Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

北海道の大闘争 連戦連勝で開け! 正義の新天地

2001.5.6 随筆 新・人間革命4 (池田大作全集第132巻)

前後
1  「彼は剣のような舌と短万のようなぺンを持っています」──五十年前(昭和二十六年)、わが師・戸田先生のもとで学んだ名作『永遠の都』のなかで、ある作中人物は、主人公ロッシシィをこう評した。(戸川秋骨訳、改造社)
 創価の青年もまた、ロッシィのごとく、鋭利な舌鋒と筆鋒を持ち、断固と、正義の言論戦の先頭に立つことだ!
 快万乱麻、邪悪を切りまくれ! 容赦なく、どす黒い悪の本性をえぐり出せ!
 その痛烈なる戦いを、わが師匠は青年に期待されたのである。
 私が青年時代から好きであった、スイスの思想家ヒルティは明言している。
 「人生の幸福は、困難に出会うことが少ないとか、全くないとかいうことにあるのではなくて、むしろあらゆる困難と戦って輝かしい勝利をおさめることにある」(『眠られぬ夜のために』第一部、草間平作・大和邦太郎訳、岩波書店)
2  それは、厳冬の北海の天地を舞台に燃え上がった、鮮烈なる正義の戦闘であった。
 一九五五年(昭和三十年)の三月十一日の金曜日。この日、学会教学部が一宗を代表して戦い勝った、広宣流布の歴史に輝く「小樽問答」が行われたのである。
 との”法論”が実現するきっかけは、権威ぶった日蓮宗の僧侶に対して、堂々と正義を訴えていった小樽の婦人部の奮闘によるものであった。
 私は、戸田先生から指名されて、司会を務めた。二十七歳の若師子は、「法華折伏・破権門理」の御金言に任せ、烈々と叫んだ。
 ──全国で何千、何万と、日蓮仏法の真髄の教えに帰依しているのは、それが正しき証拠である!
 冒頭から、厳しき「現証」をもっての破折であり、正義の火炎の炸裂であった。
 「声仏事を為す」である。以後、二時間余、学会教学部の主張が法論を圧倒した。
 この「小樽問答」は、「勝利宣言」ともいうべき、私の司会第一声で流れが決まり、「創価学会大勝利万歳!」の大歓声で終わったのである。
3  この五カ月後の八月十六日、私は、「夏季地方折伏」の札幌市担当の責任者として、十人の派遣メンバーと共に、緑の大地に立った。後に「札幌・夏の陣」として有名になる、正義と幸福の拡大への出陣であった。
 当時、札幌には、本部直属の「班」が一つあるだけ規模は約五百世帯であった。私たちは、戸田先生をお迎えする、二十四日の班大会までに、「三百世帯の弘教」を目標にした。
 約十日間の短期決戦。戦いを決するのは全軍の勢いである。それには、戦闘開始と同時に全力疾走できるだけの、万端の事前の準備、緻密な作戦が絶対に不可欠だ。
 「謀を帷帳の中に回らし勝つことを千里の外に決せし者なり
 私は、この御文の通り、一カ月以上前から、札幌の中心者の方と何度も連絡をとり、皆が思う存分に戦えるよう、勝利の布陣を整えていった。
 札幌市内を五区域に分けて、それぞれ、派遣メンバーが担当するように手を打った。また、地元の方々には、あらかじめ、大いに対話の種を蒔いていただくようお願いした。
 派遣メンバーが、本陣となる旅館に着くと、五区域の弘教の成果を書き込むための棒グラフまで用意されていた。皆、その手際のよさに驚いたようだ。
 いい意味での競争は、張り合いにもなる。この棒グラフが抜きつ抜かれつして、偉大な民衆連帯への”善の競争”を繰り広げたのである。
4  「正しい思想は豊かな実を結ばぬはずはない」(『アンナ・カレーニナ』中、中村融訳、岩波文庫)とはロシアの大文豪トルストイの洞察である。
 まさにこの言葉の通り、私が入った初日、いきなり五十人の入会希望者が誕生した。翌日も、その次の日も、正法を求める人が続出。植えた種が一気に発芽するような勢いに、誰もが驚喜したのである。
 毎日の闘争は、皆で呼吸を合わせた朝の勤行と、私の三十分の御書講義で始まった。
 信心で勝つことだ。勇気で勝つことだ。智慧で勝つことだ。ゆえに「信・行・学」のギア一がかみ合ってこそ、一日一日の行動も無敵の闘争となる。
 これは、「札幌・夏の陣」における勝利へのリズムであり、翌年の「大阪の大法戦」の原形となるものであった。
 私は、地元の中心者の壮年が運転するスクーターの後ろに乗せてもらい、大地に題目を染み込ませる思いで唱題しながら、座談会の会場を何軒も回った。派遣メンバーも、札幌の方々も、目の色を変え、昼夜を分かたず奮闘してくださった。どこの会場も、ひっきりなしに出入りする新来の友と会員とで、活気に満ち満ちていた。誰も彼も、自然に体が動いていた。「さあ折伏だ!」と家を飛び出したら、靴と下駄を片方ずつ履いていた、と笑って語る婦人もおられた。
 真剣な火花と楽しき笑顔が弾ける、怒涛の大前進であった。
5  夏の札幌の日々、私は体調がいたく悪く、食欲もなかった。水やジュース、友の心づくしのミカンの缶詰を口にしながらの奮戦であった。
 師匠にお応えできる結果を、との一念で走り抜いた。共戦のわが同志も、同じ心であった。そして、遂に目標を完遂!
 最終的に「三百八十八世帯」の新たな同志が誕生した。
 私の入信八周年となる八月の二十四日には、「日本ごの大勝利で戸田先生をお迎えし、意気高く開催した札幌班大会の席上、札幌は新たな「地区」に大発展したのである。
6  悪戦苦闘を突き抜け、断固と勝つことが道を開く。労働組合が、学会員の信教の自由を圧迫した、あの人権蹂躙の「夕張炭労事件」にも、北海道の同志は、私と共に完全勝利を収めた。
 その一九五七年(昭和三十二年)から六九年(同四十四年)まで、私は、十三年連続で北海道を訪問している。
 深雪を踏んで戦う旭川へ、霧をも晴らす情熱の釧路へ、鉄の団結の都・室蘭へ。正義の砦・函館へ、開拓の魂が光る帯広へ。
 そして、最北の港湾都市・先駆の稚内へ、交通の要衝・躍進の岩見沢へ、と。
 一九七一年(昭和四十六年)二月、あえて厳冬に挑み、銀の大地に描いた「雪の文化祭」も、偉大なる開拓精神の詩であった。
7  「人生の幸福は、われわれのこころを暖め、われわれの精神に活をいれてくれる偉大な思想と活動とにあります」(『愛と希望』秋山英夫訳、『ヒルティ著作集』6、白水社)。これも、ヒルティの言葉である。
 「小樽問答」「札幌・夏の陣」「夕張炭労事件」──北海道の三大闘争を、私は、若き生命の日記に「勝利」「勝利」と刻みつけながら戦った。
 北海道は、創価の連続勝利の光源である。
 ”牧口先生、戸田先生の青春の故郷に、敗北の汚名を残してなるものか!”
 ”師弟有縁の神聖なる天地に、必ず輝かしき正義の旗を打ち立ててみせる!”
 これが、つねに変わらぬ、私の決心であった。
 愛する北海道の同志よ、私と共に、不滅の歴史を創ろう! 新たな完勝の旗を、断固、新世紀の大空に掲げるのだ!

1
1