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日蓮大聖人・池田大作

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恩師と豊島公会堂 正義の師子吼を! 怒涛の前進を!

2001.6.20 随筆 新・人間革命4 (池田大作全集第132巻)

前後
1  それは、昭和二十年代の後半から、三十年代の初頭にかけてのことであった。
 わが師・戸田先生のもと、創価学会は来る日、来る日を厳然と勝ち、破竹の勢いで大驀進していった。
 太陽が閣を破って昇りゆくような、威風堂々たる民衆の正義の前進!
 苦悩の人びとを救おう!
 社会を変えよう!
 暗い宿命に泣いてきた幾万幾十万の庶民が、仏法の慈悲の大哲理を掲げて立ち上がったのである。
 「哲学するとは活気を与えることであり蘇生させることである」(ノヴーズ、『断章』上、渡辺格司訳、岩波文庫)
 まさに、哲学が生きる力となった姿が、そこにあった。
2  この創価の運動の大いなる源泉となったものこそ、戸田先生が第二代会長に就任されて以来、毎週、会員のために続けられた「法華経方便品・寿量品講義」と「御書講義」であった。
 なかでも、池袋の「豊島公会堂」での名講義は、生涯、忘れることはできない。
 講義は当初、西神田の学会本部で行われたが、手狭となり、会場を神田の教育会館、市ヶ谷の家政学院などに移しながら継続されていた。
 目黒の日出学園の講堂をお借りしたこともあった。その目黒の同志も、今、懸命に頑張っておられる。
 そして、新築間もない豊島公会堂が、いよいよ講義会場として使用されるようになる。一九五三年(昭和二十八年)のことである。
 以来、戸田先生の講義といえば、豊島公会堂といわれるほど、よく利用させていただいた。その回数は、開催が明確な記録のほか、「聖教新聞」に予告された日程等から考えると、二百回以上に及ぶかもしれない。
 先生は、一回、一回の講義に心血を注がれた。地方指導から帰京したその晩に、t休む暇もなく、講義に臨まれたこともたびたびあった。
 相当、お疲れの時も、よくこう言われて、毅然と講義に向かわれた。
 「仏が『未曾暫廃』であられたのだから、私も頑張らねばならない!」
 「未曾暫廃(未だ曾て暫くも廃せず)」(法華経四八二ページ)とは、寿量品の文で、仏はその弘通の法戦をしばらくも休むことはないという意味である。
 わが弟子よ、生涯、戦い続けるのだ! 最後の最後まで正義を叫ぶのだ!
 先生は、命を削って、そう教えてくださったように思えてならない。
3  講義がある日の夕方、豊島公会堂には、続々と、同志が集って来られた
 開始時刻が迫ってくると、”遅れてなるものか!”と、ほとんどの人が、池袋駅から走って会場に向かった。
 満員になり、中に入りきれない人のために、場外スピーカーまで用意された。
 その盛況ぶりは、公会堂の関係者の間でも、長く語り草となたようである。
 先生の法華経方便品・寿量品講義は、「一級講義」と呼ばれ、主に入会して間もない同志を対象としていた。
 また、誰でも聴講することのできた「一般講義」の御書講義は、金曜日が定例であったことから、「金曜講義」の名で親しまれた。
 いずれも、草創の同志にとっては、先生の五体からほとばしる大確信に、直接触れる最高の機会であった。
 当時、講義に参加するメンバーが多い支部ほど、人材が育っと言われたものだ。
 私が支部長代理を務めた文京支部をはじめ、足立、中野、向島、蒲田、さらに埼玉の志木支部等々、皆、求道の心が光っていた。
 師匠の一念に呼吸を合わせれば、無限の力が出る。
 師匠の師子吼を、わが胸に凛々と響かせれば、烈々たる勇気が燃え上がる。
 ある年の六月十九日の日記に、私はこう記した。
 「実に、感銘深き講義であった。偉大なる師匠についた幸福は、正に無限である」
 先生の講義は、誰でもわかる言葉で自在に語られ、まことに明解であった。
 講義を聴いた人を、一人も残らず救わずにおくものかと、それはそれは真剣勝負の気迫であった。
 しかも、絶妙なユーモアを交え、場内を爆笑の渦に巻き込みながら、いつしか深遠な仏法の極理を、心から納得させていかれるのであった。
 「言辞は柔軟にして、衆の心を悦可せしめたまう(=言葉柔らかに人びとの心を喜ばせる)」(法華経一〇七ページ)──まさに、この経文通りの実践であった。
 参加者は皆、それぞれ深い苦悩を抱えていた。しかし、講義が終わると、誰もが上気した顔で、意気揚々と、公会堂を飛び出していった。
 先生の大確信の名講義は、同志の胸を揺さぶり、人生に立ち向かう勇気を与え、広宣流布の怒涛のうねりを巻き起こしたのである。
 仏法は勝負だ!
 人生も勝負だ!
 断じて、断じて勝つのだ!
 現実の苦悩と戦う原理となってこそ、生きた哲学であり、生きた宗教である。
 広宣流布とは、その偉大な哲理に目覚めた民衆が、人生と社会の主役として、猛然と躍り出ることだ。
 チェコの哲人政治家マサリクも言っている。
 「真の、正しい信仰は、人を眠らせるものではなくて、目を覚まさせ、駆り立てるものです」(カレル・チャベック『マサリクとの対話』石川達夫訳、成文社)
4  豊島は、戦時中の空襲で、区内の七割が焼け野原となった。終戦直後、交通の便利な池袋駅の周辺は、何百軒ものヤミ市が立ち並んだ。
 あの豊島公会堂が誕生したのは、そうした大混乱から、ようやく復興を遂げた直後であった(一九五二年十月)。それは、文化の興隆を願う庶民の希望の象徴でもあった。
 豊島は、牧口先生と戸田先生が、獄中で軍部権力と戦い抜いた天地である。
 お二人が投獄された東京拘置所は、当時はまだ「巣鴨プリズン」として残っており、豊島公会堂から歩いて数分ほどの所にあった。現在、”サンシャイン”のビルが立っている辺りである。
 戸田先生は、師を獄死させた権力の魔性への怒りを胸に秘め、ここ東京の豊島公会堂から、生命の続く限り、正義を師子吼された。
 民衆の勝利! これこそ、正義の師の仇討ちである。
 ──明年、豊島公会堂は、落成五十周年を迎える。あの懐かしき威容とともに織り成した、創価の栄光の歴史は、わが胸に不滅である。
 そして今再び、民衆の新たな勝関の歴史が、わが同志の大闘争から、堂々と綴られゆくにちがいない。

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