Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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わが師と地球民族主義 君よ世界へ! 師弟の大道に続け

2002.10.4 随筆 新・人間革命5 (池田大作全集第133巻)

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1  「ああ、なんと嬉しいことではないか!」
 日蓮大聖人は、ある弟子にこう書き送られた。
 「うれしきかな末法流布に生れあへる我等」──いかなる宿縁のゆえか、末法の広宣流布の時に巡りあえた我々は、なんと幸福者であろうか、と。
 二十一世紀の今、私たちは仏意仏勅の創価学会の同志となり、共々に広宣流布という世界平和の大願を果たすために戦える。
 かくも誇り高く、尊き人生があろうか!
 先師牧口常三郎先生は、六十年前(一九四二年)、青年たちに指導された。
 ”広宣流布は青年のリードによらねばならない。明治維新の革新も、二十代の青年によってなされたのである”
 恩師戸田城聖先生が、あの男子部の結成式で叫ばれたことも、”青年の手で広宣流布を達成せよ”という熱烈な期待であった。
 まことに、青年を第一とすることは、創価の師弟の相伝といってよい。
 五十年前(一九五二年)の二月、戸田先生をお迎えして、青年部が開催した初の研究発表会のことは、今も胸から離れない。この発表会は、男女の各部隊から代表二名が討論に参加し、提示された論題に答えるというものであった。
 「信心すると大善生活が出来る理由」「宗教と科学の関係を述べよ」「五重の相対について述べよ」など、二十の設問に、五分以内で、答えていくのである。
 女子部時代の私の妻も、代表として登壇し、「霊魂論が誤っているわけ」との設問に、真剣に答え、論じていた。
 青年は、未来を担う責務がある。旺盛な探求心と問題意識をもたねばならない。
 戸田先生は、たとえ粗削りでも、青年らしい快活な討論を、目を細めて、何度も領きながら耳を傾けてくださった。
 そして、講評を交えて挨拶された。
 この時のことである。師は”私自身の思想を述べておく”と前置きされ、初めて”地球民族主義”という言葉を口にされたのだ。
 耳慣れぬ言葉であった。だが、それは、広宣流布の遠征が世界を相手にしていることを、いやがうえにも自覚させたのである。
 当時、朝鮮戦争(韓国戦争)の戦火は未だ止まず、東西の対立は、第三次世界大戦の危機さえはらんでいた。イデオロギーや国家体制の相克は、世界の分断の溝を深め、不信と憎悪の泥沼が広がっていたのである。
 恩師は、この深刻な対立を止揚する、平和と共生の指標として、”地球民族主義”を提唱されたのであろう。それは、まさに「人間という原点に立ち返れ!」「世界市民の精神に目覚めよ!」との警世の叫びであった。
2  師の指導は続いた。
 「私は二十歳の時、師に仕え、四十三歳にして牢に入りました。その間の二十有余年、一度も師に心配をかけないでまいりました。
 三代会長は青年部に渡す。牧口門下には渡しません」
 「譲る会長は一人でありますが、その時に分裂があってはなりませんぞ。今の牧口門下が私を支えるように、三代会長を戸田門下が支えていきなさい。
 私は広宣流布のために、身を捨てます。その屍が品川の沖に、また、どこにさらされようとも三代会長を支えていくならば、絶対に広宣流布はできます」
 私は当時、蒲田の支部幹事として、”二月闘争”の指揮をとり、広宣流布の突破口を開かんと、猛然と走り抜いていた渦中であった。先生の師子吼の電撃は、私の五体を貫いた。
 最後に師は、日本を、東洋を救うのは学会しかないと断言され、青年に烈々たる口調で質された。
 「諸君は立つか!」
 会場は、厳粛な空気に包まれた。
 師は、炯々たる眼で、一人ひとりを射貫くように見据え、再び問うた。
 「立つか!」
 「立ちます!」
 問髪を入れず、青年たちの誓いの声が響き渡った。
 ──私は、あの日の師弟の約束を、片時も忘れたことはない。五十年間、広宣流布のために戦って、戦って、戦い抜いてきた。それが弟子としての私の誇りである。
 ともあれ、誓いは一生涯、貫いてこそ誓いである。
 先生が健在なうちは殊勝な弟子面をしながら、結局、師匠を裏切り、同志を裏切り、自分で暗聞に転落していった愚劣な連中も、幾人もいた。その忘恩の末路はあまりにも哀れであり、厳しい。
3   大鵬の
    空をぞ かける
      姿して
    千代の命を
      くらしてぞあれ
 これは、一九五三年(昭和二十八年)の七月に、戸田先生が、発刊されたばかりの”開目抄講義”に揮毫され、私にくださった和歌である。
 当時の私は、来る日も来る日も体調が悪かった。背中に焼けた鉄板が一枚、胸には焼けた木が一枝入ったような、苦悶の時もあった。
 この和歌に、どれほど勇気をいただいたことか!
 断じて、生き抜くのだ! 世界に羽ばたき、太陽の仏法が大空に輝きわたる時代を、必ずつくるのだ!
 私は日々、自らを叱咤し、宿命の打開を祈った。必死に病魔を打ち破りながら、広布の戦闘の炎を、さらに燃え上がらせていった。
 それから一年後、戸田先生のお供をして、先生が心から愛しておられた北海道の厚田村を訪れた。師が少年期を過ごした故郷である。
 波打つ日本海を見ながら、先生は、私に言われた。
 「大作、私は、日本の広宣流布の盤石な礎をつくる。
 君は、世界の広宣流布の道を開くんだ。頼んだぞ!」
 日々、ひたすら師匠にお応えしようと、一心不乱に奮戦してきた私の歩みは、そのまま、まっすぐに世界へ通じていたのであった。
 一九六〇年(昭和三十五年)、第三代会長となった私は、師匠の遺言を身に体し、世界平和への飛朔を開始した。その日、十月二日の凛乎たる決意は、今も変わることはない。
 以来、私と共に、学会と共に、懸命に戦ってくださった地涌の菩薩である皆様方の尊き労苦によって、遂に、日蓮仏法は百八十三カ国・地域に広がったのである。
 法華経には、仏を「開道者(道を開く者)」と説かれている。幸福の大道、友情の大道、平和の大道を開いてこそ真の仏法者である。この道を開く力は、誠実にして真剣な行動しかない。
4  戸田先生は、ご逝去の半年前、インドのネルー首相が来日した時には、”一度、会って話してみたいものだ”と言われていた。
 「どんどん一流の人に会っていけ!」と、私に指導してくださった。
 不思議にも、ネルー首相の令孫であるラジプ・ガンジー首相、さらにご家族と、私は深い交誼を重ねることとなった。
 「思想は、それ自身の正しさを証明するためには、行動にみちびくものでなければならない」(『父が子に語る世界歴史』6、大山聡訳、みすず書房)とは、かのネルー首相の言葉であった。
5  今年で、歴史家トインビー博士との対話からも三十年。これまで私は、千五百人を超える世界の文化人等とお会いしてきた。国家や民族、文化的背景などの違いを超え、「人間」という一点で結び合い、人類平和への流れをつくることを願つての行動である。
 その一つ一つが、戸田先生の弟子として、世界への道を開くことを誓った私の、使命の戦いであるからだ。
 これからも、命の限り、力の限り、”地球民族主義”の大道を開きゆく決心はますます強い。
 幾百万の若き青年の君たちが後に続くことを信じて!

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