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デューイ博士と牧口先生 善の連帯で 新世紀の民主主義を!

2001.6.13 随筆 新・人間革命4 (池田大作全集第132巻)

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1  「私たちが直面する障害は、変化をもたらし、それまでにない反応を引き起こす刺激である。ゆえに障害に出あったその時こそ、成長・発展への好機なのだ」(Hohn Dewey: The Middle Works, 1899-1924, vol.10, edited by Jo Ann Boydston, Southern Illinois University Press.)
 これは、牧口初代会長が深く敬愛した、アメリカの哲学者、教育学者のジョン・デューイ博士の言葉である。
 博士の哲学は、二十世紀の世界の教育を大きく変えた。
 さらにまた、一九三〇年代のアメリカが、大恐慌による経済不況を打開していった背景にも、この博士の社会思想があったといわれる。
 デューイ博士は一八五九年生まれで、牧口先生より十二歳年長であった。ほぼ同時代を生き抜いた二人の理念と行動は、不思議なほどに共鳴を奏でている。
 私も、ちょうど五年前(一九九六年)の六月十三日、デューイ博士が教鞭をとったニュヨークのコロンビア大学で講演し、博士の教育学と牧口先生の創価教育に論及した。
2  今年の六月一日は、デューイ博士の没後五十年目の命日であり、六日は、牧口先生の生誕百三十周年であった。
 この大きな節目に、デューイ博士の英知の水脈を厳然と継承してとられた知性を、お迎えすることができた。
 世界的に著名な「デューイ研究センター」のラリー・ヒックマン所長である。
 デューイ博士の墓碑銘には著作の一節が刻まれている。
 「我々が受け継いだ遺産としての価値を保存し、伝え、調え、広げることが、我々の責任である。そして、我々より後に来るものが、それを、我々が受け継いだよりも、もっと充実し安定し、もっと広く受け入れられ、もっと豊かに分ち合えるようにすることである」(『誰でもの信仰』岸本英夫訳、春秋社)
 ヒックマン所長の顔には、この「責任」に徹し抜いてこられた、人生と探究の誇りが光っていた。
 精神の宝を未来に継承しゆく道は、「師弟」という人間教育の真髄の道とも合致している。
3  教育が未来を決める。
 教育が新たな世界を創る。
 すでに一世紀前、デューイ博士は、「子どもが太陽となり、その周囲を教育の諸々のいとなみが回転する。子どもが中心であり、この中心のまわりに諸々のいとなみが組織される」(『学校と社会』宮原誠一訳、春秋社)ような教育を訴えている。
 それは、当時の常識を打ち破り、教育の重心を”子ども中心”に移す、コペルニクス的な革命の構想であった。
 しかも、この構想は、シカゴ大学で教授を務めながら、実験学校として付属小学校を開き、自らの教育哲学を実践する「経験」から生み出されたものであった。
 牧口先生も長年、現場で辛労を尽くすなかから、教育の目的は「子どもの幸福」にあると、高らかに宣言された。
 両者の思想的な共通性は、調べれば調べるほど浮き彫りになる。
 牧口先生は、すでに二十五歳の年の論文で、デューイ博士の二十八歳の著作『心理学』から引用されていた。
 このほど、創価大学大学院に学ぶ俊英が、その英語の原文を届けてくれた。
 牧口青年の胸に響いたデューイ青年の言葉は何か。
 それは、日本語にすると、次のような言葉であった。
 「物事や出来事が我々の精神活動において『意味』をもって認識されるのは、どのような状況のもとであろうか。それは、我々の他の経験と、ある秩序立った仕方で結びつけられた時である。他のさまざまな要素と結びつかず、調和しないものは『意味をもたない』(後略)」(John Dewey, Psychology, Harper & Brothers/ Kessinger Publishing.)
 知識は、より大きな全体と結びついてこそ価値を生む。
 デューイ博士も、牧口先生も、教育は、情報の断片を頭に詰め込むことではなく、吸収した知識を、生徒たちが「人間のため」に使いこなしていけるようにすることを、目的とすべきだと考えていたのである。
 この五月三日に開学したオレンジ郡のアメリカ創価大学が、教養大学として出発し、「全体人間」の育成をめざす理由の一つも、ここにある。
4  一九一九年の二月、デューイは日本を訪問。次いで、「五・四運動」(間配駅主義の抗日運動)が燃え上がる中国に渡り、二年間滞在したあと再び日本に立ち寄った。
 この間、日本では”大正デモクラシー”の声が高まっていた。しかし、博士の眼には、そうした世論の高揚も、一貫性に之しい、底の浅いものと映ったようだ。
 日本人は、哲学さえも流行の玩具にしてしまう。咋日と今日とで信ずるところが豹変しても、少しも気に留めないしたがって、たとえ「民主主義」とか「改革」を標傍していても、それは本当に身についたものとはいえない。
 いつ、国家主義の方向へ逆戻りしてしまうか、それとも、極端な急進主義の方向へ暴走してしまうか。そういう危うさを、日本の社会はもっていることを、博士は鋭く見通していたのである。(鶴見和子『デューイ・こらいどすとおぶ』未来社、参照)
 今の浮ついた日本の風潮にも、そのまま当てはまる指摘と言わざるをえない。
 デューイ博士の哲学は、「行動の哲学」であった。
 一人、山中に引きこもるのではなく、積極的に社会に働きかける人間を育む、「民主主義の哲学」であった。
 博士自身、早くも二十世紀の初頭、女性参政権を求めるデモ行進にも、参加している。
 アメリカ社会を震憶させた冤罪事件である「サッコ=バンゼッティ事件」では、二人の被告の弁護活動に立ち上がって、嘘を糾弾した。
 さらに、ファシズムが台頭してきた一九三〇年代半ば、デューイは、反動勢力が利害などで結託しているにもかかわらず、自由主義者の陣列が分裂している状況を憂慮し、”正義の行動を組織化せよ”と訴えた。
 「自由主義者の弱点は、行動のための組織に欠けることである。このような組織が作られないかぎり、民主主義の理想は達成されることがなく葬られることであろう」(『アメリカ古典文庫13 ジョン・デューイ』明石紀雄訳、研究社出版)
 同じころ、日本が軍国主義の暴走を始めたなかで、牧口先生も、善人は孤立しがちであり、悪人は結託すると喝破された。(『牧口常三郎全集』6、第三文明社)
 悪をはびとらせないためには、善なる民衆が一致団結することだ。善の行動を組織化することだ。それが悪に勝つ道である。
 今、殉教の牧口先生に続く我らもまた、社会に、世界に、壮大なる「民衆の善の連帯」を広げているのである。
5  「民主主義は話し合いからはじまる」(『デューイをめぐる対話』訳者代表・永野芳夫、春秋社)
 これは、デューイ博士の九十歳の誕生日のスピーチであった。
 博士は”人生に引退なし”と、九十二歳の長い生涯を生き抜かれた。
 「一人の人間が、或は、一群の人々がなし遂げたことが、それに続く人々にとっての、足場となり、出発点となる」(前掲『誰でもの信仰』)
 博士の信念の金言である。
 我らも、断固として、共に戦い、共に成長しながら、新世紀の民主主義の栄光の出発点を勝ち、飾るのだ!

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