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日蓮大聖人・池田大作

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新しき勝利の旭日・茨城 一人立て! 地域の勇気の君よ

2002.11.28 随筆 新・人間革命5 (池田大作全集第133巻)

前後
1  「うしろをふり向く必要はない。前途にまだまだ道はあるからだ」(「灯火漫筆」松枝茂夫訳、『魯迅選集』5所収、岩波書店)
 中国の作家・魯迅が、青年たちを励ました言葉である。
 前を見よ! 我らの開拓すべき天地は広い。君よ、今日の責務を決然と果たしながら、今日より明日へ、日々新たに、また、日に日に新たに前進し抜いていくのだ!
 その執念の行動に、栄光の勝利があり、幸福がある。
2  それは、晩秋の十一月二十六日のことであった。
 第三代会長に就任して半年余り──一九六〇年(昭和三十五年)のその日、私は、茨城の水戸へ走った。県営の体育館に約八千人が集った、水戸支部の結成大会に出席したのである。
 前日の雨はあがり、青空が見えていた。
 新出発の同志に、私は「自分自身との闘争を!」と強く訴えた。全員が偉大な「人間革命」の歴史を綴り残してほしかったのである。
 それから十年目となる一九六九年(昭和四十四年)の十一月二十九日、私は、発展する茨城総合本部の指導会をもった。
 その日は快晴だった。沈黙の空を見上げる、青年たちのにぎやかさは壮観であった。会場の水戸会館には、壮年、婦人も共に、四百人の代表が集い合い、どの顔も、晴れ晴れとして輝いていた。
 私が”何でもどうぞ”と、発言を促すと、一人の婦人が勢いよく立ち上がった。
 力あふれる雄弁こそ、人びとに勇気を与えるものだ。
 「先生、家庭の悩みはすべて解決できました! 元気いっぱい戦っています!」
 それを聞くや、間髪入れず別の方が声を上げた。
 「長年の病気を克服できました! 毎日、頑張っています!」
 「猛反対だった夫が信心するようになり、本当の一家和楽の家庭が築けました!」
 「先生、私も……」
 堰を切ったように、勝利の喜びの声が飛び出し、期せずして”大歓喜の活動報告会”となった。
 人生の試練を乗り越えた勝利、勝利、また勝利の報告が、私は嬉しかった。
 仏法は勝負であり、勝つことが正義であるからだ。
 人生は勝たねばならない。その勝敗は、自分に勝っか、否かにかかっている。
 それは、現状に甘んじる惰性を破る挑戦だ。臆病な弱き心をば、雄々しく乗り越えゆく勇気の行動だ。
3  私は戦時中、あの震ケ浦に臨む、土浦の少年航空隊の基地にいた友人を訪ねた。それ以来、幾度となく茨城の大地を踏みしめた。
 水戸はもちろん、”太陽の昇りゆく”日立も、今はサッカーでも有名になった鹿島(現・鹿嶋市)も懐かしい。
 茨城は、牧口先生も何度も来られている。
 『万葉集』に歌われる関東の名山・筑波山にも、足を運ばれた。一九三六年(昭和十一年)の一月のことである。土浦から筑波鉄道(当時)で麓の町に行き、この端麗な山を仰がれたのであろう。
 その土浦・つくば方面は、現在では、新しき希望の都、二十一世紀をリードする学園都市として発展している。
 牧口先生は、翌日には下妻を訪れ、青年教育者を交えて座談会を開くとともに、茨城県支部を発足された。手元の資料を見る限り、これは、牧口先生が自ら出席して結成された最初の地方支部であったようである。
4  わが茨城は、忍耐と希望が輝く正義の天地である。
 日本画の巨匠・横山大観も水戸の出身である
 先日(十月二十一日)、私は、八王子の東京富士美術館で行われた「日本のこころ──富士と桜」展を観た。そこには「朝陽霊峰」(宮内庁三の丸尚蔵館蔵)をはじめ、大観の名作四点も出品されていて、非常に感銘した。
 大観が師と仰ぎ、敬愛してやまなかったのが、近代日本美術の父・岡倉天心である。彼は晩年、太平洋に臨む北茨城の五浦を、日本での拠点とし、茨城に縁が深い。
 大観は、この師の恩について、こう語っている。
 「私の今日あるのは、骨肉も遠く及ばないほどの先生の真実の愛と、御鞭撻と御庇護とがあったからです」(『大観画談』講談社)
 一八九八年(明治三十一年)、天心はある事件によって、東京美術学校(当時)の校長職を追われた。その時、同校教員だった大観は、この処分に抗議し、決然として学校を辞している。
 思えば、牧口先生が、傲慢なる権勢家の圧力で西町尋常小学校校長を左遷された時、戸田先生も同校を辞め、師に付いていかれた。
 その後も牧口先生は、三笠尋常小学校からも左遷され、白金尋常小学校から廃校予定の学校への異動により退職を余儀なくされ、そして軍部政府の弾圧で投獄された。
 この四度にわたる師の大難にお供されたことを、戸田先生は誇りも高く熱っぽく語ってくださった。
 ともあれ大観は、師・天心が新たに構想した日本美術院の創設に勇んで加わり、美術院の初の展覧会のために、猛然と作品を描き上げている。
 それが、あの「屈原」──陰謀によって祖国を追われた、中国・戦国時代の詩人政治家・屈原を描いた傑作であった。
 大観、そこに、社会の烈風に一人屹立する、師の威風堂々の雄姿を託したのであろう。
 ”師の真実を歪め、追放した連中を許さぬ! 師の偉大さは、わが絵筆をもって宣揚してみせる!”
 偉大にして使命を知る、若き弟子の赤誠は、多くの観る者をして感涙せしめた。
5  屈原は叫ぶ。
 「わが心に善いと信ずることなれば、幾度死すとも決して悔いることはない!」(「離騒」、通釈)
 この有名な詩句は、若き日に、私が戸田先生から個人教授された一節でもある。
 彼が憤激した如く、”賢人を妬み、美徳を隠し、悪をほめそやす”転倒の濁世にあっては、真面目に、正直に生きることが、時として愚かしく思えることすらある。
 しかし、だからこそ、世間の毀誉褒貶に染まらず、毅然として正しき人間の大道を開かねばならぬ。「この自覚を忘れるな!」との師の厳しき声が、懐かしく響き合ってくる。
 「ランプはみずからの焔を燃やしつづけないかぎり、他のランプを照らすことはできない」(『瞑想録』蛯原徳夫訳、『タゴール著作集』7所収、第三文明社)
6  これは、茨城にも足跡を残した、インドの詩聖タゴールの深き言葉である。
 その通りだと、私は心から頷いた。
 二十年前(一九八三ヰ)、私と二十一世紀の勝利を誓い合った茨城の同志は、勇敢に戦いに戦い、勝ちに勝ってきた。
 現実の社会の変化と流れは厳しい。しかし、この茨城の天地は、首都圏を担い支える原動力となった。偉大な力を揮う無上の喜びの、むきだしの光線が茨城を照らし始めた。
 希望は輝いている。希望のなきところには、前進も勝利もない。それは眠っていると同じだからだ。
 これからの茨城は、未聞の勝利と至高の喜びを、共に祝福しゆく時代に入ったのだ。
 茨城の友よ、断固として、広布のために一人立て!
 そして、「栄光・大勝の年」の新しき太陽と共に、大勝利の太陽と共に、赫々と昇り給え!

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