Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

沖縄世界に輝く宝島 師子よ舞え 永遠平和の理想郷に!

2002.5.28 随筆 新・人間革命5 (池田大作全集第133巻)

前後
1  「妙法独り繁昌せん時、万民一同に南無妙法蓮華経と唱え奉らば吹く風枝をならさず雨つちくれを砕かず
 何度も拝してきた、「如説修行抄」の一節である。
 広宣流布の正義の連帯が広がれば広がるほど、それが土台となり、わが国土に平和と繁栄と幸福が、必ず必ず築かれていく。
 その偉大な実証を示してこられたのが、誉れも高き沖縄の友である。
 沖縄には、「他人に痛めつけられても寝ることはできる。しかし、他人を痛めつけたら寝られない」(「他人んかい くるさってー寝んだりーしが、他人くるちぇー寝んだらん」)という有名な諺がある。
 なんと深い、なんと大きな心であろうか!
 この言葉が、あの戦争で最も傷つけられた沖縄の民衆の胸に脈打っていることに、私は涙する。
 仏法の人間主義の生き方の一つも、「他人の不幸の上に自分の幸福を築かない」ということだ。まさしく、非暴力と平和こそ、沖縄に光る黄金の心といってよい。
 私は、沖縄が大好きだ。その思いは、第三代会長に就任した直後の初訪問から、四十数年間、全く変わらない。いな、いや増して募るばかりだ。
2  今月、沖縄は、「本土復帰三十周年」を迎えた。
 私が、沖縄の復帰を求める提言をしたのは、一九六七年(昭和四十三年)夏の第十回学生部総会のことである。当時は戦後二十年を過ぎ、長年にわたり尊き復帰運動が積み重ねられていたが、なお道は遠く険しかった。
 民衆の幸福に尽くす仏法者の責務として、私は叫ばずにはいられなかった。
 私は「米国の施政権の即時全面返還」と「本土復帰」を力説した。さらに、核基地の撤去、並びに通常の基地も順次縮小し、最終的には全面撤去をめざすべきだと主張したのである。
 なお、この次の年(一九六八年)の第十一回学生部総会で、私は「日中国交正常化」を提唱した。私は、日中友好を軸に平和の潮流を強めることが、沖縄復帰へも連動しゆくことを強く願っていた
3  私の沖縄の提言から五年、いよいよ復帰は、現実のものとして迫っていた。
 一九七二年(昭和四十七年)の一月下旬、私は沖縄に降り立つ。これが六度目の訪問である。
 佐藤首相とニクソン大統領の会談により、”復帰が五月十五日に決定”と発表されて、まもなくであった。復帰の日が決まった喜びの一方で、現実の問題として、通貨の切り替えや、物価の上昇など、生活不安が日一日と広がっていた。
 御書には「仏法は体のごとし世間はかげのごとし」とある。
 わが学会員の揺るがぬ信心と団結と前進が厳然とあれば、社会は安定し、興隆していく。
 私は、沖縄本部の仏前で、偉大な地涌の同志が原動力となって、力強く沖縄が発展しゆくことを深く祈念した。
4  あの戦争では、沖縄は本土の盾とされ、凄惨な地上戦の戦場となった。戦後は、軍事的拠点としての価値が優先され、民衆は苦痛を強いられてきた。
 最も苦労してとられた沖縄の方々が最も幸福になっていかれることこそ、私の悲願であり、誓願であった。
 体調を崩し発熱が続いていたが、私は、コザ市(現在は沖縄市)で行われた、二千五百人の友との記念撮影では、学生部・未来部の友に、祈る思いで訴えた。
 「皆さん方が、力をつけ、福運をつけ、偉大なるリーダーに育って、沖縄をどこよりも平和な幸福の島にしていただきたい!」
 翌一月三十日、三千人の同志が集った那覇の記念撮影では、各部の有志が郷土芸能を披露してくださった。
 有名な民謡「ゆうなの花」の合唱。農耕の喜びを歌い踊る「マミドーマ」……。
 八重山に伝わる獅子舞が始まった
 微熱は続いていたが、私は、もう、じっとしてはいられなかった。はちまきを締め、太鼓を小脇に抱え、躍り出て、「トーン、トントン……」と勢いよく打ち鳴らしていった。
 ”沖縄の友よ、断じて負けるな! 恐れるな!
 我らは師子の舞うがごとく、断じて沖縄の栄光を勝ち取るのだ!”と。
5  那覇での大きな行事を終えると、私たちは沖縄本島の北部にある名護へと、車を走らせた。
 当初、名護に行く予定は組まれていなかった。しかし、名護の友は、たとえ私が来なくとも、皆で新しい会館の建設予定地に集まり、歴史を刻もうとしていた。
 沖縄入り以来、その健気な決意を聞き、私は動かずにはいられなかったのだ。
 車で二時間、名護に着いたのは、午後五時五十分である。名護湾の”かりゆし(豊かな)の海”を見晴らす高台に、実に二千人もの創価の家族が集い、待ってくださっていた。
 私たちは、沈みゆく夕日と競争するようにして、思い出深く、記念のカメラに納まったのである。
 四日間にわたる、この時の訪問では、いずこの地でも、わが同志が、自信に満ち満ちて「沖縄の心」である歌と舞を披露してくれた。
 私は、この誇り高き心と、生命の躍動ある限り、沖縄はいかなる苦難も乗り越えていくと確信したのである。
6  沖縄返還が近づく、五月の日々、私はトインビー博士との対談等のために欧州訪問の途にあった。そして、返還のその日、パリからワシントンに入ったのである。
 現地の五月十四日の午後四時、つまり日本時間で十五日の午前五時であった。
 沖縄の新時代が混乱なく、無事に出発できるよう、アメリカから真剣に題目を送ったことが、思い出される。
 沖縄返還の翌年(一九七三年)の年頭、私は、ベトナム戦争の停戦を訴える長文の書簡を、キッシンジャー大統領補佐官を通し、ニクソン大統領に届けた。その中でも、私はアジアの平和のための国際機構を沖縄に設置することを提起した。
 あれから三十年──今や、沖縄は、「日本の沖縄」という次元を超え、「世界の沖縄」となった。
 世界の人びとよ、大自然と伝統文化に恵まれた、東洋のハワイ「ちゆら島(美しき島)」に来れ!
 「むちどう宝(命こそ宝)」「イチャリパ・チョーデ(行き会えば、皆、兄弟)!」という、世界に開かれた生命尊厳の心に触れよ!
 私の世界の多くの友も、沖縄研修道場を訪れ、かつて中国に向けられた米軍の燃ミサイル基地が、平和の要塞と生まれ変わった姿に感嘆されている。
 二〇〇〇年(平成十二年)の二月、戸田記念国際平和研究所は、ロートプラット博士会(パグウオツシュ会議名誉会長、ノーベル平和賞受賞者)等をお招きして、沖縄国際会議を行った。
 昨年秋、再会したゴルバチョフ元大統領も、沖縄初訪問の感銘を、「沖縄の人びとは、すばらしい、知的な方々です。生き生きとしていて、温かい方たちだなと思いました。生涯、忘れられません」と語っておられた。
 さらに、現在、沖縄国際平和会館では、「偉大な指導者周恩来」展が盛大に開催されている。
7  「沖縄こそ、日本最初の広宣流布の地帯に!」
 これは、私たちの人生の夢であり、ロマンであり、信念である。
 利己主義が蔓延する濁った時代にあって、沖縄の皆様は、ひたぶるに郷土の宿命の転換を祈り、献身してとられた。今、各地域で、なくてはならぬ存在として光り輝いておられる。
 沖縄には「立正安国」の模範のスクラムが広がった。
 婦人部も、そして、後継の青年部も、走り、舞い、戦っている。
 世界中に平和と友好の津梁(懸け橋)を広げゆく先駆者たる沖縄健児よ!
 皆様の使命の宝島こそ「永遠平和の理想郷」だ。
 戦火のやまぬ世界に、最も必要な平和の太陽こそ、「沖縄の心」だからである。

1
1