Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

「炎の東京大会」 燃えよ大東京! 正義の快進撃を

2001.7.12 随筆 新・人間革命4 (池田大作全集第132巻)

前後
1  徳川三百年の繁栄を開いた家康は、日本一の富士山が見える江戸に本陣を定めた。
 「富士見」は「不死身」に通ずる。揺るぎなき王者の富士を仰ぎながら、難攻不落の城を築きゆかんとしたのであろうか。
 その築城は忍耐強く三代にわたって続けられた。
 トインビー博士は、私に、歴史上、偉大な政治家の一人として、徳川家康の名を挙げられた。時代の底流を大きく転換しつつ、手抜きをせず、永続性のある体制を構築したその力量に、博士は感服されていたのである。
 今、我々は、千年先、いな万年先まで崩れぬ「広宣流布の永遠の都」を創造している。
 それは、権力によらず、権威にもよらず、不滅の「立正安国」の大法理に則った、民衆の大建設である。その本陣こそ、我らの東京だ。
 ゆえに東京は、負けるわけにはいかない。
 広宣の勝利の渦また渦を、日本の津々浦々へ、さらに全世界へ、巻き起こしていく宿命があり、使命がある。
 そして東京には、「異体同心」のスクラムで、勝って勝って勝ちまくり、万代にわたる創価の勝利を決定づけていく責務があり、底力があるのだ。
2  蓮祖大聖人は、武蔵(今の東京)の地を本拠に活躍した門下の池上兄弟を、決して甘やかされなかった。
 大事な柱なるがゆえに、むしろ、あえて峻厳なる叱咤を繰り返しておられた。
 「石は焼けば灰となる。金は焼けば真金となる」(御書一〇八三ページ、通解)──烈々たる訓育は、すべて、紛然として競い起こる三障四魔を耐え抜き、金剛不壊の生命を鍛え上げゆく厳愛であった。
 厳しく叱られた池上兄弟が、苦難を乗り絶えて、大勝利を飾りゆく晴れ姿を、誰よりも楽しみにされ、誰よりも讃嘆されたのは、大聖人であられたのである。
 「未来までの物語として、あなた方の団結の姿以上のものはないでありましょう」(御書一〇八六ページ、趣意)とは、兄弟への賞讃の御書である。仏法の師恩は、何と広大無辺なものであろうか。
3  自身の心に亀裂が入り、卑劣にも善行の人の心を塞ぎゆかんとして、前後の見境もなく暗闇の中を這いずり回る悪党たちがいる。
 権力──それは人を酔わせ、狂わす「毒酒」である。
 政治的権力とも、宗教的権力とも、妥協なく戦い続けた文豪トルストイは、痛烈に見破っていた。
 「権力欲は、誠実とは結びつかず、倣慢、校猜、残忍など、誠実とは正反対の資質と結びつく」(『愛と生と死』西本昭治編、社会思想社)と。
 まったく、その通りだ。
 ご存じの通り、仏法では、この権力の魔性の働きを、「第六天の魔王」すなわち「他化自在天」と説く。
 それは、権力者などの身に食い入って、他者を手段化し、思うがままに支配することに快楽を覚える邪悪な命といってよい。
 この虜になってしまった徒輩は、民衆が正しき哲理に目覚め、自立することを恐れる。人びとのために尽くす「正義の人」を嫉妬し、憎悪する。讒言・讒訴などを用いて迫害する。
 ここに、法華経に、また御書に、明快に説き明かされた「三類の強敵」の方程式があり、構図がある。
 まさしく、広宣流布とは、社会に蠢く、この魔性と間断なく戦い抜き、真実の民衆の平和と幸福を拡大し続ける法戦なのである。
 「悪はその結果において個人の幸福も全体の幸福も破壊するものであり、それに対して、気高いもの、正しいもの、は個人の幸福と全体の幸福をもたらし、これを確実なものにする」(エッカーマン『ゲーテとの対話』下、山下肇訳、岩波文庫)
 これは、政治における「正義と邪悪」を厳しく監視してやまなかった精神の闘士ゲーテの箴言だ。
 戸田先生は言われた。
 「選挙の支援活動は、国民の権利であり、義務である。
 また、我々は、広宣流布という民衆の幸福の実現のために働いている。選挙の結果は、その前進の実績を、日本中の内外に、明確に残してくれるから大切である」
4  それは、東京に雨が降りしきる、一九五七年(昭和三十一年)の七月十二日のことであった。
 その日、二十九歳の私は、事実無根の選挙違反の冤罪によって、大阪の地で牢獄に捕らわれの身となっていた。
 弟子を思われる戸田城聖先生は、どす黒き策謀を打ち砕くため、東京で厳然たる指揮をとってくださっていた。
 その師のもとへ、わが東京の共戦の同志たちは、激怒しながら、続々と蔵前の国技館に集ってこられた。雨のなか、場内外に、四万人もの同志が詰めかけてくれた。
 これこそ、正義の怒りが炎と燃えた、歴史的な「東京大会」である。
 私と小泉隆理事長の不当逮捕に抗議し、「即時釈放」を要求する大糾弾大会となった。
 師匠の出獄の日と同じ「七月三日」に、弟子の私が、入獄してから十日目。
 私の身柄は、八日に大阪府警から大阪拘置所に移され、連日、過酷な取り調べを受けていた。
 弾圧の狙いは、会長の戸田先生にあることは明々白々であった。「東京の本部を手入れし、戸田を逮捕する」と、恫喝的な言葉を、私は浴びせられた。
 ご逝去のわずか九ヵ月前であり、既に、先生のお体の衰弱は激しかった。投獄は、そのまま死につながり、殉教の初代・牧口先生と同じ命運をもたらしてしまう。
 狂暴な嵐のなかで、私は、ただ、わが命を盾として、師匠をお守りし、学会本部を守ることを考え、祈った。
 この間、戸田先生のご心痛はあまりにも激しかった。
 何度も、何度も、関西本部に電話をされ、私の安否を気遣ってくださった。
5  この七月十二日は、実は、”大阪事件″における一つの転回点であった。
 既に取り調べを終えて出所していた当事者たちが、前日の夜になって、私の指示で動いたと供述すれば釈放してやる等と検事から教唆されていた事実を、漏らしたのだ。
 戸田先生は、この画策を聞かれ、いよいよ本格的に権力側を珂責する反撃に出られたのである。
 「東京大会」において、戸田先生は、四万の同志と膝詰めの対話をするかのように、率直な「質問会」を行われた。学会本部の対応は生ぬるいと、訴える人もいた。
 先生は、理不尽な国家権力の迫害と戦う、深く強い心境を激しく言い放った。
 「会長になった時から、この体は捨てるつもりでいるんだから何も怖くない」
 「おめおめと、負けてたまるものか!」
 大会を終えると、先生は大阪に向かわれ、地検に乗り込んでいかれた。
 いたく体力の落ちていた先生は、同行した幹部に体を支えられ、喘ぐように肩で息をし、よろめきながら、地検の階段を一段一段、上られていった。
 しかし、全生命を振り絞り、破邪顕正の炎の矢を射るかのように、厳重抗議をされたのである。
6  私の妻も、妻の両親も、この七月十二日の「東京大会」を、格別の決意をもって迎えていた。この日は、妻の実家の入信記念日でもあったのである。
 一家の入信は、一九四一年(昭和十六年)、太平洋戦争の開戦の年の夏であった。今年が六十周年になる。
 以来、拠点となった大田区(現在)の矢口の自宅に、幾たびとなく牧口先生をお迎えし、特高刑事から何度も発言の中止を命じられるなか、座談会を行ったことは、語り草となっている。
 歴代会長と共に、「難来るを以て安楽」との学会精神の真髄を刻みつけてきたがゆえに、私の投獄にも、家族一同、微動だにもしなかった。
 なお、もともと、妻の母は、生涯、汽車の旅はできないといわれるほど病弱であった。
 それが入信後は、東京婦人部の先駆者として、東京中はもちろん、北海道にも、東北にも、中部にも、そして関西にも、勇んで出かけて、生き生きと折伏と激励の対話を操り広げていった。
 「信心即行動」であり、「行動即成仏」である。
 思うように動けない時にも、電話の声で、仏事(仏の仕事)を自在に続けていた。
 ともあれ、東京は、広宣流布の一切の責任を担って、全創価学会の前進と勝利のために戦い切る。
 これこそ、我らの宝寿会の方々が堅持してこられた、本陣の誉れなのである。
7  さて「東京大会」から三日後の七月十五日、小泉理事長が出所した。
 私は、翌十六日も、朝から晩まで、検察側の取り調べが続き、出獄したのは、明けて「七月十七日」の水曜日の正午過ぎであった。
 東京から駆けつけた同志も、関西の友と一緒に、大阪拘置所の門の前で、出迎えてくれた。その目に光る涙を、私は生涯、忘れることは絶対にできない。
8  御本仏・大聖人が御入滅されたのは、不思議にも、ここ東京であられた。
 その東京が、令法久住の大攻防戦の主戦場となりゆくことは、仏法の眠から見れば、必然と言わざるをえないだろう。
 「強盛に歯をくいしばって、たゆむ心があってはならない。例えば、日蓮が、幕府の権力者・平左衛門尉の所で、堂々と打ち振る舞い、言い切ったごとく、少しも恐れる心があってはならない」(御書一〇八四ページ、通解)
 これは、苦境に苦境が重なりゆくような、東京の法戦の先達たる池上兄弟への御聖訓である。
 いつ、いかなる時も、真っ向から勇敢に戦う。これぞ、広布の本陣・大東京の魂だ。
 大詩人ユゴーは、民衆に、こう訴えた。
 「昼となく夜となく戦い続けるのです。山も平野も森も戦うのです。立ちあがりなさい! 立ちあがりなさい!戦いの手を休めてはなりません」(『言行録』稲垣直樹訳、『ヴィクトル・ユゴー文学館』9所収、潮出版社)
 炎の原点の七月。
 久遠より願い求めて使命深き本陣に集った、わが敬愛する三世の同志よ! まず自分自身が、常勝の人間であってくれ給え!
 そして連戦また連勝の快進撃で、二十一世紀の常勝人脈を、断固として、わが大東京から、勝ち広げゆくことを誓いたい。

1
1