Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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わが原点 八月十四日 師は厳しかった 弟子は嬉しかった

2002.8.14 随筆 新・人間革命5 (池田大作全集第133巻)

前後
1  その日の夜は、静かであった。
 家々も夜の食事が終わったのであろう、静かであった。
 一九四七年(昭和二十二年)の八月十四日――。
 薄暗い道を、幾人かの人々が一軒の家をめざして、勇んで急いでいた。
 それは、大田の糀谷の三宅宅での座談会に出席するためであった。
 それから早くも五十五年の時が流れている。
 この日が、私の人生の「運命の一日」となったといってよい。
 私にとって、その日は、戸田城聖先生に創価学会への入会を誓い、約束する日となったからである。そして、十日後の八月二十四日に、私は入信したのである。あの座談会の日、私は十九歳であった。
 師である戸田先生は、慈父のごとく私を待っていてくださった。
 三世に流れゆく厳粛な一時であった。戸田先生の弟子となりて、広宣流布にこの身を捧げる決意をした、弟子の誓いの日である。
 終戦から満二年の、蒸し暑い、真夏の夜の、庶民の生き生きとした人生の希望の劇であった。
 街灯のない道は、夜は暗かった。蒲田のあちこちには、忌まわしき焼け野原がまだ多く残っていた。残酷無残な犠牲者を多く出した善良な市民の苦しみは、深く続いていた。
 若き私も、その責任者はいったい誰かを、厳しく自問している一日一日であった。
 肺病による発熱で、当時十代の私は、夕方から常に体がだるくなり、苦しかった。
 希望の人生を生き抜く一番の星たる羅針盤を求めていた私は、〝生命哲学″の会合だという親しき友人の言葉を信じ、意味のわからぬままに座談会へ向かった。
 会場に着いたのは、辺りも皆、暗くなった午後八時ごろであったと思う。
2  玄関で靴を脱ぐと、幾分しゃがれた闊達な声が、奥から聞こえてきた。
 初めて接する、戸田城聖先生の謦咳である。それは「立正安国論」の講義であった。
 日蓮大聖人が、平和社会の実現へ、大哲学の樹立を宣言された一書である。
 後に知った事だが、この「安国論講義」は、前年からの「法華経講義」に加えて、新たに開始され、月一回行われていた。戸田先生が注がれた、警世の情熱そのものの講義であった。日蓮仏法の真髄の師子吼であった。
 古い、死せる仏教では断じてなかった。生き生きとした大確信と躍動感にみなぎった、光り輝く未来への大道が開けていた。
 日本の敗戦は、昭和二十年の八月十五日だが、国として「ポツダム宣言」を受諾し、戦争の終結を最終決定したのは前日の十四日である。
 いわば、世界を知らぬ島国根性の軍国日本の瓦解が決まった日である。
 多くの自由主義者、正しき人生観を信念として生き抜いてきた平和主義者への残酷なる仕打ちの連続の日本列島であった。
 倣岸にも、アジアの国々を侵略した、帝国主義の傲慢無礼な振る舞いを、〝自由と解放のために生鮮を開始した″などと仮面をかぶり、欺瞞の喧伝をした、狂気じみた悪国日本の幼稚さよ。
 その二年後の同じ日、みじめな敗北の日本で、「平和の大哲学」を高く掲げ、新しき民衆大運動たる広宣流布という大闘争を開始されていた戸田先生と、私は燃える魂をいやがうえにも燃え上がらせながら、当然のごとく出会ったのである。
3  奇しくも、同じ晩、アジアでは、刻一刻と、新しい国が時を待っていたごとく、独立の宣言の旗を振り始めた。
 それは、仏教の発祥の地であるインドの独立前夜のことであった。八月十四日の深夜、独立インドのネパール初代首相は、ニューデリーの国会議事堂で演説した。
 「世界が寝静まるとき、夜半の鐘が鳴ると同時に、インドは生命と自由に向かって目覚めるであろう。(中略)その時、私たちは古きものより新しきものへと一歩を踏み出す」(中村平治訳『ネルー』清水書院)
 「月氏の国」インドの民衆が、自由に対して目を開こうとしていた時、私は「太陽の仏法」の光を初めて浴びた。私の若き生命も、また、目を覚ましたのである。
4  「立正安国論」の講義が終わると、懇談に移った。戸田先生は、仁丹を噛みながら、全く構えるところのない自然体である。形ばかりの宗教家や政治家のような、あの権威ぶった、人々を見下ろす傲慢さとは全く違う、自然体であられた。初対面の私も、若き心のままに質問をさせていただいた。
 「先生、正しい人生とは、いったい、どういう人生をいうのでしょうか」
 少々、思い詰めた声であったかもしれない。
 太平洋戦争が勃発した年、私は十三歳だった。終戦時は十七歳である。人生で最も多感な時期が、黒く厚い戦雲に覆われていた。
 さらに私は、結核にも侵されていた。
 「外からは戦争」「内からは結核」。常に背中に「死の影」が張りついていた。
 そして敗戦によって、それまでの国家観や人生観は完全に崩れ去った。
 いったい、真実の人生とは何か! この生命を何に使えばよいのか!
 戸田先生からは、確信に満ちた、明快な答えが返ってきた。理論の遊戯や、話の焦点をぼかす欺瞞は少しもない。
 青年を愚弄する大人に嫌気がさしていた私は感動した。戦争を賛美しながら、戦後、手のひらを返すように平和主義者に豹変した政治家や知識人にも辟易していた。
 戸田先生が軍部政府の弾圧を受け、二年間、投獄されていた事実は、私が師事する決定的な理由となった。私自身、もし再び戦争が起きたら、牢獄に入ってでも抵抗する覚悟の人間でありたかった。いかなる権力の横暴にも屈せぬ勇者として生きたかった。そのための実践哲学を求めていたのである。
5  五十五年前(一九四七年)、私は、人生の道を模索する、平凡な青年の一人にすぎなかった。
 その私が、師弟の道に徹したからこそ、最高無上の「正義の人生」を生き抜くことができたと確信している。
 私は米国コロンビア大学ティーチャーズ・カレッジにおける講演で、戸田先生に呼びかけるように語った。
 「今の私の九八パーセントは、すべて、恩師より学んだものであります」
 人間だけが師弟をもつことができる。師弟の道によって自分を高めていける。ここに人間の究極がある。後継の青年たちには、伝え遺せる限り、私のもっているものすべて伝えたい。一切の後事を託したい。その私の心を、弟子たる君たちは深く知ってほしいのだ。
6  私が、初めて大阪の天地を踏み、広布の大闘争を開始したのも八月十四日であった。
 師と出会ってから五年後の昭和二十七年の夏---今から五十年前である。
 私が乗った特急つばめ号が、淀川の鉄橋を渡り、大阪駅にすべり込んだのは、すでに夕暮れ近くであった。
 翌十五日には、戸田先生が大阪においでになることになっていた。
 私は、ここ大阪に、東京と並ぶ、否、それ以上の〝広宣流布の大城″を築くために、師の戦いを一人、陰で支え抜くと決めていた。
 それには、自分自身が広布拡大の最前線に、果敢に打って出ることだ。
 私は、大阪に着くと、直ちに堺市の座談会へ走った。
 翌日は、いよいよ戸田先生を迎えての「仏教大講演会」である。大阪城の前にある大手前会館が会場だった。
 私も登壇者だったが、開会前のわずかな時間を見つけ、路上へ飛び出した。
 大阪の同志と一緒に、参加を呼びかけるビラを配った。粗末なワラ半紙に、折伏精神に満ちた勇ましい文字が躍っていた。私は、一兵卒となって、道行く人にビラを渡し、声をかけた。たちまちシャツは、汗でびっしょり濡れた。
 褒める人など一人もいない。怪訝そうな顔、敵意や好奇の視線……様々なまなざしを浴びながら、ただ青年らしく、誠実に参加を訴えた。
 広宣流布の断行という師の願業を、弟子として共に開きゆく、無言の喜びだけが五体を包んでいた。師弟の道は、どこか遠いところにあるのではない。人びとの幸福のために戦う、現実の闘争のなかにある。
 この夏から四年後の昭和三十一年、〝大阪の大法戦″において、私は関西の同志と共に、一カ月で一万一千百十一世帯という折伏の不滅の勝利の金字塔を打ち立てたのであった。
 今日まで、その広布の大業を乗り越えた歴史は、いまだない。
 勝ってこそ弟子である。弟子が負けてしまえば、師弟の敗北である。
 二十一世紀、我らの勇敢なる行進は、新たな大山脈をめざしているのだ。
 わが誇り高き創価の同志よ、今再び、痛快にして未曾有の、勝ち戦の絢爛たる歴史を永遠に残しゆく、師弟の人生の大道を生き抜き、勝ち抜き、飾りゆこうではないか!
7  戸田先生は、よく言われた。
 「学会の幹部も、出来の悪い者ほど威張っている。
 本当に信心が透徹して、教学も真面目に研究する者は威張らない」
 そしてまた、幾たびとなく、強く教えておられた。
 「情熱がなくては、物事は動き出さない」

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