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雪の秋田指導二十年 ”冬は必ず春”を我らが実証

2002.1.13 随筆 新・人間革命4 (池田大作全集第132巻)

前後
1  私が若き日に読み、暗誦した一詩を綴っておきたい。
 これは、ドイツの有名な詩人へッセが、困難な時代に雄々しく立ち向かう友人たちのために謳った詩といわれる。
 「この暗い時期にも、
 いとしい友よ、私のことばをいれよ。
 人生を明るいと思う時も、暗いと思う時も、
 私はけっして人生をののしるまい
 日の輝きと暴風雨とは
 同じ空の違った表情に過ぎない。
 運命は、甘いものにせよ、にがいものにせよ、
 好ましい糧として役立てよう」(「困難在時期にある友に」高橋健二訳、『へッセ詩集』所収、白鳳社)
2  新世紀の第二年が、晴ればれと開幕した。
 私たちは、これまでにもまして、「一人」を大切にし、励まし、勇気づけ、根気強く育て上げていくことだ。
 一人の人間革命が、どれほど偉大な力を涌出させるものか。一人ももれなく、人生の勝利と幸福に浴し、「衆生所遊楽」の見事なる幸福の拡大を体験しゆく一年であっていただきたい。
 人生は、弱気では決して勝てない。勇気ある信心が勝利なのだ。執念が勇気ある信心を涌出する。
 ゆえに、強盛な信心こそ、尽きることなき智慧と福徳の源泉となるのだ。
 学会がここまで発展したのは、なぜか。
 それは、学会員が、いかなる人生の苦悩や苦境にも、絶対にあきらめず、乗り越えてきたからである。
 そして、逆境のなかで苦闘している人びとのもとへ、真っ先に駆けつけ、勇敢に励まし続けてきたからである。
 この精神がある限り、学会は永遠に昇りゆく太陽のごとく、無数の人間の威光勢力を輝かせていけるのだ。
3  「黎明の年」と銘打った一九五九年(昭和三十四年)の年頭、ただ一人の総務であった私は、厳寒の北海道へ向かった。
 「幹部が率先して、一番、困難なところへ行くのだ」と宣言し、小樽から旭川、夕張、札幌へと、白銀の大地を駆け巡ったのである。
 初めての旭川は、氷点下約一〇度の寒さだった。しかし、地元の方々は、特別寒くはないという。普段から、どれほど酷寒のなかで戦っておられることか!
 さらに、翌年、第三代会長に就任した直後の七月には、沖縄へ飛んだ。
 酷暑を心配して、反対意見もあったが、私の決意は動じなかった。
 わが同志の労苦は、最も大変な時に現地へ行かなくてはわからないからだ。
 これが、指導者の第一条件である。
4  一九八二年(昭和五十七年)が明けて間もない、寒い一月十日、私は、秋田へ走った。
 今年は、その「雪の秋田指導」から二十周年である。
 当時、秋田は、九州の大分とともに、”正信”を騙った、狂気のごとき極悪坊主どもの迫害をくぐり抜けてきていた。
 十二月に大分を訪問した私は、次は、なんとしても秋田に行きたかった。
 「春にすれば」という周囲の声もあったが、戦いは時を逃してはならない。
 常に先手、先手で突破口を開いていくことだ。
 思えば、前回の訪問は、いわゆる「昭和四十七年(一九七二年)七月豪雨」で、秋田県内に大きな被害が出た直後であった。
 私は山形まで来ていたが、地元での検討の結果、秋田で予定されていた記念撮影は中止になった。
 その時、私は決断した。
 「それならば、救援に行こう! 秋田の友が、かわいそうだ。できる限りのことをして、一日も早く立ち上がれるよう、みんなでお見舞いの真心を尽くそう」
 秋田へ駆けつけた私は、救援活動の指揮をとり、大切な同志の激励に汗を流した。
 それから十年ぶりの訪問である。
 私は、愛する秋田に必ず福徳爛漫の春を呼ぶのだと深く決心していた。
 秋田の友も同じ心であった。空港から秋田文化会館に向かう道々、あちらでも、こちらでも、健気な同志が代表して迎えてくださった
 そのたびに車を降りては、忘れ得ぬ”雪の街頭座談会”となったのである。
5  秋田では、一九七七年(昭和五十二年)、七八年ごろから、陰険な坊主らの策動が始まった。
 なかでも大曲や能代の同志の悔しさは、いかばかりであったか。
 坊主たちは、冷酷に言い放った。
 ──学会員の家の葬儀には行かない、故人は地獄へ堕ちる、戒名はつけない、嫌なら檀徒になれ、等々。
 旧習の深い地域で、無理解の飛礫に耐えて、供養の限りを尽くしてきた同志を、背後から斬りつける、あまりにも卑怯、卑劣な仕打ちであった。
 しかし、秋田の友は戦った。
 「汝は逆運に、決してたじろぐことなかれ、むしろ運命打ちこえて、より大胆に進むべし」(ローマの詩人ウェルギリウス、『アテネーイス』上、泉井久之助訳、岩波文庫)
 秋田の無名の英雄たちは、この詩句のどこく、雄々しく勇戦し、創価の大城を守り抜いたのだ。婦人も、壮年も、頼もしき青年たちも!
 この人に会おう、あの方々に会おうと動くうちに、直接お目にかかった同志は、六日間で一万人近くに上った。
 文化会館に隣接する公園で、「大秋田の英雄ここにあり!」と、吹雪に胸張るがごとく行った、二度の記念撮影も、本当に忘れ得ぬ思い出となった。
 大曲の友も、能代の友も、真白き雪の降り注ぐなか、歓喜の渦となって、皆で勝鬨と万歳をあげた。
 今でも、あの人の笑顔、あの人の真剣な顔が胸に浮かぶ。あの友らがご健康で、ご長寿で、喜びの広宣流布の道を、朗らかに歩んでおられることを祈る昨今である。
 「冬は必ず春となる」とは、大自然の流転であり、大仏法の法理だ。
6  五十年前、わが師・戸田先生が悲願とされた七十五万世帯への突破口を開いた、歴史に残る蒲田支部の「二月闘争」。
 この蒲田支部に所属していた秋田の同志も、弘教「二百一世帯」の広宣の拡大に呼応し、勇敢に折伏に奮い立ってくれた。
 「仏縁」の拡大が、広宣流布の拡大である。
 雪の秋田指導の折、私は、広布の土台たる、強い支部の建設を訴えた。
 「支部に、勇気ある同志が何百人と賑やかに集うようになれば、一千万の連帯が必ず築ける。そうなれば、広布の基盤は、盤石のなかの盤石である」と。
 さあ! 新しき前進のこの年も、変わらずにわが大道を歩みながら、多くの人と会い、多くの友と会おう。
 また多くの人と語り、多くの友と語ろう。
 この快活な人間と人間との「対話」の大波が、「人間主義の世紀」であり、「創価の世紀」である、と謳い上げよう!

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