Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

「青森の世紀」の開拓 滝の如く 悠然と流れゆけ

2002.2.21 随筆 新・人間革命4 (池田大作全集第132巻)

前後
1  有名な中国の魯迅先生の言葉に、「まず自己変革があって、それから社会変革、世界変革に及ぶのでないとまずい」(「随想録」竹内好訳、『魯迅文集』3所収、筑摩書房)
 まったく正しいと私は思う。一人の人間の革命があって、それから、社会の変革、すなわち社会の繁栄、世界の平和ができあがるのである。
 「一人の人間における偉大な人間革命は、やがて一国の宿命の転換をも成し遂げ、さらに全人類の宿命の転換をも可能にする」──小説『人間革命』のテーマ二掲げた、この方程式は断じて正しいと、私は自負している。
 東北にゆかりの深い魯迅先生が日本に留学してより、今年の四月で百周年となる。光栄にも私は、北京魯迅博物館の名誉顧問を務めさせていただいている
 また、子息の周海嬰氏とも、深き友好を結んできた。
2  仏法は本来、ダイナミックな「変革の思想」である。
 森羅万象、一つとして変化しないものはない。その生々流転を、断固として「善」の方向へ動かし、勝利と幸福の人生へ変えていく哲理が日蓮仏法である。
 人は変わる。いな、必ず善く変わることができる。
 環境も変わる。いな、必ず善く変えることができる。
 法華経の宝塔品に説かれる「三変土田」も、仏法の変革の原理の一つだ。
 それは、法華経の会座において、三度にわたって国土が変じて浄土となったことをいう。仏法の眼から見れば、国土といえども、固定的なものでは決してないのである。
 また、人間自身の内面世界を浄化していく時、同時に、外なる環境をも浄め、変えることができる。
 ゆえに、自己の人間革命に挑み、広宣流布に立ち上がった獅子がいるところ、必ず、環境と社会の変革の大波も起こしていけるのだ
3  東北の冠たる青森は、古来、冷害や凶作などに苦しんできた。歴史を紐解けば、江戸時代には、数万人もの餓死者を出した大飢鍾に、幾度も襲われている。
 また、一九七一年(昭和四十六年)も、春から異常低温が続き、三十年ぶりの大冷害に見舞われた。青森では、ちょうど、稲の苗作りやリンゴなどの花の授粉の時期と重なり、被害は甚大だった。
 その苦境のなかで、希望の信心を胸に、黙々と、懸命に頑張っておられる、わが同志たちのことを思うと、私は、いてもたつでもいられなかった。
 六月十二日の昼、私は北海道の函館から、連絡船「羊蹄丸」に乗り、青森に向かった。
 私は、青森に着いたら、せめて代表に差し上げようと、船のなかで、励ましの言葉を次々に認めていった。移動の時間も、一瞬も無駄にはできなかった。
4  思えば、青森の歴史には、多くの開拓の勲が刻まれている。
 明治期、荒屋平(七戸町・十和田市)の開拓に尽力した工藤轍郎も、あらゆる苦難を克服し、三百八十数ヘクタールもの開墾地を現出させた不屈の闘士である。
 数年前、地元紙の「東奥日報」に掲載された評伝によると、水を引くためのトンネル工事の失敗、度重なる不作、日露戦争による不況、戦地への出征による労働力不足や資金難等々、幾多の困難を乗り越えながら、ついに偉業を成し遂げたのであった。
 これも、ただ一筋に「農民のため」という信念と大情熱があったからだ。
 彼、工藤はこう詠んだ。
 「照るにつけ降るにつけても思うかな 田面の水の程はいかにと」
 雨が降ろうが、晴れようが、自分が開いた水田のことが、片時も脳裏から離れなかったのであろう。
 この民衆に尽くした偉大な先駆者の決意と心情は、私たちにもよくわかる。いかなる分野であれ、一心不乱ともいうべき戦いなくして、壮大なる開拓は決して達成されるものではないからだ。
5  これらの先人たちのすばらしき開拓魂を受け継ぐ、わが青森の同志たちは、意気揚々と、私との記念撮影に集って来てくださった。
 青森での二日目のことであった。
 会場は、市内の青森山田高校の体育館。一九五八年(昭和三十三年)の秋にも、私が指導会をもった懐かしい場所である。
 記念撮影の時、私は、心から冷害へのお見舞いを申し上げながら、大切な青森の同志に強く、強く訴えた。
 「どうか、仏法に説かれている”三変土田”の原理で、雄々しく、この困難を乗り越えてください!」
 私の言葉に、青森の勇者たちの頬が紅潮した。
 ”私たちは大丈夫です!”
 ”冷害、なんかに絶対に負けません!”
 神々しき皆様の決意みなぎる笑顔が、あまりにも美しかった。私にとって、一生涯、忘れることのできない場景である。
 いかに環境が厳しくとも、断じて挫けるな!
 心が負けなければ、必ず希望はある。必ず道は開ける。
 この”負けじ魂”こそが、我らが青森の不滅の精神であることを知った。
 翌十四日の心が晴れわたるような朝、地元の同志の方々と共に、あの美しき奥入瀬の渓流を、少々、散策させていただいた。
 奥入瀬渓流は、十和田湖から発し、蔦川と合流するまでの約十四キロの清測な流れである。急流あり、緩流ありと、千変万化の美を織り成している。
 幅二十メートル、高さ七メートルという最も大きい”銚子大滝”を過ぎ、少し下ると、また幾つも滝が現れる。奥入瀬全体で、十四の滝があるという。
 ”白糸の滝”には、手にしたカメラを向けた。当時は、写真を撮り始めて間もないころであった。
 自然の幾百千の歴史が織り成す、あまりにも美しい不思議な絶景に、私は深き感動を覚えた。こんなすばらしいところが日本にあったのかと驚いた。
 冬には、幾百年も変わらず積雪を背負うこの地も、夏になると、それはそれは深い緑の木々が輝き、奥入瀬の清冽な流れの行進を、林立して見守っているように思えた。
 水音は、音楽のごとく、名曲のごとく響いて、一瞬の停滞もよどみもない。常に、別世界を思わせる清新な水流がほとばしる。
 私には、真剣に希望に燃えて今日も生き抜く、純粋な青年の姿を見る思いがしてならなかった。これほどの気持ちのよい光景は少ない。
 ここに戸田先生がいらっしゃったら、嬉しそうに「青年はかくあれ!」と語ってくださったであろう。
 御書には、「水は昼夜不退に流るるなり少しもやむ事なし、其の如く法華経を信ずるを水の行者とは云うなり」と仰せである。
 このあと私は、奥入瀬から、次の訪問地である仙台へと向かう途次、急きょ、八戸会館に立ち寄った。
 そこに、二百五十人ほどの同志が待っていてくださったからだ。
 私は、この方々の幸福と、希望に燃えゆく人間革命のために、指導に来たのだ。決して遊びではない自分には深い責任感がある。
 指導に手抜きや惰性があっては、ずる賢い指導者と、大聖人から叫られる。
 真剣に戦っておられる同志に、真剣に応えるのが、私たちの責務だ。
 「月月・日日につより給へ」と仰せの通り、私も、また創価学会も、この間断なき戦いで勝ってきたのだ。
 あの滝の響きは、一瞬一瞬を勝ち抜いた、王者の勝鬨のように思えた。
6  後日、私は、奥入瀬の滝に寄せて、一詩を詠った。
  滝の如く
  滝の如く
  滝の如く
  滝の如く
  滝の如く
  男は
   王者の風格を持て
 この”滝の詩”が生まれてから三十年──。
 わが青森の同志の前進は、目を見張るばかりだ。
 昨年の十一月、弘前の県武道館で盛大に開催された青年文化総会も、見事であった。
 青森の後継の英雄たちは、吹雪にも、寒風にも、雄々しく胸を張って、来る日も来る日も、勇敢に戦い抜いてくれている。
 あの痛ましい八甲田山の雪中行軍遭難から、ちょうど百年となる。
 その一月末、豪雪で立ち往生した列車に乗り合わせた、わが青森の創価班・牙城会の若師子たちが、乗客の方々のために不眠不休で献身的に奮闘したことが、爽やかな話題となった。雪が降りしきる道路でも、牙城会の勇者たちは、あるバスがエンジン故障で動かないと聞くや、現場に駆けつけ、凍える乗客を救助した。
 こうした気高き英姿を目の当たりにした人からは、「何とすばらしい青年たちか!」と感嘆の声が上がり、全国にも電撃的な感動を広げたのである。
 いよいよ青年の世紀だ。
 それは、青き人材の森──「青森の世紀」である。
 見よ! その開拓に汗する君の腕から、創価の賢者たる青森が輝き始めている。

1
1