Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

若き広布の指導者・創価班 不二の師弟ある限り無限の大前進

2002.9.23 随筆 新・人間革命5 (池田大作全集第133巻)

前後
1  私たちの人生の深き価値ある行動について、日蓮大聖人は「報恩抄」で、このように仰せになった。
 「極楽での百年の修行の功徳は、汚れた、この国土での一日の修行の功徳に及ばない」(御書三二九ページ、通解)
 全く、その通りであると思う。名誉や財宝を持って幸せそうに見えても、価値観の浅い人間の在り方は、その喜びも浅い。
 汚れた悪世にあって、苦悩と傲慢の人間同士のぶつかり合いは厳しい。その厳しき社会のなかにこそ、人間は錬磨されてゆくのである。
 この荒れ狂う人間の葛藤のなかに、作り上げた妙法修行の一日の功徳は、平凡な、戦いのなき極楽浄土での百年の功徳より、一層、偉大なのである。広宣流布を目的とする、わが創価班の朝な夕なの活動は、正義の拡大である。正義と栄光の城を厳護しゆく勇敢なる闘争である。
 悪との戦いの先陣を走り、勝ち開きゆく使命の勇者──それが、わが創価班の諸君である。さらに君たちは、「追撃の手をゆるめるな」と遺言した戸田城聖の峻厳なる指導を胸に、命を顧みず、捨て身となって、破邪顕正の前進を止めない。常に、邪悪なる輩から、わが同志を守り、わが本陣を守りに守ってくださっている。
 その美しくも尊き使命と魂の光る創価班の諸君に、心から私たちは感謝申し上げたい。
2  日々刻々と、日本列島に展開しゆく広宣流布の最前線で会合を運営し、一切の推進力として健闘する創価班。
 労苦を厭わず、あらゆる法戦に活躍し奮闘する、この創価班が誕生したのは、忘れもしない一九七六年(昭和五十二牛)十一月のことである。
 それまで、当時の総本山で幾千万人もの登山会の運営を担当し、あらゆる人びとが讃え、お世話になった青年部の「輸送班」を発展・拡充させての結成であった。
 新しき時代に、使命に燃え立つ若人たちが、決然と意義深く結集したのである。あの紅顔可憐の勇姿は、あまりにもすばらしかった。
 この新しき世紀の人材の陣列に、私は誉れ高き「創価班」の名称を贈った。
 さらに、学会の本流であり、広布の先頭を開きゆく創価班の真の出発の意義を込めて、翌年(一九七七年)の一月六日に、第一回総会を開催することを決定した。この日は、私が恩師戸田先生から、一人、後事を託された師弟の劇の日であった。
 それは、一九五一年(昭和二十六年)の一月の六日、私は戸田先生に呼ばれ、ご自宅に伺った。会社の書類整理を手伝うためである。部屋には奥様も控えていた。
 当時、先生の事業は破綻し、進退窮まる状況にあった。
 先生は、憔悴したお顔に、ただならぬ厳しい表情を浮かべて、私に言われた。
 「今、大事なのは後のことだ。私に、もし万一のことがあったら、学会のことも、事業のことも、一切、君に任せるから、全部、引き受けてくれないか」
 先生は、私の目をじっと見据えながら、さらに声を強められた。
 「大作、私のこの世に生まれた使命は、また君の使命なんだ。私と君とが使命に生きるならば、きっと大聖人の御遺命も達成する時が来るだろう……」
 全身に電撃が走り、感涙を抑えることができなかった。
 師は五十歳。弟子は二十三歳になったばかりであった。
 私は、顔を上げて、先生に申し上げた。
 「先生、決してご心配なさらないでください。私の一生は、先生に捧げて悔いのない覚悟だけは、とうにできております。この覚悟は、また将来にわたって、永遠に変わることはありません!」
 師弟の魂は不二であり、そこには厳粛なる後継の儀式があった。
 戸田城聖は、広宣流布の、私の師匠である。この師を命を賭して守りきることが、仏法の命脈と創価の正義を守ることになる。これが私の確信であり、弟子の誓いであった。
 それから二十六年を経て、私は、同じ「一月六日」を、学会後継の創価班の総会の日にと、提案したのである。
3  この忘れ得ぬ歴史的な第一回総会の冒頭、創価班の「一期生」の凛々しき若武者たちに、私は宣言した。
 「大聖人の御遺命は広宣流布である。広宣流布を忘れたところに、もはや日蓮仏法の魂はない!」
 当時は、広宣流布を目的として戦いゆく学会に対して、宗門の一部坊主の卑劣な攻撃が表面化し始めていた時である。
 私は、決意も深く語った。
 「わが創価学会は、仏法の真髄を、民衆のなかへ、社会のなかへ流布しゆく、広宣流布の母体である。ゆえに、君たち創価班こそが、学会の未来万年にわたる盤石なる基盤を構築し、世界への大発展の原動力となっていくことを、忘れないでいただきたい」
4  学会員の外護の赤誠を冷酷に踏みにじる坊主どもの言動が、どれほど純真なわが同志を苦しめたことか!
 その陰に、学会の乗っ取りを狙い、己の私利私欲のために和合僧を破壊せんとした邪悪な輩の陰謀があったことは、もはや天下周知の事実である。
 我々は、真剣に、そして誠実に総本山を外護し、坊主たちを養い、大教団にしてあげた。
 その総本山をはじめ、坊主どもからの陰険きわまる反逆であった。
 イギリスの詩人バイロンは言った。
 「奴らは嘘で暮らしている」(『ドン・ジュアン』下、小川和夫訳、冨山房)
 そしてまたバイロンは、高い地位の傲慢な輩に対して、「いちばん高みにありながらも、いちばん小っぼけというわけだ」(同前)と責めている。
 その通りである。
 我らは、供養を取るだけ取られて騙された。その非道きわまる仕打ちに対しての無念さは、今もって絶対に忘れることはできない。人間のなす事以上の悪辣な、畜生坊主どもであった。
 若き弟子は、猛然と立ち上がった。使命の信念は一段と強く、明確なる目標に向かって、深い決意で戦った
5  あの一九九〇年(平成二年)。悔し涙を浮かべて憤っていた、創価班のリーダーの姿は、私の胸に焼きついて離れない。
 この年は、総本山で開創七百年の記念行事が相次いだ。その間、創価班のメンバーは多忙な仕事をやりくりして駆けつけ、不眠不休で運営の任にあたっていた。
 礼義を尽くし、真剣に任務に就いている創価班員に対して、宗門の坊主からは、感謝の言葉も、労いの言葉もなかった。それどころか、創価班を侮辱し、邪魔者呼ばわりする暴言を浴びせたのである。
 なんと無慚な、なんと増上慢の坊主どもか! 陰で一番苦労し、広宣流布を支えゆく正義の人を、悪口罵詈して恥じぬ忘恩の輩こそが、仏法破壊の邪魔者であるのだ。
 創価班は、私と同じ心で、総本山に真心を尽くしてきた。だからこそ創価班は、私と同じ心で、極悪との闘争に決起した。わが創価班は、仏意仏勅の学会を、如説修行の学会員を、そして広宣流布の命脈を守り抜いてくれたのだ!
 その功績は永遠不滅であり、その福徳は無量無辺であることは疑いない。
6  若き丈夫たちが、誇りとして歌い継いできたのが、創価班の歌である。この歌は、私が創価班の友に贈った二つの句をもとに作詞されたものであった。
 その一つの句は、一九七八年(昭和五十三年)の一月、四国研修道場を訪問した折、集い来る同志の整理・誘導に凛然と奔走する、その頼もしき姿を詠んだものと記憶する。
  「あな嬉し 学会厳たり 創価班」
 もう一つは、翌二月、白雪舞う真冬の立川文化会館で、寒風に一人立って、駐車場の片隅に着任していたメンバーに贈った句である。
  「寒風に 一人立ちたり 創価班」
 その年の三月に発表された創価班の歌は、当初、三番までしかなかった。私が三番も作るよう提案すると、関西のメンバーが率先して作詞に取り組んでくれた。
 彼らは、一二番の歌調に、私と関西の友が折伏の金字塔をもって常勝不敗の民衆城を築いてきた、青春の誇りと敢闘を語い上げてくれた。まさに、ここにこそ、「創価を守り抜く」との創価班の清純なる大精神の魂が光っていた。
 戸田先生は断言なされた。
 「折伏に精進するならば、魔の侵すところとはならない。決して天魔鬼神に侵されることのない平和な生活ができる」
 学会厳護とは何か。それは弘教の大波で、広宣流布の新しき舞台を、新しき人材の陣列を、無限に拡大していくことだ!
 仏法に説く現実社会の障魔がいかに競い起ころうとも、真の学会精神に立つ師弟があるり、すべてを変毒為薬して、赫々たる太陽の光に包まれゆく大道が、無限に我らの前にはある。
 私と創価班は、「古の奇しき縁」で結ばれた家族だ。この創価の師弟による、新しい建設の時代が、再び今、開始された。その偉大なる指導者たる創価班に、私は、イギリスの哲学者ラッセルの箴言を贈りたい。
 「偉大な建設的な事業の成功から得られる満足は、人生が与える最大の満足の一つである」(『幸福論』安藤貞雄訳、岩波文庫)

1
1