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日蓮大聖人・池田大作

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わが新宿家族の誇り 世界へ波動! 「本陣城」の大攻勢

2001.6.1 随筆 新・人間革命4 (池田大作全集第132巻)

前後
1  「人は年をとったら、若かったとき以上に仕事をしなければならぬ」(『ウィルヘルム・マイステルの遍歴時代』中、関泰祐訳、岩波文庫)と文豪ゲーテは語った。
 最先端の脳の研究では、年齢とともに輝きを増す「人生の達人」たちの智慧の真価が、科学的にも裏づけられてきたようだ。
 たとえば、蓄積された情報を総合的に判断して、問題を解決していく「結晶性知能」は、充実の年輪を重ねるにつれ、より冴えてくるというのである。
 ゲーテが宰相として政治に貢献しつつ、最高傑作『フアウスト』の総仕上げの執筆を始めたのは、じつに七十六歳の年であった。
2  円熟のゲーテは、虚栄や見栄の軽薄な世相を嘆いた。
 「いたるところで、一人一人が自分をりっぱに見せようとしている。どこへいっても、全体のため、仕事のために自分自身のことなど気にならないような誠実な努力家は見あたらない」(エッカーマン『ゲーテとの対話』上、山下肇訳、岩波文庫)
 幸せなことに、私には、誠実にして勇敢な新宿の友がいる。
 宝寿会の方々をはじめ、みな気取りなど、かなぐり捨てて、折伏精神を燃やし、ただひたすら、我らの広宣流布の城を護り抜いてきた最強の陣列である。
  さながらに
    家族以上の
      仲間かな
    気高き英雄
      本陣同志は
 今日も、全国、また全世界から、創価の友が、新宿の学会本部に集われ、満々たる勇気と希望を充填し、颯爽と出発していかれる。
 この五月の三日、本部に来館なされた方は、一日で空前の三万五千人を数えた。
 なんと尊い、なんと神々しい「地涌の菩薩」の雲集であろうか。
3   大聖人
    愛しき人が
      来たるかと
    笑みをたたえて
      肩を抱かむ
 学会本部が、現在の信濃町に移転したのは、一九五三年(昭和二十八年)の十一月であった。まもなく半世紀の歴史を刻む。
 また、私たち一家が、大田の小林町から、引っ越してきて、三十五年となる。
 私は、わが町を愛し、わが新宿の友を愛する。
 時間を見つけては区内に車を走らせ、同志にお会いしたり、会員や友人のお宅があれば、そっと題目を送ることは、私の日課である。
 自分のいるその場所を、「本有常住の常寂光土」と輝かせ、地域社会に貢献していくのが、仏法だ
4  一九七二年(昭和四十七年)の一月十五日、みぞれまじりの冷たい雨の日であったと記憶する。
 私は、区の体育館で、新宿の代表と記念撮影を行った。これが「新宿の日」の淵源である。
 ちょうど、新成人たちも、初々しい姿で参加しており、私は青年部に「1・15グループ」「成人会」を結成し、再会を約した。
 本障には、真正なる後継の人材の流れを創り固める使命があり、責務がある。
 私は、真剣勝負であった。
 翌年、約束通りに、総会を開催した。
 席上、代表が”決意文”を読み上げようとした時、私はあえて厳しく言った。
 「決意ではなく、実証を見せてもらいたい。君たちの実践の証を、私は祈り待っているんだよ」と。
 進行は、観念ではない。
 それは、行動である。戦闘である。
 誓願の通りに勝利の結果を出す。
 これこそ、「師弟の道」をゆく模範である。
 以来、三十星霜──信義に篤き「1・15グループ」「成人会」は、皆、広宣と社会の堂々たる指導者と育ち、日本中、世界中で、本陣魂を光らせている
 「人間というのは、障害物にたいして戦う場合、はじめて実力を発揮するものなのだ」(『人間の土地』堀口大学訳、『愛蔵版世界文学全集』40所収、集英社)とは、私の好きなフランスの作家サン=テグジュペリの言葉である。
5  なお、わが本陣・新宿には、三つの「区の日」がある。
 まず、年頭の一月十五日。
 また、秋の十月十八日、これは一九八八年(昭和六十三年)、私が長編詩「ああ 本陣使命の曲」を贈った日である。
 そして、春にも「新宿の日」を、と私が提案した四月二十九日(みどりの日=当時)である。
  新宿の
    友に幸あれ
      長寿あれ
    深き縁の
      家族なりせば
6  八四年(昭和五十九年)の十月十四日、八王子の創価大学での新宿記念文化祭も、思い出深い。テーマは「我らは幸の城の仲間」であった。
 新宿区は、四谷、大京町、舟町、北新宿、西新宿、富久町、また市谷、神楽坂、牛込、戸山、早稲田、さらに落合、高田馬場、百人町、歌舞伎町、大久保等々、地域の駅出が多彩である。
 しかも、それぞれが仲良く結合している。
 上の下もない「仲間」として、何でも話し合いながら、楽しく、また楽しく、一つに団結して邁進していくのだ。
 文化祭は、その美しき心が光る祭典となった。
 私は、同志の胸に、「幸の城」が永久に輝くことを祈りながら「命限り有り惜む可からず遂に願う可きは仏国也」との御金言を贈ったのである
7  その三カ月後の八五年(昭和六十年)、「1・15 新宿の日」を記念する総会で、私は、『三国志』の諸葛孔明の生涯を通して語った。
 孔明は、先主である劉備の遺志を受けて、蜀の国の繁栄のために心血を注いだ。
 しかし、隣国の魏は大国である。虎視耽々、濁に侵略する時を狙っていた。これに対して、孔明は、今こそ戦う時なりと、出陣を決意する。
 ”座して待つよりも、討って出るべし。それでこそ、本陣の守りは盤石となる”──孔明は、積極果敢に攻勢に転じて、愛する民衆と、大地を死守したのである。
 学会本部の庭の中央には、「世界広宣流布原点の地」と刻まれている。
 創価の本陣は、南閻浮提への波動の元始となる拠点だ。この本陣の勢いが一切を動かし、本陣の団結が万軍の勝敗を決する。
 闘魂に燃えたわが新宿は、この翌年(一九八六年)から三年連続、そして昨二〇〇〇年にも「弘教日本一」の栄光に輝いた。
 本部を擁する信濃町支部、南元支部も、常に折伏拡大への闘志に満ち満ちている。
8   随喜して
    転教成しゆく
      われらには
    七宝 光りて
      スクラム無敵と
 この春、新宿婦人部の方々が、それはそれは優雅な藤の花を本部に届けてくださった。
  天高く
    地にも深くと
      藤の花
    広布の藤と
      皆が呼ぶらむ
 藤の花言葉は「歓迎」である。
 わが本陣城は、いかなる戦いにも負けない。断じて勝つ。
 無限の勝利の花を咲かせ、世界の友を歓迎することが、我ら新宿家族の誇りであり、歓びであるからだ。

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