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日蓮大聖人・池田大作

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「釈尊の対話」に学ぶ 正義を語れ 叫べ 人間の中で!

2002.3.8 随筆 新・人間革命4 (池田大作全集第132巻)

前後
1  世界の最高峰エベレストに初登頂した一人である、ネパールのテンジンは、こう語ったという。
 「山には友情がある。山ほど、人間と人間を結びつけるものはない」
 そして、世界の指導者たちよ、山々をめざしながら対話せよ、と訴えたのである。
 御書には「須弥山に近づく鳥は金色となるなり」と仰せである。
 これと同様に、人が自らの生命を最高度に高め、人生を黄金に輝かせるには、正しい信仰を求め、勇んで「精神の最高峰」に近づいていくことだ。それが、仏法であり、創価の世界であると、私は確信している。
 文豪トルストイは、鋭く述べている。
 「現在 世人が悩まされている悪の根本原因は、現代の人々の多くが、何らかの信仰も保持しない一事である」(『一日一章 人生読本〈7~9月〉』原久一郎訳、社会思想社)
2  私たちが信奉する仏教は、その大本において、対話の宗教」であった。
 八万法蔵と呼ばれる膨大な経典も、釈尊が民衆のなかで語りに語った、闊達な対話が源泉となったといってよい。
 以前にも書いたが、釈尊の最初の説法、いわゆる「初転法輪」自体、決して高みから教えを垂れるようなものではなかった。
 釈尊は、五人の旧友に対して、互いに真理を求める人間同士として、奇譚なく語り合ったのである。
 仏様の言葉だからといって、友人が瞬時に信じたわけではない。釈尊が何か奇跡を起こしたわけでもない。
 釈尊が行ったのは、どこまでも粘り強い「対話」であった。納得のいくまで、何度も、何度も……それは数日間にも及んだらしい。
 やがて一人の友人(阿若僑陳如)が教えを理解し、残りの四人が続いた。
 五人いっぺんにではなく、まず「一人から」であった。(『仏教文学』前田恵子学訳、『世界文学大系4 インド集』所収、筑摩書房、参照)
 ここが、大事なところであろう。目の前の「一人」と、心を通わせることができるか否か。すべては、そこから始まるのである。
3  釈尊が「対話の遠征」を開始して、間もないころのことであった。
 ”ああ、悩ましい、煩わしい”と、うめきながら、森をさまよう青年がいた。
 それを見た釈尊は、青年に声をかけた。
 ”若者よ、ここに悩みはないのだ。さあ、ここに来て、座りなさい”
 そして、自分が座っていた敷物の半座を分けて、青年を座らせ、語り合った。(同前、参照)
 釈尊は、常に、悩んでいる人、正しい人生の道を求める人の「友」であった。本来、慈悲の「慈」とは、インドの言葉で、「友情」を意味したことは有名である。
 ある仏典は、釈尊の人となりを、「実に〈さあ来なさい〉〈よく来たね〉と語る人であり、親しみあることばを語り、喜びをもって接し、しかめ面をしないで、顔色はればれとし、自分のほうから先に話しかける人」(『ゴータマ・ブッダ』1、『中村元選集〔決定版〕』12所収、春秋社)
 「何しに来たのか」と渋面を向けたり、冷たい、威張った態度はとらなかった。その身に威厳を具えながら、親しみゃすいオープンな雰囲気があったのである。
 だから、農民も、商人も、家庭の主婦も、知識人も、貴族も、国王も皆、釈尊と会いたがった。悩みごとの相談にせよ、敵愾心を抱いての論難にせよ、誰もが会って話をしたくて仕方がなかった。
 創価学会も、皆がなんでも話し合える、民衆の「対話の広場」である。ゆえに、常に、賑やかに多くの人が集い来るのだ。
4  実は、「どんな人とも平等に話ができる」こと自体が、当時のインドでは、驚天動地のことであった。
 それまでのインド社会は、バラモンを頂点とするカースト制度によって、人間が分断されていた。身分や階級が違えば、心の通った交流など、不可能だったのである。
 ところが釈尊は、身分等で全く人を差別しなかった。
 たとえば、卑賎な身分の出として、侮蔑されていた人が弟子になった時にも、釈尊は最上級の敬語をもって、彼を歓迎したのである。(『仏弟子の告白』中村元訳、岩波文庫、参照)
 諸行無常なるこの世にあっては、生老病死の苦悩から誰人も逃れられない。国王であろうと、市井の庶民であろうと同じである。
 釈尊が、常に見つめていたのは、この「人間」の真実であった。
 ある時、久しぶりに釈尊の会座にやって来たコーサラ国の王が、”最近は国事のためにい忙しくて……”と口にした。
 すると釈尊は、”天に届くような岩山が国を襲い、もはや逃げられないと観念するしかなくなったら、あなたはどうしますか”と尋ねた。
 王は言う。”そうなれば、どんな権力も役に立ちません。せめて限られた時間、善事を為すのみです”
 ここで、釈尊は、この岩山とは、「老い」と「死」のことであると語るのである。(『ブッダと神々の対話』中村元訳、岩波文庫、参照)
 人間として、いかに生きるべきか? この真実の道を、多くの人びとと共に探求する手段こそ、釈尊の「対話」だったのである。
 妻が信仰することに反対し、釈尊に文句を言いに来た夫も、つむじ曲がりの男も、釈尊に会うと、謙虚に人生を見つめる目を取り戻した。
 ある日には、田を耕していたバラモンが、釈尊に”私が額に汗して耕し、種を蒔くように、あんたも働いたらどうだ”と皮肉を言った。
 ”ええ、私も耕し、種を蒔いていますよ”──釈尊は、驚くバラモンに語る。
 ”信仰が種であり、智慧が耕す鋤です。この耕作は私を憂いなき心に運ぶのです”(同前、参照)
 農作業で苦労している者の心底に染み通る、絶妙の譬喩といってよいだろう。
 ある時、亡くした娘の名前を呼び、林の中で泣き叫んでいた一人の母がいた。
 ”母よ、あなた自身を知りなさい”
 釈尊は、彼女に、あのソクラテスと同じ言葉を投げかけ、諄々と語っていった。
 ──母よ、この林には、あなたが呼んでいたのと同じ名前の娘が、多数、葬られているのだよ。あなたが呼ぶのは、どの娘なのか。
 その一言は、悲しみに囚われ、孤独に陥っていた彼女の胸を打ち、”同じ苦悩をかかえているのは、自分一人ではないのだ”と気づかせた。
 「ああ、あなたは、わが胸にささっている見難い矢を抜いてくださいました」
 彼女は、涙を拭い、毅然と立ち上がったのである。(『尼僧の告白』中村元訳、岩波文庫、引用・参照)
 釈尊の対話は、千差万別の機根の人びとに即して、種々の因縁、種々の譬喩をもって広く言教を演ぶ」といわれる通りの説法であり、まさに”芸術”であった。
5  このように、仏教は「対話の宗教」であり、それゆえに「人間の宗教」であった。
 君よ、快活なる「対話の達人」たれ!
 雄々しき「正義の言論の戦士」たれ!
 それは、二十一世紀という「対話の時代」を切り開く、人間主義者の栄冠なのだ。
 「力あらば一文一句なりともかたらせ給うべし
 さあ、赤々と対話の炎を燃やして進もう!
 仏教に深い関心を寄せたトルストイは言った。
 「一本の蝋燭が他の蝋燭に点火し、数千本の蝋燭が一本の蟻燭で燃えつくように、一つの心は他の心に点火し、数千の心もただ一つの心によって火をはなつ」『一日一章 人生読本〈10~12月〉』原久一郎訳、社会思想社)

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