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日蓮大聖人・池田大作

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武蔵野の正義の天地 勇敢に走れ 最高の歴史を創れ!

2001.6.4 随筆 新・人間革命4 (池田大作全集第132巻)

前後
1  「善はすべてのものに打ち勝つ。そして何ものにも打ち勝たれない」(『人生読本・全』八住利雄訳、自治調査会)
 これは、善の勝利、正義の勝利を断言した、文豪トルストイの不滅の言葉である。
2  昭和四十年代の前半、現在の「第二総東京」は、広宣流布の新天地として、目覚ましい発展を続けていた。
 武蔵野と立川の両市にあるだけだった会館も、調布、小平、小金井、田無(現・西東京市)、福生、府中、町田、東村山(現・武蔵村山市)、国分寺びと、まさに堰を切ったように創価の宝城が誕生していった。さらに同じころ、山梨本部も落成している。
 私は、二十年後、三十年後の壮大なる未来図を胸に描きながら、幾たびとなく、緑の大地を駆け巡った。
 そのなかで、多摩地域を中心として、半日で五会館を訪れた忘れ得ぬ歴史がある。
 一九六九年(昭和四十四年)の七月六日のことであった。
 この日午前、信濃町の学会本部では、広布の幹部たちが集って、「広宣流布大願成就勤行会」が行われた。
 指導に立った私が、午後から多摩方面へ行く予定を口にした瞬間だった。会場の後方で、一人の婦人が弾けるように立ち上がって叫んだ。
 「先生、村山にも来てください!」
 村山で戦う婦人部の真剣な声であった。伸びゆく多摩の勢いが漲っていた。
 「わかりました。行きましょう!」
 会合を終えると、私は車に飛び乗り、電光石火、多摩をめざして走った。真っ先に向かったのは、先ほどの約束通り、村山会館(現・村山緑が丘会館)である。
 会館に着くや、村山の栄光を祈念し、居合わせた同志と共に勤行したのであった。
 ともあれ、指導者は、必死に戦っている同志の声に耳を澄まし、真剣に応えていくべき責任がある。敏感に、誠実に、的確に、そして何よりも迅速に応答していくのだ。この「行動のスピード」こそ、常勝の学会を築いてきた原動力であった。
3  このあと、当時、多摩地域の中心であった立川会館、さらに小平会館、小金井会館を相次いで訪問。最後に、東中野にあった東京第五本部に立ち寄った。
 一瞬一瞬が戦いである。
 私は、一人でも多くの同志と会い、励ましたかった。
 広宣流布の大潮流も、一人の勇気、一人の信心、一人の決起から始まる。ゆえに、ひとりの同志に希望の光を送り、触発の握手を交わしたかったのである。
 学会本部に帰ると、夜になっていた。体は疲れ切っていたが、戦い抜いた充実感が全身を包んでくれていた。
 同志の完勝を祈りながら、疾風のごとく広大な武蔵野を駆け巡った一日であった。
 「御義口伝」にこう仰せである。
 「今日蓮等の類い南無妙法蓮華経と唱え奉るは大風の吹くが如くなり
 妙法の大風が人びとの生命を揺さぶらないはずがない。
 自ら動いて、風を起こせ! 新しい時代に目覚めた民衆勝利の大運動の旋風を、地域に巻き起こすのだ!
4  「愛する東京の桃源境、日本の平野。
 私の憧れの大地なり」
 日記に、こう書いたのは、私が会長になる直前、東村山を訪問した時のことである。
 将来、多摩の天地は、広宣流布の一大拠点に成長するだろう! 私は、そう確信し、大発展を祈り続けた。
 草創期、東京二十三区と比べ、倍の面積をもっ多摩地域の学会員は、まだ少なかった。
 道路事情も悪く、不便なことが多かった。雨が降れば道はぬかるみ、夜は街灯もないような畑道もあった。しかし、わが同志は、皆、「この武蔵野の道は、使命の道、栄光の道!」と、勇んで創価の緑野を開拓してきたのだ。
 時は巡り、昭和五十年代、私は、幾たびとなく立川文化会館を枢要な陣地として、広宣流布の指揮をとった。
 迫害の嵐のなかで、反撃の闘争のなかで、東村山文化会館に、東大和文化会館等にと走り回り、わが多摩の同志を励ましたことも、決して忘れることはできない。
5  一九八八年(昭和六十三年)の四月、私は、学会本部で、東村山圏(当時は東村山・東久留米・清瀬の三市)の友にお会いし、「難こそ誉れ」「難こそ喜び」という、大聖人直結の学会の信心を指導した。さらに、三カ月後の七月五日には、村山圏(当時は武蔵村山・東大和の二市)と練馬の合同幹部会に出席した。
 村山には、団地の友を中心とした地道な地域貢献によって、全国模範の団結の城が築かれていた(東村山と村山の二圏は現在、一体の「村山総区」へ大発展している)。
 私は、十九年前(一九六九年)の七月六日の、かの村山指導の足跡を思い起こしながら、この「七月六日」の深き意義を語っていった。
 それは一九四三年(昭和十八年)、牧口初代会長、戸田第二代会長が、仏法の正義を貫き、軍部権力の弾圧で逮捕された日である。
 そして、牧口先生は殉教。戸田先生が一人、生き抜いて獄門を出られた。
 「極悪の連中は絶対に許さぬ! 必ず牧口先生の仇を討ってみせる!」──これが、広布の巌窟王・戸田先生の決心であったと、私は強く訴え抜いてきた。
 弟子は、断固として戦わねばならぬ。勝って、師の正義を証明しなければならぬ。私も、そのために決然と生き抜いてきた。
 我が弟子よ、師弟の陣列に続け! 汝自身の最高峰をめざして、断じて勝て!
6  本年は、「第二東京本部」が誕生して三十周年。
 第二総東京は、幾つもの難を悠然と打ち砕き、正義と平和のスクラムを拡大している。
 新世紀に輝く、緑に包まれた世界の憧れの天地となった!
 愛する武蔵野の同志よ、多摩の広布の戦友ょ、雄々しき村山の英雄たちよ! 今、再び新たな勝利の大地を創れ!
 ドイツの哲人フイヒテは、力強く呼びかけている。
 「行動だ、行動だ、これこそわれわれの生存する目的である」
 「いざわれわれの耕すべき広い田畑の眺めを喜ぼうではないか。われわれが身のうちに力を感じわれわれの任務が無限であることを喜ぼうではないか」(「学者の使命に関する数講」宮崎洋三訳、『学者の使命・学者の本質』所収、岩波文庫)

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