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日蓮大聖人・池田大作

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陰の労苦の大英雄に感謝 わが胸中の栄光の城は永遠なり

2002.10.24 随筆 新・人間革命5 (池田大作全集第133巻)

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1  ドイツの大詩人へルダーリンの言葉が、私は好きだ。
 「大きな苦痛と大きな歓喜とは、もっともよく人間を育成するものだ」(「ノイファーへ」小島純郎訳、『へルダーリン全集』4所収、河出書房新社)
 そしてまた、イギリスの詩人シェークスピアのこの言葉も好きだ。
 「逆境が人に与える教訓ほどうるわしいものはない」(『お気に召すまま』小田島雄志訳、『シェイクスピア全集』4所収、白水社)
2  わが創価学会の隆々たる発展の勢いを見て、ある学者が感嘆していた。
 ──日本の新しい人間世紀がやって来た感じがする。なんと仮面をかぶった悪徳の怪物が多いこの時代に、庶民の光り輝く、人間と人間とを結合しゆく大平和運動に、私は大喝采を贈りたい、と。
 今、秋の日本列島の津々浦々で、地区総会やブロック総会、また支部総会が、楽しく、賑やかに繰り広げられている。
 どの会場でも、設営の任務にあたっておられる同志の方々の真心が、なんと嬉しいことか。私たちを温かく迎えてくださり、また、私たちの心を明るくしてくださっていることに感謝したい。
 幹部は、陰で奔走してくださっている、この方々を絶対に忘れてはならない。常に温かく見守り、温かく励まし、心からの感謝の言葉を捧げるべきである。尊き庶民の真心を当たり前と勘違いし、感謝を忘れるところに、精神の堕落が始まるからだ。
 「傲れる者の末路は痛ましい」(「謙抑」高岡和夫訳、『ヘルダーリン全集』1所収、河出出版新社)とは、ドイツの先哲の鋭き人間洞察だ。
 五十年の創価の世界を築き見守ってきた私には、この言葉がわが身に染みてよくわかる。
 忘恩の輩、卑怯な幹部、増上慢と利己主義の幹部──彼らは、和合僧を利用し、けなし、卑しい悪党の心を隠した、偽善の連中であった。
 しかし、仏法の因果の理法は厳しい。必ず、いつの日か、その正体はあらわれてしまうものだ。皆様も、ご存じの通りだ。
3  思えば、学会の大前進とともに、日蓮仏法の大興隆を荘厳してきた設営には、尊き歴史と伝統がある。広宣流布の不滅の記念碑として、深く同志の心に刻まれているものも多い。
 一九六〇年(昭和三十五年)の五月三日、両国・日大講堂での私の会長就任式の設営を担当してくださったのは、草創の川崎支部の皆様方であった。
 当初は、定例の本部総会の運営担当として、二月から準備を始めていた。それが四月の半ば、突如として、待望の第三代会長の就任式となることが決定したのだ。この時、運営については、学会本部と青年部で行うべきだとの意見も出た。
 しかし、私は、これまで準備を進めてこられた方々の気持ちを考え、引き続き川崎支部の皆様に担当を、お願いしたのである。支部のメンバーは欣喜雀躍し、設営に全魂を傾けてくださった。
 演壇後方の左右の垂れ幕には、わが師・戸田先生の歌が墨痕鮮やかに書かれ、真上には、先生の大きな遺影が掲げられた。
 かなりの重量があり、掲揚作業には緊張が走ったが、無事に成功した。
 ──あの日、晴れの式典会場に入場した私は、恩師の遺影を仰いで誓った。
 ”私は今、先生の後を継いで、今世の一生の大法戦を開始いたしました。生死を超えて、世界広布の旅路を進みます。ご照覧ください”
 この誓いのままに、炎と燃えて走り抜いた四十余年に、私は一点の悔いもない。
4  会長就任式から十年後の一九七〇年(昭和四十五年)の秋、わが大阪の地で、威風堂々たる関西文化祭が開催された。この時、私は、設営を担当してくれたグループに「鉄人会」の名称を贈った。
 当時、学会は社会の猛烈な批判を受け、私自身が、一切の矢面に立っていた。
 「波の絶えず砕ける岩頭のごとくあれ」(『自省録』神谷美恵子訳、岩波文庫)とは、哲人皇帝マルクス・アウレリウス(一二一~一八〇年)の箴言である。
 あの激浪の間にも、私は、巌のごとく、悠然と広宣流布の指揮をとり続けた。今もまた同じである。その様子に、「まるで鉄人のようだ」と、ある著名人が感嘆していた。
 私のことはともかく、何があろうが厳然と学会を守る、鉄の信念の闘士こそ「鉄人」の名にふさわしい。ゆえに、陰の英雄の諸君に「鉄人会」と贈らせていただいたのであった。
 その後、東北や中国などにも、「鉄人会」が誕生していった。
5  ある時、戸田先生は、私たち青年たちに語られた。
 「三類の強敵の嵐のおこることは必定だ。これからいよいよ襲いかかってくるだろう。しかし、断じて負けるわけにはいかないのだ。
 なぜかならば、敗戦日本の救済も、世界の恒久平和の実現も、帰するところは日蓮大聖人の生命哲学による以外に途はないからです」
 これは、一九五四年(昭和二十九年)の九月、草創の男子部の人材グループ「水滸会」の第一回野外研修での師子吼であった。
 この思い出深き野外研修が行われた東京・奥多摩の氷川の地に、わが弟子である青年部が、研修塾を建設してくれた。一九八二年(昭和五十七年)の夏のことである。
 時あたかも、反逆者と悪坊主らの陰謀の網を破り、いよいよ反転攻勢の総攻撃を開始した時であった。
 建設作業は六月十二日に始まったが、梅雨と台風の影響で、連日のように大雨に見舞われた。がけ崩れで交通機関が止まった時もあった。
 しかし、彼らの勢いは止まらなかった。ますます熱血の魂を燃え上がらせた。嵐をついて何時間も歩き、作業現場に駆け付けた友もいた。
 結局、延べ三千八百人を超える青年たちが建設に従事。この汗と労苦の結晶である研修塾が完成をみたのは、二カ月後の八月十日であった。
 自ら勇んで、陰の労苦に徹した、この建設作業が原点となり、翌月に開催された第二回世界平和文化祭の折に、東京男子部の設営グループ「栄光会」が誕生したのである。
 彼らは、二年後(一九八四年)にも、決然と、新たな研修棟の建設に取り組んだ。
 厳冬の二月、手足の感覚も失う酷寒のなか、若き五体に鞭打っての作業であった。まさに、猛然と悪条件に挑んだ熱血の奮闘で、青年の錬磨の城は、築き上げられたのであった。
6  一九八二年(昭和五十七年)を起点として、有名な”六段円塔”の関西青年平和文化祭、埼玉・所沢での、あの世界平和文化祭など、何年にもわたって、平和大運動の意義を刻み、あの地との地で文化祭が繰り広げられていった。
 こうした学会の文化祭は、世界でも高く評価され、幾つかの国で上映された。
 それら新世紀建設の、名もなき民衆の大文化祭運動の陰に、どれほど多くの皆様の涙ぐましい献身があったことか!
 「創価文化の金字塔」は、まさに庶民の決意と真心の金字塔であった、
 中部の「炎の会」、北海道の「虹の会」、九州の「暁会」、沖縄の「鉄拳会」の各方面、また、神奈川の「創匠会」、長野の「章駄天グループ」など、各県で活躍される設営グループの皆様。男子部の白鳳会、女子部のデザイングループをはじめ、さまざまな行事のデザインに携わってくださった皆様。そして、あらゆる”陰の力”の方々に、私は、最大に賞讃を贈りたい。
 私は、今もって、あの時代に奮闘してくださった方々の姿を忘れることはできない。
 自身の胸中に刻んだ建設の思い出は永遠である。陰の労作業は、自らの生命の城を無限に荘厳しゆくのだ。
7  五十数年前、戸田先生の事業の窮地のなか、私は一人、師を、お守りするために、阿修羅のごとく戦い抜いた。四面楚歌の暗闇の日々であった。だが、私は生命の因果の厳たる理法を信じた。
 信心の極意は、誰が見ていようが、いまいが、「冥の照覧」を信じ、喜んで広宣流布の労苦に身を捧げ、戦い抜くなかにあるのだ。今の私があるのは、全部、その時の苦境時代を乗り切った福徳であると確信している。
 後年、先生が笑みを浮かべて、ぽつんと言われた。
 「俺も、大作も、男らしい戦いをやり抜いてきたなあ」
 胸が熱く熱く燃え上がった。私には、それで十分であった。
 私は、誰よりも陰で戦ってくださる皆様の、深き真心がわかるつもりだ。
 スイスのあの著名な思想家、ヒルティは名著『幸福論』にこう書き残していた。
 「人生のいかなる偶然性にも左右されることなく、そして実際に到達することのできる幸福は、ある大きな思想に生きて、それのためにたゆまず着実な仕事をつづける生活のうちに見出されるものだ」(草間平作訳、岩波文庫)
 この通りだ。人間を凝視し、深く知る賢人の、時を超えて、我々の存在を讃えるかのような声が耳朶に響く。この黄金の言葉を、「陰の労苦の大英雄」であり、「わが真実の同志」である皆様に贈りたい。

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