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日蓮大聖人・池田大作

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天下の栄光城・岐阜 広布流布の大願こそ学会の魂

2002.2.18 随筆 新・人間革命4 (池田大作全集第132巻)

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1  「人生の真の目的は無限の人生を知ることにある」(『一日一章 人生読本〈4~6月〉』原久一郎訳、社会思想社)
 私は、青春時代から、トルストイのこの言葉が好きであった。
 また、この文豪も大切にしたイタリアの革命家マッツィーニの箴言が大好きであった。
 「人生は勤労せずして面白おかしくあそび暮らさんがために与えられたものでない。
 人生は戦いであり進軍である」(『一日一章 人生読本〈1~3月〉』原久一郎訳、社会思想社)
 ちょうど、私の弟子たちが、これらの言葉を収めたトルストイ編纂の箴言集を研究して、届けてくれた。
 今日は、その人たちに御礼を申し上げるつもりで、掲載させていただくことにした。
2  わが正義の学会は、「今日蓮が時に感じて此の法門広宣流布するなり」との御聖訓通り、全世界に、この大聖人の法門を広宣流布している。
 「正義の大道」を、たゆみなく勝利の前進で、歩み、戦いゆくことは、何とすばらしき喜びであろうか。
 ともあれ、我らは、この「立宗七百五十年」を、世界百八十の国々と地域の同志と共に、未曾有の広宣流布の上げ潮で迎えた。旭日の昇りゆくが如く使命に燃え立つ、生き生きとした青年たちに包まれながら、この大佳節を慶祝することができる。
 何と嬉しきことか、不思議在ことか。この人生の栄光の舞は、永遠に歴史に残りゆく勝利の劇であろう。
 思えば、立宗のその時、大聖人は、御歳三十二歳の若さであられた。
 日蓮仏法は、三世永遠に輝く太陽の如く、不滅の光彩を放ちゆくのだ。
3  私たちの胸に深く刻まれゆく岐車の天地は、第三代であられ、一閻浮提の座主であられる日目上人のが”殉教”の栄光の大地である。
 弘安五年(一二八二年)の九月、蓮祖が最後の旅に出られた時、日目上人は二十三歳の青年として、お供をしていた。
 蓮祖の御入滅の直前のことである。大聖人が池上の地(東京・大田)に入られたころ、ある他宗の学僧が、名門の権威を後ろ盾に、仲間など数十人を引き連れ、法論を求めてきた。
 大聖人は即座に、多くの門弟から日目上人を抜擢し、「問答せよ」と命じられたのである。
 若き日目上人は、その御期待に見事に応え、高慢な学僧を完膚なきまで破折された。これが、史上に名高い「池上問答」である。
 法華経に説かれる「巧於難問答(難問答に巧みにして)」(法華経四七ニページ)の真髄を発揮された若獅子の雄姿は、大聖人の御眼に、どれほど頼もしく映じられたことであろうか。
 その後、日目上人は、五十余年にわたって大仏法の正義をば宣揚され、「立正安国」の蓮祖の御精神を訴える戦いのために、幾たびとなく京都へも行かれた。
 そして、その最後の旅路にあって、岐阜の垂井で御遷化、なされたのである。
4  それは、連日三〇度を超す酷暑が続いた一九七八年(昭和五十三年)の夏のことであった。
 七月二十七日、私は、名古屋の中部文化会館で、記念の幹部会に出席していた。
 会合中も、私の心からは、岐阜の東濃圏の友のことが離れなかった。
 この前年より、多治見、土岐、瑞浪、恵那、中津川などを中心とする東濃の純真なる同志が、陰険極まりない横暴な権力の坊主の策動に苦しめられていたからだ。
 私は、会場に来ておられる大切な岐阜の同志に呼びかけた。
 「明日、東濃文化会館に伺います!」
 その瞬間、どよめくような歓声が場内に轟いた。
 翌二十八日の午後、私は、一瀉千里と、会館のある多治見へ走った。記念の勤行会は、午後四時ごろから始まったと記憶する。
 当初は二回ほどの予定であった。しかし、近くを流れる土岐川沿いを、会館へ、会館へと勇み集われる、わが友の大行進は、大波の続くが如く、まったく途切れる気配がなかった。
 勤行会は二回、三回と続いて、ついに「五回連続」となった。「新記録だ!」との驚嘆の声が上がった。
 私は玉の汗をかきながら、その五回の全部に出席し、東濃の大発展と共に、わが愛する同志の完勝を懸命に祈った。さらに御書を通し、法華経を通し、指導を重ねた。入れ替えの合間のわずかの時間も、次に拝する御書等に目を走らせた。
 私は真剣だった。友もまた真剣だった。ゆえに感動があり、共々に深き使命が炎の如く燃えていた。
 その”新記録”の勤行会の最後に、私は訴えた。
 「いかなる権力、三障四魔も、『地涌の固きスクラム』を絶対に破ることはできません。信心第一の人には、誰人も敵わないのだ。
 これからも皆、同志は仲良く、強盛なる信心を貫き、尊い一生を共々に歩もう!」
 一切を終えて退場すると、辺りは暗く、時刻は夜の九時を過ぎていた。
5  このあとも、一九八〇年(昭和五十五年)、八一年、そして歴史的な「中部青年平和文化祭」を開催した八二年と、私は連続して岐阜を訪問した。
 一九八九年(平成元年)の四月、垂井の岐阜平和講堂で行われた、本部幹部会も思い出深い。
 こともあろうに、日目上人ゆかりの垂井でも、極悪の狂いに狂った坊主どもが、三師(大聖人、日興上人、日目上人)に直結する学会員をいじめ抜いた。
 この狂気の大迫害は、宗史に永劫に残りゆくにちがいない。
6  講堂の玄関で迎えてくれた多くの友のなかに、一組のご夫妻を見つけた。
 あの第一次の宗門事件のさなか、壮年・婦人の本部長として、邪僧との攻防戦の矢面に立って、勇敢に戦ってくれた、お二人である。
 私の脳裏からは、忘れることのできない、大事な二人である。
 ”学会につくか、寺につくか”と、脅迫めいた言辞を弄する坊主に向かって、ご主人は奮然と言い放った。
 「『南無妙法蓮華経は自行化他に亘るなり』と、大聖人は仰せではないか! 僧侶であれ、信者であれ、折伏をしない者に、大聖人の御心がわかるものか!」
 夫妻は、動揺している会員を訪ねては、膝詰めの対話で、必死に訴えた。
 「学会は断じて正しい! 絶対に間違いない! 十年もたてば、正邪も賞罰も、断じて明確になる」
 邪心を断ち斬る、この大確信の二人の命懸けの戦いが、広宣流布の正統の信心の組織を、厳然と瀬戸際で護ってくれた。
7  必死の一人は万人に勝る。ご夫妻が宣言された如く、学会はいよいよ勝ち栄え、誹謗中傷した輩が、衰亡の一途を転がり落ちていったことは、皆様方がご存じの通りである。
 垂井の講堂の玄関に立たれたご夫妻の目には、美しく光るものがあった。
 私は、幾たびも握手を交わしながら、申し上げた。
 「御尊家に、何十通という脱会届が来たことも、私は知っています。
 どんなに辛い思いをし、ながら、同志を守ってくださったことか、私は一生、忘れません。
 いな、大聖人が永遠に護ってくださるでしょう。
 ご一家は勝ちに勝ちました。生々世々、幸福の大長者ですよ」
 仏法は、永遠に仏と魔の勝負だ。
 いずこの天地にあっても、尊き最前線の学会員の方々が、「不惜身命」「死身弘法」の勇気で戦い抜いてくださったがゆえに、世界の学会となったのである。
 だからこそ、今日の奇跡的な一閻浮提広宣流布の広がりとなったのだ。
 「顕仏未来記」には、末法とは、邪天・邪鬼が入其身した権力者や坊主が、法華経の行者を悪口罵詈等する時代であると説かれている。
 創価学会は、この濁世にあって、大聖人の未来記を、寸分違わず実現し、証明してきた。
 そして、その誓願の炎が、明々と燃えあがる模範の山河こそ、わが岐阜なのである。忍耐の持続の彼方に、栄光があり、勝利があるからだ。
8  昨年、「二十一世紀最初の五月三日」を祝賀し、新「岐阜文化会館」が壮麗に落成した。
 本年は、飛騨高山に「二十一世紀研修道場」が完成し、さらにまた、待望の「郡上会館」も誕生する。(=二〇〇二年六月に郡上平和会館としてオープン。同年七月に二十一世紀研修道場が開館)
 まさに「創価の世紀」に、岐車が大発展する瑞相だ。
 年頭より、わが偉大なる岐阜の友は、誠実なる対話で、一段と深く広く、地域に社会に、信頼の波動をこしておられる。
 清新な展望に一段と勇み立つ岐阜青年部は、新しき時代を動かし始めた。
 日本の先頭に立つ思いがして、嬉しい。
 三月十一日の「岐阜の日」も、この未曾有の勢いで迎えていかれるであろう。
 広宣流布の歴史を着実に進めてきた天下の岐阜よ!
 天下にそびゆる、広宣流布の栄光城よ! いついつまでも勝ちゆけ!
 そして、日本一の楽しき同志の和楽の団結を示してくれ給え!

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