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日蓮大聖人・池田大作

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民衆乱舞の勝利島・沖縄 広宣流布の宝土じぇ 舞いに舞いゆけ!

2001.8.14 随筆 新・人間革命4 (池田大作全集第132巻)

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1  ウクライナ出身の文豪ゴーゴリは、あまりにも有名である。
 私と同世代の多くの人びとは、このゴーゴリの文学を、誇りをもって読んだものだ。
 その彼の箴言の一つに、「創造することは破壊することよりも何倍もすぐれているのだ」(『肖像画』横田瑞穂訳、『狂人日記 他二篇』所収、岩波文庫)とあった。
 私は、この言葉が、深く胸に刺さっている。
2  明日は、「八月十五日」の終戦記念日である。
 私は人間として、あの残酷な戦争の犠牲となったすべての方々の御冥福を、心から祈り、追善を捧げたい。
 あの悲惨極まる愚かな戦争を思う時、私の胸に痛哭とともに去来するのは、魔性の原爆投下の広島と長崎、そして沖縄のことである。
 沖縄は、卑劣にして愚昧な指導者たちの策略の犠牲となった。
 沖縄ほど、平和また平和を悲願してきながら、その正反対の血涙を流し続けてきた、悲劇の歴史の歩みを刻んだ地はないだろう。
 ゆえに私は、永遠にわたる絶対なる平和への誓いを込めて、心から愛する沖縄の天地で、小説『人間革命』の執筆を開始した。
 今も、そして今日も、私は確実なる平和の大道のために、懸命になって『新・人間革命』の原稿を書いている。
3  私が初めて沖縄の土を踏んだのは、一九六〇年(昭和三十五年)の七月十六日のことであった。アメリカの施政権下に置かれていた時代でもあり、訪問には”パスポート”を必要とした。
 文応元年(一二六〇年)の七月十六日、日蓮大聖人が「立正安国論」を上呈されて、ちょうど七百年後の、その日であった。
 創価学会の大目的と大精神は、どこまでも「立正安国」の実現にある。
 すなわち、この世に充満する悲惨と不幸と戦い、個人の生活にあっては絶対的幸福を建設し、世界にあっては崩れぬ平和を築くことだ。
 その第一歩を開く深き決心で、私は、苦悩と戦っている沖縄の友のもとに飛び込んでいったのである。
 この時、私は、沖縄に初の支部を結成した。その結成大会に続く祝賀の集いで、わが同志は、次から次に、伝統の歌や舞を披露された
 その真心に応えて、私も、「黒田節」を舞った。扇を手にして、勇壮に舞う私の姿に、同志は心から喜んでくださったようである。
4  沖縄は、力強く湧き上がるような、人間の歌と舞と技の島だ。
 悲しい夜には、満天の星を見上げながら、サンシン(三線)を弾き、人びとは深い思いをもって歌う。そして嬉しい時、歓びの時には、皆で腹の底から歌ぃ、手を振りながらカチャ─シーを踊る。
 粘り強く快活な魂に、平穏の祈りの歌を響かせた文化の偉大な民──私は、そこに、永遠なる平和の宝島・沖縄の生き抜く生命力と、深く尊き、平和と安穏への心を感じてならない。
 思えば、その後も、沖縄に行くたびに、よく皆様と共に歌い、共に舞った。
 なかでも、「沖縄広布二十周年」にあたる一九七四年(昭和四十九年)の二月、九日間に及んだ七度目の訪問の思い出は、今なお胸に鮮烈である。その最大の目的は、沖縄本島のさらに南方に浮かぶ宮古諸島、八重山諸島への訪問であった。
 二月三日の午前十時過ぎに那覇空港を出発して約一時間半、飛行機は、八重山の石垣島に着いた。
 早速、石垣市の”社会福祉センター”(岡崎会館)で記念撮影を行ったあと、眼前に海が広がる前庭で、”八重山祭り”が盛大に始まった。これには、地域の友人の方々も喜んで参加しておられた。
 沖縄には垣根がない。内外二千人の友が一緒になっての祭典である。
 西表島の同志による「巻踊り」の時には、私も、ハチマキに青いハッピ姿で、団結の舞の輪に加わった。
 軽快なサンシンと太鼓に合わせて、「ユィサー、ユィサー」と掛け声をかけながら、皆と一緒に踊った。
 そして、私は、参加者の喜びの渦の真ん中で、全島民の幸福と栄光と繁栄を祈って、「八重山万歳!」の音頭をとらせていただいた。
5  翌日、私は、地元のメンバーと共に、島の北西端にあるヤドピケの浜(底地すくじビーチ)に足を運んだ。
 同志が、力いっぱいに網を引くと、海の幸が、どっさりとれた。竜宮の使者のような海ガメも泳いできた。
 金の汗が光る、大漁の歓呼のなか、楽しき懇談会が終わると、またもや、掛け声と指笛の音に合わせ、皆が歌い、踊り始めた。
 有名な「安里屋あさどうやユンタ」であった。「ユンタ」は民衆の労働歌といわれる。
 ここでも、私は、皆の踊りの輪に入っていった。
 あの地でも、この地でも、民衆の歓喜の歌があり、舞があった。心と心を結ぶ共感の調べがあった。
 二月五日、宮古島に移動した私は、直ちに、平良ひらら市民会館に入った。
 そこで、宮古の同志との記念撮影、さらに伝統文化祭に出席したのである。
 この時に披露された”久松五勇士の歌”は、今もって忘れることができない。
 宮古訪問の折、馬の力でサトウキビを圧搾するという、伝統の製糖屋の開所式に招かれ、城辺町を訪れたことも、懐かしい思い出である。
 ──あれから四半世紀を経て、沖縄の同志は、地域社会に信頼の根を張り、日本第一の「正義」と「友情」の拡大を成し遂げてきた。
 わが沖縄は、この城辺町をはじめとして、多良間村、渡嘉敷村、上野村、東村、国頭村、南大東村、竹富町、伊良部町、石垣市、伊江村、勝連町、知念村、佐敷町、平良市、本部町、伊平屋村、名護市……どこもすばらしい勝利と栄光の歴史をつくってくださった。
 昨年、私は「沖縄を最初の広宣流布の地帯に」と申し上げたが、まさにその通りの大前進である。
6  一九八三年(昭和五十八年)の三月二十一日には、三万人が集つての、あの”雨の沖縄平和文化祭”が、沖縄市の陸上競技場で開催された。前日の公開リハーサルは、雨で中止になり、ひたすら、皆が晴天を願って迎えた当日であった。
 午後の降水確率八〇パーセントという予報のなか、オープニング、そして、第一景の未来部の演技の間は、なんとか天気はもった。
 しかし、第二景「かりゆしの舞」に移り、八重山の友が収穫の歓びの民謡「マミドーマ」を踊るころから、曇り空から雨が落ち始めた。
 演技する友も、出番を待つ友も、見守る沖縄の同志も、雨に濡れながら、懸命に大成功を祈っていた。
 続いて、宮古の友がフィールドに飛び出し、「クイチャ」を踊る。いかなる巡り合わせか、それは「雨乞い」の踊りでもあった。
 雨は激しさを増した。南国特有の、天の水瓶をひっくり返したような振り方である。
 フィールドに水しぶきが上がり、視界も雨に煙った。
 皆、びしょ濡れとなった。
 しかし、誰一人、動ずる様子もない。いや、踊りはいよいよ勢いを増した。
 雨よ、降るなら降れ!
 雨よ、雨よ、打つなら打つがいい!
 我らは、絶対に負けない!
 その神々しき姿には、宮古の方言でか”アララガマ魂(負けじ魂)”といわれる、不屈の闘魂が燃えていた。
 やがて、雨はあがった。
 厳しき試練の雨は、沖縄の勝利と感動の慈雨となった。
 私は詠んだ。
  三万の
    平和を祈る
      雄叫びを
    諸天を動かし
      銀の雨降る
 私は、いつも思うのだ。
 涙も涸れるような、残酷な歴史さえも、沖縄の民衆から歌と舞を奪うことは、絶対にできなかった。
 生きて、生きて、生き抜いて、生命の底から、歌わずにはいられない、そして歌わずにはいられない人間の光彩!
 この民衆の乱舞こそ、戦争の暴風に打ち勝つ、文化の力であり、平和の力である。
 それは、権力の魔性の侵食を打破する生命の勝鬨だ。
 そこにこそ、民衆の平和の「実像」がある。
 私は沖縄の友を見つめながら、かの十九世紀のウクライナの国民詩人シェフチェンコの詩を思い出した。
 「悪しき敵よ! 知るがいい。
 すべては滅びるのだ。
 しかし
 栄光が滅びることはない!
 いずれ正義が明かされ
 何が真実で
 何が嘘偽りだったのか
 語るにちがいない。
 私たちの思想
 私たちの歌は死ぬことも
 消えることもないのだ」(Тарас Шевченко, Кобзар, Просвiта)
7  蓮祖は仰せである。
 「迦葉尊者にあらずとも・まいをも・まいぬべし、舎利弗にあらねども・立つてをどりぬべし、上行菩薩の大地よりいで給いしには・をどりてこそいで給いしか(中略)上行菩薩の大地よりいで給いしには・をどりてこそいで給いしか
 平和の勇者として、新世紀に躍り出た沖縄の友よ、尊き地涌の戦士たちよ!
 さあ、あらゆる障魔の烈風を、来る日も来る年も敢然と越えて、歓喜の歌を歌い、勝利の舞を舞いゆけ!
 我らが創価の城から、万人が喜び栄える、永遠なる「平和の世界唯一の宝島」を、勇み舞いながら、創造していってくれ給え!

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