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日蓮大聖人・池田大作

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写真 わが「光の詩」 「今日」を勝て! 生命の輝きで

2002.6.13 随筆 新・人間革命5 (池田大作全集第133巻)

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1  「たんに肉眼だけでなく心眼も用いなくては、美を拡大して見ることはできない」
2  3  4  「この心眼を開かせるということが特別な教育の仕事となる」(「文学論」奈良毅訳、『タゴール著作集』9所収、第三文明社)
 これは、インドの大詩人であり、学園(現在のタゴール国際大学)の創立者でもあったタゴールの洞察であった。
 心の眼を広々と開けば、この裟婆世界こそ、美に輝く生命の宝処となる。
 創価学会の平和・文化・教育の運動は、生き生きとした「美の価値」の創造であり、拡大でもある。
 私が写真を撮り始めてから、すでに三十年余りになろうかそれは、余暇というより、むしろ戦いであった。
 一年、三百六十五日、ゆっくりカメラを手にする時間は、もちろんない。どうしても、移動の車中や機中、また行事の合間の撮影となる。
 しかし、不思議なもので、そんな多忙の日常でも、美の発見には、事欠かない。
 王者の富士の英姿。はるかに延びる一本の道。
 刻一刻と色を塗り替える、夕焼けの空変幻自在に姿を変える雲。
 水に浮かぶ睡蓮の清楚さ。路傍に凛と咲く花々……。
 光の加減で、街角のビルにも、美の彩りが宿る。
 「要するに、美は到るところにあります。美がわれわれの眼に背くのではなくて、われわれの眼が美を認めそこなうのです」(『ロダンの言葉抄』高村光太郎訳、岩波文庫)
 フランスの大芸術家ロダンの達観である。
 かけがえのない一瞬、また一瞬に、生命が敏感に反応し、呼応して、シャッターを押す。
 単純といえば単純である。ありのままの自然の美しさと、気取らず飾らず繕わず、無作の対話を、ただ誠実に織りなしていくことだ。
 素人には素人なりの写真芸術の道があると、私は思ってきた。
 私が第六次訪中から帰国した直後のことである。同行のカメラマンが、ある写真の相談にきた。
 それは、北京の故宮博物院を俯瞰して、彼が撮影した全景写真であった。見ると、そこには、工事中の現場が、そのまま画面の中央に写っていた。
 彼は、それを気にかけ、グラフ誌の表紙で使うべきか悩んでいたのである。
 私は即座に言った。
 「それが、いいんだよ。この日、この時の写真は、これしかないんだから!」
 この日、この時、この一瞬にしか存在しない価値があり、美がある。それが写真の命ではないだろうか。
 仏法では「瞬間即永遠」と説いている。
 「過去の因を知らんと欲せば其の現在の果を見よ未来の果を知らんと欲せば其の現在の因を見よ」と、経文にある。
 如如として来る現在の一瞬の生命は、永劫の過去と未来を包みゆく。
 写真が一瞬の真剣勝負であるように、人生も「今を勝つ戦い」である。「今日を勝つ戦い」である。
 御聖訓には、「命はまさに一念(一瞬の心)の間にすぎないから、仏は一念随喜の功徳と説かれたのである。もし、これが二念・三念を待つというならば、平等大慧の根本の誓い、直ちに一切衆生を皆、成仏に導いていく法とはいわれない」(御書四六六ページ、通解)と仰せである。
 今、この時を逃さず、縁する一人の生命に、希望と歓喜の光を送っていく。広宣流布の波動は、常に、そこから始まり、そこから起こる。
5  私の拙い作品による写真展が最初に聞かれたのは、一九八二年(昭和五十七年)のことであった。以来、それは、「自然との対話」写真展等と銘打たれ、この二十年で、海外でも、現在開催中のものを含め、二十七カ国・地域、五十八都市で行われてきた。
 まことに汗顔の至りであるが、プロではない私の写真が、多くの写真愛好家の方々に自信と希望を広げ、少しでも文化の親善につながればと願っている。
 芸術というと、どうしても、お金がかかる場合が少なくない。写真ならば、誰でも、いつでも、どこでも、気楽に楽しんでいくことができる。
 この広々と開かれた民衆文化を通して、世界に友情を結んでいけることは、このうえない喜びである。
 去る五月二十八日からは、十日聞にわたり、韓日両国の国民交流年を慶祝して、ソウルの著名な「芸術の殿堂」美術館で開催していただいた。
 つい先日の「ニューヨーク・タイムズ」にも、この写真展の所感が掲載されていたと、アメリカの友が連絡してくれた。サッカーのワールドカップの取材でソウル滞在中の記者が、試合前に立ち寄って鑑賞されたとのことである。

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