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日蓮大聖人・池田大作

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妙法の大城・愛媛 勇気の声を! 正義の拡大を!

2002.4.16 随筆 新・人間革命4 (池田大作全集第132巻)

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1  「吾々は正義だ然し正義も戦の叫を挙げ・なければならぬ場合がある」(『罪の歴史』小野浩訳、『ユーゴー全集』11所収、ユーゴー全集刊行会)
 この文豪ユゴーの言葉のごとく、正義には、叫ばねばならない時がある。
 その”まことの時”に師子吼してこそ、民衆を護る言論の王者といえるのだ。
 四月は、「聖教新聞」の創刊の月である。
 一九五一年(昭和二十六年)の四月二十日、わが師・戸田先生の第二代会長就任に先立ち、広宣流布の出陣を告げたのが、「聖教新聞」であった。
 聖教には、先陣切って正義を叫び抜く使命がある。
 聖教の師子吼が、創価の力を増し、不屈の民衆を奮い立たせる。邪悪を破り、正義の栄光を広げる。
 聖教の論陣が、仏法の人間主義の連帯を拡大する。
 私は、その「聖教の拡大」を推進してくださる全同志の皆様に、また、無冠の友である配達員の皆様に、心より感謝を申し上げたい。
 どうか、日々無事故で! 日々健康で! そして、聖教と共に、「今日も勝った!」といえる自身の歴史をつくっていただきたい。
 「聖教の拡大」といえば、私は、四国の皆様の大奮闘を讃えたい。なんといっても、昨年まで、「六年連続増部」という快挙を成し遂げてくださったのである。
2  この「聖教の四国」の伝統が生まれる淵源は、いずこにあったか。
 実は、わが愛媛の友の、果敢なる挑戦から始まったのである。
 それは、一九七三年(昭和四十八年)のツツジの咲き薫る五月のことであった。愛媛の同志の方々は、私の訪問が十一月に予定されていることを知った。
 あと半年──何をもって、自分たちの大勝利の歴史をつくるのか「聖教新聞」の販売店主と配達員の皆様は、真剣に考え抜かれたようだ。
 「聖教新聞」は、戸田先生が、「日本中、世界中の人に読ませたい!」と念願されていた新聞である。
 ”よし、私たちは、愛媛中の人びとが「聖教新聞」を読む時代をつくってみせる!”
 そして「聖教部数の未曾有の拡大」を成し遂げ、十一月を迎えるのだと、愛媛の友は猛然と立ち上がった。
 「すごい新聞なんです! ぜひ読んでみてください」
 配達員さんたちは、近隣の方々にも、積極的に「聖教新聞」の購読を勧めていった。
 「創価学会の新聞か!」と取りつく島もなく、断られることもあった。
 「だめだ、だめだ」と厳戒な警備さながら追い返されたことも多かった。
 しかし、「勇気」の愛媛のわが同志は、絶対に挫けなかった。
 我らには最高の引力である題目がある。題目で挑戦し続けていけば、負けることは絶対にない。相手がどうこうではなく、自分自身との戦いであった。
 わが友は、あの堅固な松山の城を見つめながら走った。そしてミカン畑が広がる地域にも、さらには瀬戸内の島々や山間の村々も駆け巡った。
 愛媛の津々浦々で、学会の正義を訴える声が、勇気凛々と響き渡っていった。
 真剣な心が、友をつくる。
 真剣な行動が、厚い壁を打ち破る。
 そこから、人びとの心が動いた。時代が動いた。いな、動かしたのだ!
 その結果、愛媛は五月から毎月、啓蒙を重ね、十月には、実に八千部を超える「聖教の拡大」を達成したのであった。
 また、地域世帯の三割強の家庭に購読を推進できたという大ブロック(のちの地区)も生まれたのだ。
3  秋晴れの十一月十日、大阪から愛媛に入った私は、当時の松山会館を訪問した。
 そして、地元のメンバーが真心でつくってくださった庭園、”やすらぎ園”に、同志の皆様と共に、明るく足を運んだのである。
 そこは、高貴にして絢欄たる、千鉢もの”菊の花園”が、おとぎの国を思わせるように咲き薫っていた。
 配達員さんが、新聞啓蒙に挑戦を始めた五月から、一人一鉢ずつ苗から育ててこられたものだという。そこには、「共戦の菊」「広布の菊」「歓喜菊」など、思い思いの名前がつけられていた。
 丹精込めた大輪の菊花は、大勲章のように、皆様の笑顔に輝いていた。
 私は、このメンバーを「菊花の友」と命名し、感謝を込めて句を贈った。
  晴ればれと
    まごとろ薫る
      菊の列
 「菊花の友」は、その美しき心のままに、仲良く励まし合い、成長してこられた。
 大地に盤石なる根を張ったこのメンバーのなかから、多数の最高幹部が輩出している。親子二代にわたって愛媛広布の勇者となり、賢者となり、励んでおられる方もいるという。
 私は、本当に嬉しい。
 「愛媛」の地名は極めて古く、既に『古事記』に、伊予国を「愛比売」と言うとして、その名が見えている。
 県名としては、一八七三年(明治六年)に制定されたと伺っている。
 また、「えひめ」は「兄媛えひめ」で、「弟媛おとひめ」に対する「姉」の意味ともいわれる。愛媛は、四国の姉──長女として伸びゆく使命をもっているのかもしれない。
 愛媛というと、松山、新居浜とともに、大洲を訪ねたことも懐かしい。南は宇和町に接する南子地方の街である。
 一九八五年(昭和六十年)の二月に、大洲会館を訪問し、邪悪な坊主の迫害と戦い抜いた同志の大勝利を宣言したことは、以前の「随筆」にも記した。
 「如何なる暴虐と如何なる不正も、私どもをして真と善と将来を断念せしめることは出来ませぬ」(『追放』神津道一訳、前掲『ユーゴー全集』10所収)──これも、私たちが愛するユゴーの師子吼である。
 ともあれ、愛媛の正義の団結は、あらゆる暴虐なる迫害にも、陰険なる不正にも断じて負けなかった。
 広宣流布の愛媛城は完壁に出来上がった。創価学会の愛媛城は、永遠に栄えゆく、妙法の大城となって、栄光、燦と盤石である。
4  ところで、大洲には、近世日本に大きな思想的影響を及ぼした、韓国出身の一人の学者の足跡が刻まれている。(姜沆『看羊録』〈朴鐘鳴訳注、平凡社〉を参照)
 その名は姜沆カンハン──彼は十六世紀末、豊臣秀吉による朝鮮侵攻の際に捕虜となり、大津(現在の大洲)に送られた。
 大洲にあること半年、姜沆は京都の伏見に移る。そこで儒学者の藤原惺窩の敬重を受けた彼は、まだ日本で学ばれていなかった朱子学の薀蓄を伝えていったのである。
 この藤原惺窩は、徳川家康の招聘には応じなかったが、門下の林羅山が家康に用いられ、幕府は朱子学を手厚く保護することになる。(『日本思想大系』28〈石田一良・金谷治校注、岩波書店〉、太田青丘『藤原惺窩』〈吉川弘文館〉を参照)
 武力侵略の犠牲者として、日本に連れて来られた一人の人物が伝えた学問は、いわば一国を”征服”し、日本中で学ばれ、徳川時代を支える精神的基盤となったのだ。
 まさに、「文化の力」が、武力を凌駕した偉大なる一証明といえまいか。
5  二百年ほど前、「最大多数の最大幸福」との言葉を残した、イギリスの著名な哲学者ベンサム。トルストイも大切にしていた彼の箴言に、こうある。
 「われわれは他人に幸福を分け与えると同時に、それと正比例に、それだけ自分の幸福を増加するのである」(トルストイの『一日一章 人生読本〈1~3月〉』原久一郎訳、社会思想社)
 人びとの幸福と平和のために生き抜く我らには、まったく納得できる道理である。
 この四月は、愛媛をはじめ四国四県の各会館で、頼もしくも、わが青年部が一万人の総会を開催している。
 愛媛に栄えゆく勝利の学会の原点を見る思いがするのは、私一人ではあるまい。
 世界中の友が「四国万歳!」「愛媛万歳!」と歓声をあげることは間違いないだろう。

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