Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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神奈川の大精神 戦いを起こせ! 歴史を創れ!

2002.1.15 随筆 新・人間革命5 (池田大作全集第133巻)

前後
1  中国革命の原動力であった孫文先生は叫んだ。
 「目的を達成するまで中途で放棄してはならない。われわれは必ずこの目的を達成しなければならない。それがわれわれの志気である」(「革命の成功はすべて主義の宣伝いかんにかかっている」西村成雄訳、『孫文選集』2所収、社会思想社)
2  神奈川には、常に、生き生きとして人びとを引きつける強力な磁石がある。
 いかなる時代の荒波も恐れず、むしろ勇んで受けて立っていく、進取の気風の歴史が築かれていた。
 約百五十年前、日本があの鎖国を解き、横浜の港が世界に広々と開かれてより、この歴史と魅力は一貫して変わらない。ここには、開放的で快活在、強力なバイタリティーがみなぎっている。
 私は、人生もこのように生き生きと力強く、大勢の人びとに歴史の響きを与えていかねばならないと思いながら、幾度となく、港の光景を見つめたものであった。
 神奈川は大好きだ。
 神奈川のにぎやかな港は、去来する船舶と人生の生き生きとした劇をば感じさせ、何か別世界に来たような気にさせてくれるからだ。今日も変わらず、この港では、朝早くから、多くの船が未来に向かって波を切り、その希望の警笛が交差しながら鳴りやまない。
 わが広宣流布の戦いにあっても、一貫して神奈川は広布の陣列の先頭に立って、東京をはじめ全国の牽引力となってきた。
 神奈川は、不思議にも新しき時代を先取りしていく、偉大な創造の力をもち、人びとの羨望を集める魅力をもっている。つまり、我らの目標とする平和と文化の一大発信センターの使命を立派に果たしてくれてきた。
 全国へと広がった「マイ聖教」の言論運動も、神奈川からであった。
 男子部の活動の新機軸となった「ヤング男子部」も、神奈川が発祥の地である。
 新しき創価の世紀の実像は、この偉大なる歴史を綴ってきた神奈川の勝利、勝利の大進撃から、生き生きと姿を現してきでいる。
3  「人間革命」は、一切の変革の根本である。
 そして、言論戦は、民主主義の勝利を決定しゆく百万の軍勢である。
 わが愛する神奈川の天地には、「正義」の言論戦の魂が、厳として置き留められていることを、決して忘れないでもらいたい。
 それは、一九七〇年(昭和四十五年)──私の会長就任十周年の前後のことである
 当時、学会は、一言論問題の嵐の渦中にあった。急速に、社会に大きな地位を占めてきた学会にとって、それは、大きな試練でもあった。
 この時とばかり、私個人だけでなく、婦人部など善良な会員にまで、非難中傷の飛礫が浴びせられた。
 その多難のなか、私は幾度となく、神奈川の天地を本陣としながら、あらゆる攻防戦の指揮をとった。
 この地で、小説『人間革命』第六巻の執筆も続けた。
 体調も崩していた。微熱が続き、ぺンを持つのも苦しかった。やむをえず、頭に冷たいタオルを巻きながら、懸命に口述を繰り返した。
 一回一回、同志と対話する思いで、この一節一節が、友の勇気となり、希望となることを祈り、信じて戦った。
 偉大な思い出は偉大な歴史を創ってくれる。自身にとっての最高に満足な未来まで開いてくれるからだ。
4  今、多くの人びとが、にぎやかに行き交う名所である横浜・山下公園を見下ろす、我らの神奈川文化会館の増改修工事が、嬉しいことに、三月の完成をめざして進んでいる。
 皆が、その完成を嬉しそうに待っている。世界中の同志が、神奈川の同志の城の完成を、喝采をあげながら見つめている。
 友愛深き神奈川の同志の方々も、また、その完成の日を楽しみにしながら、一日一日を大きな戦いの巨歩を揃えながら、笑顔で待っているにちがいない。
 私が思い出多き神奈川文化会館を初訪問したのは、忘れもしない一九七九年(昭和五十四年)の四月十三日であった。
 翌日には、広布の歴史に残りゆくであろう開館記念の勤行会が、それはそれは、にぎやかに、決意をみなぎらせながら開催された。
 あの傲慢と陰湿な嫉妬のために狂気じみた、第一次宗門事件の嵐のなかであった。しかし、わが光り輝く創価の大城は、広宣流布を誓い合った同志の笑顔で、燦々と輝いていた。
 私が第三代会長を辞任したのは、それから十日後のことである。
 ──だが、やがて審判は下り、正義の勝利の旗が晴れ晴れと翻ることになる。
 我らは勝ったのだ。厳然と勝ったのだ。
5  会長辞任後、反逆者らの陰険なる画策と圧迫により、私の姿は「聖教新聞」にもほとんど報じられなくなっていった。
 また、週刊誌等が濁流のように学会を攻撃し、遂には、裏切り、学会乗っ取りを狙った悪党らが謀略をめぐらし、野良犬がわめくように、書き立ててきた。
 私は、師子として、正義の言論を武器に、今再び戦端を開く決心をした。
 一九八〇年(昭和五十五年)の七月二十六日、わが陣地は、”天下の険”と謳われる神奈川の箱根に移った。
 わが師・戸田先生は、箱根が大変好きであられた。私も二、三回、お供させていただいたことが懐かしい。その時に、こういう所に、将来、研修所があると皆が喜ぶだろうなと言われていたことが、私の胸に深く刻みつけられたものだ。
6  私は、駆けつけた「聖教新聞」の記者に宣言した。
 二年ぶりとなる小説『人間革命』の連載再開と、草創期に戦い抜き、他界された誉れの先達を顕彰する「忘れ得ぬ同志」の執筆を開始する──と。
 学会を取り巻く状況から、私が表面に出れば、それ自体が攻撃の材料となることを懸念する声も多くあった。しかし、私は覚悟していた。私は言い放った。
 「このままでは、学会員があまりにもかわいそうだ。
 多くの同志が『今の機関紙を見ても、何の希望も見いだせない。勇気も出ない』と言ってきている。
 大切な学会員を守る責務がある。元気を出せるように励ます責任もある。会員を絶対に守り抜くんだ。
 私は、断固として、矢面に立って戦う!」
 尊き仏子である会員を守るためなら、一体、何を恐れることがあるか! 私は、その決然たる闘争宣言を、神奈川の地で行ったのだ。
 執筆は翌日から始まった。いざ戦う時は、電光石火の行動だ。攻撃の勢いが一切の勝負を決するからだ。
 この年は、七月末から異常気象が続いた。各地に冷害をもたらした冷夏に、私の肉体もいたく苛まれた。そのため、この時も、口述による執筆となった。
 七月二十九日には、「忘れ得ぬ同志」の第一回を発表。
 八月十日には、小説『人間革命』第十一巻の連載がスタートしたのである。その新章は「転機」の章──まさに、正義の言論戦で機を転じ、勝機を開きゆく出発の天地が、神奈川であったのだ。
7  ”新しき決意で、新しき戦いを起こせ!”
 箱根で、この決断をした時、私の胸には、師である戸田先生のお顔が浮かんでいた。
 先生が、歴史的な「原水爆禁止宣言」を師子吼なされたのは、こと神奈川の、横浜・三ツ沢の陸上競技場である。皆様ご存じの通りだ。それは、人類の生存の権利を奪う魔性に対する、仏法の人間主義を掲げての戦闘開始宣言であられた。
 さらに、鎌倉で、末法の言論戦を開始された、若き日蓮大聖人の御姿が臨ばれてならなかった。
 蓮祖は、御自身の大法戦について、御書に仰せである。
 「経文に任せて権実二教のいくさを起し(中略)今に至るまで軍やむ事なし
 「日蓮其の身にあひあたりて大兵を・をこして二十余年なり、日蓮一度もしりぞく心なし
 私は、強く、強く思った。
 「戦いを起とす」──この一点に、日蓮仏法の精髄が脈動していることを。
 仏の生命とは、勇気を奮って、来る年も来る年も、元初の決意をもって、厳然と戦い勝ちゆく法理であることを。
 それは何よりも、自分自身の惰性、油断、臆病などの、内なる魔を破る戦いだ。
 さらにマンネリ化した古い発想、人びとを縛る固定観念などを打破しゆく戦いだ。
 戦いがあるから、人は自己の建設と、境涯を開くことができる。そこに、限りなく広げられた幸福の大海原が待っているのだ。
 戦いがなければ、よどんだ水が腐るように、自分で自分の成長を止めてしまう。この世に生きた歴史も残せず、暗い無意味在一生で、後悔して屍をさらすだけだ。
 ゆえに、どとまでも、月々日々、汝自身の戦いを起こし続けよ! その戦いに勝ち切っていくなかに、広布と人生の栄光があることを、日蓮仏法は教えてくれたのだ。
 「戦いを起こせ! 歴史を創れ!」──これが神奈川の大精神だ。神奈川の合言葉だ。
 戦おうではないか!
 南米解放の父ボリバルは、力強く叫んだ。
 「信念を持って戦う民衆は、最後に勝つ」と。

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