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トインピ一博士との語らい 二十一世紀へ開いた「対話の大道」

2002.5.4 随筆 新・人間革命5 (池田大作全集第133巻)

前後
1  まことに懐かしい、一枚の写真がある。
 私が、イギリスの歴史家のアーノルド・・トインビー博士の手を取って、活気あるロンドン市街を歩いている場面である。レストランで昼食を共にしながら対談した前後の、撮影であろうか。
 博士の耳からは補聴器のコード。心臓にも持病を抱えておられた。しかし、歩く間も対話は続き、命を削るような博士の言々句々を、私は遺言の重みをもって聞いた。
 今春の創価大学の卒業式の席上、私は、この写真を高くかざした。創立者として、いかに世界へ「対話の大道」を開いてきたか、その歴史を、後継の卒業生たちに示しておきたかったからである。
2  トインビー博士と私が、最初の対談を行ってより、五月五日で満三十年になる。
 その日、イギリスの友が、ロンドン市内のホーランド公園で、多数の来賓、友人もお迎えし、記念の展示会や植樹を行われると伺った。この公園はトインビー博士の自宅の近くにあり、美しい緑のなかを、博士と共に散策した思い出の公園である。
 学者として、また、人間として、偉大な博士であられたと、つくづく思う。
 イギリスは、大英帝国時代に世界の盟主として君臨した誇り高き国である。その知識階級出身でありながら、トインビー博士は、「西欧中心の歴史観」を放棄された。
 人間や民族、文明等へのあらゆる偏見を捨て去り、むしろ歴史の中で切り捨てられ、虐げられてきた者への共感が、「トインビー史観」の基底部にある。
 勝者の文明だけを評価することは、人類の歴史の半分に目を閉じることだ。博士は、過去に滅びた文明、近代西欧の栄光の陰に隠れた社会からも謙虚に学び、苦悶の民衆の声をすくいとってきた。
 そして「悩みを通して智は来る」という古い箴言のごとく、異質の文明による支配などの苦悩に耐え抜く英知が、高等宗教を生む道を開いたと論じたのである。
 いわば、宗教とは、苦難の「挑戦」に「応戦」する人間の表現であり、新たな文明を育む母体であった。
3  博士宅の暖炉の飾り棚に、十数点の人物写真が飾られていた。その小さな額の中に、第一次大戦で戦死した博士の級友たちがいた。
 皆、三十歳に満たない若さであろう。戦争が始まる前に偶然かかった病のため、戦地へ送られなかった博士には、生き抜くことは友への義務でもあった。
 また、博士は、息子の戦死を耳にした母親たちの悲嘆も忘れ難いと述懐された。
 私も、大好きだった長兄が戦死した悲しみに震える、母の姿が胸を離れない。
 「戦争は悪です」と断言される博士の信念は、また私の信念でもあった。
 ある時、「今までの人生で最も悲しかったことは何でしょうか」と伺った。
 すると博士の温顔がこわばり、悲しみに耐えるような表情になった。私は瞬間、聞いたことを悔いた。
 「それは、私の息子の一人が、隣の部屋で自ら死を選んだことです」
 ソファに深く腰掛け、手を組んだまま、博士は彫像のように動かなかった。
 学友たちの戦死。ご子息の自殺……博士の仕事場は、こうした過酷な運命の試練をくぐり、「生と死」を思索する部屋でもあった
4  人間とは何か。生命の尊厳とは何か。博士は、こうした根源的なテーマを語り合える相手を求めておられた。
 博士の「歴史の研究」は、歴史的事象を通じた「宗教」「人間」「生命」の研究にほかならならなかった。その真摯な思索は、後半生において、文明中心から宗教中心へと、自らの歴史観の大転換をもたらした。
 博士は、宗教なくして人間は生きていけないと言われ、”究極の精神的実在”との交わりを回復し、卑小なエゴイズムを打ち破ることが、人類の危機を乗り越える道だと訴えておられた。
 私たちの対話は多岐にわたったが、なかでも博士の言われる”究極の精神的実在”は重要な論点であった。
 そして、それを宇宙生命に内在する「法」と捉えることがより適切であるとの、共通の結論に至った。西洋人である博士の哲学的探究は、ここに、わが東洋の仏法の英知と、深く深く響き合ったのである。
5  私の「世界との対話」は、不思議にも、創価教育への取り組みと共に始まり、その発展と共に広がっていった。
 クーデンホーフ=カレルギー伯とお会いしたのが、創価学園の開校の半年前(一九六七年十月)。そして、トインビー博士との対談は、創価大学の開学の翌一九七二年から七三年にかけてであった。
 創価大学の草創期、私は、いわば「トインビー大学」の学生でもあったのだ。
 二年ごし、のべ四十時聞にわたる対談を終え、私が成績を伺うと、「最優等の『Α』(ギリシャ語)を差し上げます」と言われた。
 また、私が個人的な助言を求めると、「私が忠告するなど差し出がましいことである。私は学問の世界の人間であり、あなたは行動の人だ」とおっしゃった。
 さらに博士は、「二十一世紀に向かって、このような対話をして、渦を巻いていっていただきたい」と、私に伝言されたのである。
 当時は「米ソ冷戦」「中ソ対立」の時代である。トインビー博士と対談して以降、私はこの米中ソ三国も相次いで訪問した。
 いずこの地にも「人間」がいる。ならば、「対話」こそ不信の氷壁をとかす、人間の道であると信じたからだ。
 ことに、私の初訪中の直前には、博士は「日本のためにも、中国のためにも、いな、全世界の人びとのためにも大きな意味をもっている」と、期待を寄せてくださった。
 一九七五年(昭和五十年)の春には、創価大学の一期生が巣立った第一回卒業式を終えて間もなく、私はフランスを舞台に「対話の渦」を巻き起こした。
 お会いした一人は、トインビー博士から紹介していただいたローマ・クラブ創設者のぺッチェイ博士であった。また、作家のマルロー氏、美術史家のユイグ氏らがおられる。
 その間隙をぬって、私はロンドンへ飛んだ。遂に完成した対談集『二十一世紀への対話』を、トインビー博士にお届けするためであった。
 博士は病気療養中で、お目にかかれなかったが、秘書の女性に対談集を託し、創価大学の「名誉教授」の称号を博士に贈らせていただいた。
 この年の秋、対談集の完成を見届けるかのように、博士は永眠された。八十六歳であられた。
6  トインビー博士は、対談中、「あなたは私以上に、世界中から名誉博士号を受けることでしょう」と言われた。奇しくも、私が「第一号の名誉博士号」をお受けしたのは、トインビー博士に対談集を届けた直後に訪問したモスクワ大学からであった。
 以来、今日まで、「知の勲章」である名誉博士号などの受章は、百二十四を数えた。そのすべてを、私は偉大なる”トインビー先生”と共に分かち合いたい。
 私たちの対談集『二十一世紀への対話』は現在、二十四の言語で出版され、民族や宗教の壁を越えて世界中で読み継がれている。
 私が世界の識者・指導者と行った対話は、主なものだけでも千五百回を超えた。
 「対話を! 未来のために対話を!」──それが、私がトインビー博士から託された生涯の使命だ。
 ゆえに私は、今日も対話を続ける。対話こそ、私の生命そのものであるからだ!

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