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日蓮大聖人・池田大作

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日本一の民衆の都・大阪 二十一世紀も常勝! 我らが使命と誇り

2001.7.14 随筆 新・人間革命4 (池田大作全集第132巻)

前後
1  世界の同志は皆、感嘆している。いな、驚嘆している。
 東京の同志も、燃え上がる関西の同志愛の有り難さに、心から感謝している。
 関西は強い! 大阪は強い!
 わが常勝の大関西は、百戦百勝、世界に冠たる、無敵の庶民の王国だ!
 関西には、師弟がある。
 私と関西の同志の、広布に戦う魂の絆は、誰も切ることはできない。 汚らわしき権力者の手などに、毛筋ほども触れさせない。
 「師弟に始まり、師弟に終わる」。これが、常勝関西を築いた精神であった。
2  五十年前の昭和二十六年 (一九五一年)のこと。
 第二代会長に就任なされた戸田先生に、私は、いち早く申し上げた。
 「日本の広宣流布の未来を考えた時、庶民の都・大阪にこそ、最も早く支部を建設するべきです」
 即座に、師は言われた。
 「わかった。それなら、大作、君が行って、君の手でつくり給え」
 この二人の師弟の呼吸から、関西は始まったのだ。
 当時、大阪には、ほとんど会員はいない。首脳幹部も、そこに支部をつくることなど夢想だにしていなかった。
 しかし、私は、七十五万世帯の折伏を宣言された師匠の弟子として、広宣流布のために何が必要か、青年らしく考えに考え抜いて、先生に進言したのである。
 首都・東京に対して、西の商都・大阪。いな、大関西。
 ここに、広宣流布の一大拠点ができれば、その波動は、関西から中国、四国、九州、さらに全国へと広がることは間違いないからだ。
 翌年の昭和二十七年に大阪支部は産声をあげた。
 この年の八月十四日には私が、そして、明くる日に戸田先生が、夏季地方折伏のために、大阪への第一歩を印した。
 朝な夕な、私は、師である戸田先生に、さまざまな報告をしながら、悠然と、勝利の完遂のために走り抜いた。
 関西の同志の方々も、皆、生き生きと一体となって、戦いを開始した。
 目が光っていた。希望に燃えていた。確信に満ち満ちていた。
3  「大阪の地から、病人と貧乏人をなくせ!」
 戸田先生は、大阪に行かれる信念を、こう叫ばれた。それは、大阪の庶民の目から、不幸と苦しみの涙を拭い去れとの、決意深き宣言であった。
 私は、師匠の悲願を、わが誓願とした。
 そのためには、断固として妙法を流布し、多くの人びとに「生きる勇気」を与え抜くことだ。
 「不幸」な人を救うのが、真実の宗教である。
 「悲惨」の二字を転じて「幸福」の二字に変えるのが、生きた宗教である。
 慰めでも同情でもなく、そして現実からの逃避の”阿片″の宗教であっても、絶対にならない。
 ここに、新たなる人生に、時代に目覚めた、力強き勇敢なる民衆一人ひとりが、自分たちの社会の改善を、社会の改革をと立ち上がったのだ。「人間のための社会」を建設することは、民衆の当然の権利であった。
 善良な庶民の都・大阪をば、善意に満ち満ちた民衆の幸福の都に!
 この大建設のために、信心と広布の火蓋は切られた。
 それが、昭和三十一年(一九五六年)の初頭より、常勝関西の構築への指揮をとり始めた、二十八歳の若獅子の決心であった。
 そして、七月には参議院議員選挙が予定され、学会として、大阪地方区に独自の推薦候補を立てて戦うことが決定されていた。
 立てるか立てないか、苦渋の選択の学会本部であった。
 誰もが不可能と考える戦いであった。内外ともに「無謀だ」「勝てるわけがない」との声が高まっていた。
 しかし、私は、師匠に固くお誓いした。
 「何があっても勝ってみせます。必ず、勝利して先生にお応えしてまいります!」
 この年(一九五六年)、わが師の誕生のその日、二月十一日に、私の決意を託して一首を捧げた。
 生涯、忘れ得ぬ師弟の劇であった。
 今回、その時の歌を、新たな意義を込めて、わが大関西の全同志に贈りたい。
 (なお、当初の「永遠に崩すな」を、「永遠に崩れぬ」と直させていただいた)
  関西に
    今築きゆく
      錦州城
    永遠に崩れぬ
      魔軍抑えて
  あの日、戸田先生は、即座に返歌を詠んでくださった。
  我が弟子が
    折伏行で
      築きたる
    錦州城を
      仰ぐうれしさ
4  「塵が積もって出来た山はない」「現実の山は、天地の急激なる大変動のために出来たものである」とは、初代会長であられる牧口先生の深いご指導である。(『牧口常三郎全集』10、第三文明社)
 先師は、大悪と戦う、大善の大闘争こそ、生命を根底から変革し、確固不動の大境涯を築くことができると、厳しく教えられた。
 同じ戦うなら大闘争を!
 爆発的な勝利を!
 圧倒的な勝利を!
 私の使命はただ一つ。この関西に、難攻不落の錦州城を築くことであった。
 そのために、私は全生命をなげうって、断じて勝ってみせるとの決心であった。しかし、一人では、物理的に決して勝てない数字の戦いであった。
 ゆえに、私は、関西の会員に徹底して会い、激励し、叱咤し、そして全員を共戦の勇者に育てゆくことを決意し、実践した。
 そこに必ずや、計算以上の人間の魂の、不可能を可能にしゆく炎が燃え移っていくことを、確信したのである。
 勝ちたい。勝たねばならない。勝って、私の師匠に報告することが、最大の弟子の使命であり、師弟一体の法理を実践することだ。
 私は、そのために力を、力をと、深く祈念する日々であった。縁する人びとが、皆、広宣流布の味方となり、諸天善神となることを、固く確信し、祈りに祈った。
5  日本中が注目している、この大阪の弘教の勢いは、日々月々に、飛躍的に、爆発的に加速していった。
 全軍の勢いの原動力は、リーダーの勢いで決まる。リーダーの執念で決まる。
 私は、捨て身になって打って出た。ためらうことなく、走りに走り、叫びに叫んだ。早朝から晩遅くまで、大阪中の街々を、友の激励に明け暮れた。
 行く先々で「まだ、時間がある」「まだ、励ませる」と動くうち、日に二十五、六会場を回ったこともある。
 全身に汗は流れ、声は嗄れ、足は棒のようになった。
 一日二十四時間という、限られた時間のなかで、会うべき人、会って励ましたい人、連絡をとりたい人は、あまりにも多い。
 この瞬間、この機会を逃したら、もう会えないかも知れない。ゆえに必死だった。拠点から拠点へ、移動する途次にも、「あのお宅は学会員です」と聞けば、「せめて一分でも」と足を運んだ。
 関西本部に来られた会員がいれば、「せめて一言でも」と声をかけた。
 立ち止まることもできず、手を振り、目で挨拶を交わしながら、心で題目を送った時もある。
 たとえ一瞬でも、心が触れ合えば、「仏縁」を結ぶことができる。ただ通り過ぎてしまえば、何も価値は生まれない。
 「人と会うこと」が「人間革命」である。
 「人と語ること」が「広宣流布」である。
 そこには、勇気があり、知恵があり、慈悲がある。
6  私が行くところ、生命と生命の触発のドラマが生まれ、歓喜の旋風が起こった。 訪問しても留守だった幹部にも、必ず激励の言葉を家人に託した。拠点を回っては、筆をとり、一気呵成に大書した。
 「決戦」「勇戦」、そして「大勝」……。
 瞬時に、それは波動した。
 打てば響くような、共戦の呼吸ができあがっていた。
 大阪の信頼する我が同志は、私の思いを、そして決意を、皆、わかってくれた。勇んで苦楽を共に奮闘してくださった。
 関西の友と一緒に拝した御書は数知れない。そのなかの一節に、こう仰せである。
 「一日の命は三千界の財にもすぎて候なり
 かけがえのない「今日」を悔いなく戦い、広布のため、人びとのために生ききれ!
 「常勝」とは、断固として「今を勝つ」ことだ。「今日を勝つ」ことだ。
 この大聖人の御精神のままに激戦をくぐり抜け、関西は遂に、遂に勝った!
7  あの激動の昭和三十一年(一九五六年)の五月。
 我らは、本尊流布一万一千百十一世帯の大金字塔を打ち立てたのだ!
 ここに、常勝不滅の関西の広宣流布の錦州城は、その基礎を盤石に固めたのであった。
 そして、学会として初の、あの七月の参議院議員選挙でも、スクラムとスクラムの関西の同志は、万歳と喝采が轟きわたる大栄冠を勝ち取ったのである。
 この関西の大勝利は、翌年七月、陰険な魔性の権力によって、御書の仰せ通りに、迫害の嵐を呼ぶことになった。
 いうまでもなく、有名な”大阪事件”である。
8  偉大なる関西は、四十五年前のあの大闘争を、幾たびとなく再現しながら、赫々たる常勝の栄光の歴史を正確に刻んでこられた。
 新世紀の新たな常勝の歴史は、いま再び、大関西に始まった。
 その第一歩の年の勝利こそ、「常勝後継」の命綱となるだろう。
 大関西よ、執念を燃やせ!
 最後の最後まで、勇気と正義の一歩、また一歩を!
 常勝関西は、その名誉と使命を、断じて忘れることなく、勝ちまくってくれ給え!
 私と共に!

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