所収、筑摩書房)
 この不屈の心意気は、広宣流布という平和の理想へ戦い進む、わが秋田の同志の闘魂と二重写しになる。
2  「戦う秋田」「創価の大道を歩む秋田」──その淵源は、若き日、私が支部幹事として指揮した蒲田支部である。学会精神の息吹を、満々と呼吸して伸びてきたことが、秋田の誇りだ。
 当初、秋田の同志は、この蒲田支部の矢口地区に所属していた。私の義父母である白木夫妻が、地区部長と支部婦人部長であった。
 矢口地区は、私が蒲田支部の担当を離れてからも、全国トップの弘教を続けた。その大きい原動力が、秋田の先駆者の皆様方であった。私自身、義父母から、常に「秋田はすごいよ」「すばらしい人材がいるよ」と、幾度となく聞いていた。
 一方、秋田の同志も、折あるごとに、戸田先生のもとに馳せ参じては、真剣に指導を求め抜いた。その燃えるがごとき求道心を、恩師もこよなく愛しておられた。
 一九五四年(昭和二十九年)七月、先生が初訪問されて間もなく、秋田は地区に発展。二年後(五六年)には、日本海広布の先陣を切る秋田支部の誕生となるのである。
 五七年(昭和三十二年)の四月には、秋田支部は全国三位の弘教を達成し、一つの地区は、地区として未曾有の千三百世帯を超え、日本第一の折伏を成し遂げたのだ。
 「日本海の雄・秋田、ここにあり!」──全国の同志を驚嘆させた勝利であった。
 大歓喜に包まれ、翌五月に開催した初の支部総会こそ、私の「秋田訪問」の第一歩となったのである。
3  ロシアの文豪・トルストイは「善を行うことこそは、間違いなくわれわれに幸福を与えてくれる唯一の行為である」(小沼文彦編訳『ことばの日めくり』女子パウロ会)と語っている。
 草創期の秋田の同志には、小さく納まってしまう発想はなかった。自身の限界を破って、打って出た。雪が降ろうが、風が吹とうが、断固として、前へ、前へ、前へ!
 まさに、破竹の勢いがあった。勇気の行動があった。ゆえに喜びの爆発があった。
 「広宣流布こそわが人生」と思い定めた、崇高な使命感が燃えていた。
 仏法を求める人が、不幸に呻吟する人がいれば、近隣はもちろん、秋田中、東北中、いな、日本中に飛び出していくかのような勢いであった。
 一時、秋田には”東京班”さえあったと伺っている。当時、「上野──秋田」間は、急行でも、片道十二時間ほどかかった。普通列車なら約十六時間である。
 しかし、その遠さも、苦にしなかった。なけなしのお金を握り、師を求め、指導を求めて学会本部を訪ねる友も少なくなかった。勇気百倍するや、帰りに途中下車し、折伏に走った同志もいた。
 日蓮大聖人は、「道のとをきに心ざしのあらわるるにや」と仰せであられる。「友を思う真心」「仏法を求める志」の前では、道の遠さも、また、不便さも決して障害ではない。
 「よし、行こう」と勇気を奮って決意した時、心は物理的な距離を超え、もう相手に向かつて走っている。遠くて、滅多に会えない場合もある。だが、その分、一期一会の思いで、心血を注げば、思い出は無限となる。
 今は電話やメールも活用できる。大事なのは「会おう」「語ろう」という深き一念だ。
 それは、自分が縁を結んだ「一人」を、絶対に大切にしようという真剣さといってもよいだろう。この「真剣」の二字に、慈愛も、信頼も、連帯も、勝利も、すべて収まっている。
 人生もまた同じだ。「これだけは石にかじりついてもやる!」という執念で、一日、一日を勝ち取る以外に、偉大な歴史は残せない。
 「この世には、真剣にやらないでできるものはなに一つないのだ」(『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』山崎章甫訳、岩波文庫)とゲーテが言った通りである。
4  かつて秋田の有名な鉱山の労働組合が、学会員を除名にして締め出そうと迫害した時も、秋田の皆様方は「信仰は権利だ!」と一歩も退かなかった。負けなかった。
 さらに、真実の宗教改革の前哨戦となった、あの陰湿な第一次宗門事件でも、歯を食いしばりながら、邪悪な宗教の権力と戦い抜いた。
 なんと偉大な歴史か!
 この一月には、私たちの勝利宣言となった「雪の秋田指導」二十一周年を記念する集いも、意気高く開催された。
 創価学会は、永遠に民衆の側に立つ。これが、秋田の兄弟姉妹の不動の信念だ。
 ゆえに、善良な民衆を苦しめる陰険な権力を、絶対に許さなかったのである。
 日蓮大聖人は、迫害の渦中にあった池上兄弟に対して、「臆するな」「攻め抜け」と繰り返し指導された。悪は放置すれば、必ずはびこり、善を破壊するからだ。
 「此れより後も・いかなる事ありとも・すこしもたゆむ事なかれ、いよいよ・はりあげてせむべし
 師の遺言である「追撃の手を緩めるな」との指導と一体である。
 正義は休まない。この戦い続ける福徳が、現当二世にわたり、創価の大城を荘厳していくのだ。
5  さあ! 私たちが楽しみにしてきた、待望の新・秋田文化会館の完成も間近い。
 私は、ロシアの大詩人プーシキンの詩を、正義の剣もつ秋田の英雄に贈りたい。
 「希望をもち心浮きたたす自信をもって/すべてに立ち向かえ」「進め! 剣と大胆な胸をもって/自分の道を常夜の北に切り開け」(『ルスラーンとリュドミーラ』川端香男里訳、『プーシキン全集』1所収、河出書房新社)
 おお! 雄々しき秋田の同志よ! 私たちは、互いに偉大なる輝く歴史を創っているのだ。頼もしくも、その大先頭に勇敢に立っているのが、若き英雄たる青年部諸君である。
 虐げられ、侮蔑され続けた人びとが、正義と栄光を満喫できる黄金の時代を、秋田は遂に創った。
 古代インドの哲人ティルバッルバルは言った。
 「行為と戦いの二つにおいてはやり残しがあると、/残り火のようにくすぶり、滅亡をもたらす」(『ティルックラル』高橋孝信訳注、平凡社)
 断じて最後まで、勝たねばならない。勝つか、負けるかによって、幸不幸が決まってしまう。峻厳な言葉だ。
 人生は勝たねばならない。自身が勝つことが、新世紀の赫々たる平和と幸福の夜明けとなるのだ。
 その主役こそ、その名優こそ、広宣流布の雄・偉大なる秋田の皆様なのである。

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