Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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庶民の王国・墨田 東京の先駆たれ 日本の模範たれ

2001.4.26 随筆 新・人間革命4 (池田大作全集第132巻)

前後
1  確信の声高く戦うことは、楽しく勇ましい。
 私は、一人ではいない。常に、信じ合える仲間と一緒だ。多くの同志と共に連帯のスクラムを組んで進めば、最高の勝利を決することができるからだ。
 反対に、善も為さず、悪とも戦わず、冷笑を浮かべて、濁流の前に立ちすくむ人間たちがいる。
 戦わざる孤独な彼らの目は、うつろに廃墟を見つめている目のようだ。
 戦う我々は、不滅なる黄金の人間の喜びの世界を見つめている。
 彼らは、胸に、恐ろしき刃物を持っている。暗闇で使う卑怯な武器を持っている。
 我々の心は、光輝放つ頼もしき魂が満ちている。
 そこには、最も厳粛な建設と勝利の仕事をしゆく誇りが光っている。
 彼らは、誰からも二度と必要とされない魔術師である。その近づく足音は陰険であり、皆が不吉なものを感ずる。
 しかし、我々は、決して、卑劣な悪党に邪魔されない。
 我々は「幸福」と「平和」と「正義」の大使だ。
2  創価学会の大いなる源流の一つは、わが墨田にあった。
 戦前、墨田の三笠尋常小学校で、牧口先生と戸田先生の師弟は教鞭をとられた。
 お二人は、児童の生活状況を知り、就学率の向上を図るために、一軒また一軒と、家庭訪問に歩かれた。
 校長の牧口先生は、校内の官舎に住み込んで指揮をとられた。貧しくて弁当を持参できない子どもたちのため、給食を用意されたという先駆的な試みも知られている。
 一九五一年(昭和二十六年)、五十年前の晴れわたる五月の三日、戸田先生が第二代会長として指揮を開始されたのも、ここ墨田であった。
 それから二年後(一九五三年)の年頭、青年部の会合で、戸田先生は、あの墨田での会長就任式の宣言を、再び口にされた。
 「学会が発展しているとはいえ、いまだ二万世帯にしか至らず。七十五万世帯の計画が達成されなければ、私の葬式は出してくださるな!」
 この席上、先生から、私は「第一部隊長」の正式な任命を受けた。江戸川、江東、そして墨田が主な舞台である。
 先生は、その後、各部隊に、「この一年で一千名の陣容に」との具体的な目標を提起された。
 それは、わが第部隊にとって、三倍の拡大を意味した。
 「広宣流布とは拡大なり。拡大こそ青春の金字塔なり」と、私たちは奮い立った。
3  当時、「部隊」という言葉を使うから、学会は軍隊式だとの的外れの非難があった。
 歴代会長が投獄されることも辞さず、軍部権力と戦い抜いた平和主義の信念の団体が、創価学会だ。
 戸田先生は、誰よりも軍隊を憎まれていた。その上で、組織としての強靭さを、あえて草創の平和闘争に活かしていかれたのである。
 アメリカの非暴力の闘士キング博士も語っていた
 「われわれは、自分たちの運動を躊躇せず軍隊と呼んでいる。これは、武器のかわりに誠実を、軍服のかわりに決意を、兵器庫のかわりに忠誠を、通貨のかわりに良心を備えた特殊な軍隊なのである」(『黒人はなぜ待てないか』中島和子・古川博巳訳、みすず書房)
4  向島、寺島、請地など、墨田は、いずこも青春の思い出の道だ。(それらは現在の京島、八広、東向島、堤通、押上、文花等の地域)
 人を動かすのではない。まず自分が動くのだ!
 部隊長の私は、会合前に自転車で結集に回り、終了後には来ていない部員の家へと、狭い路地を駆け巡った。
 仲間と一緒に銭湯に入りながら、作戦を練った夜もあった。会えない日が続けば、何通でも葉書を書き送った。
 下町で働く青年は残業が多かったから、日曜日に、私の家で懇談の機会も持った。
 御書に「二人・三人・百人と次第に唱へつたふるなり、未来も又しかるべし」と仰せである。
 地涌の人材は、必ず現れる。見つけ出し、育てることだ。
 激励の文を刷って、皆に届けたととも、度々ある。
 「我等青年これ新しき世界の創始者である。我々は偉大なる革命児としての資格をもっている」等と。
 そして遂に、年末、盛大に行われた男子部総会で、第一部隊として「一千人の正義の連帯」を晴ればれと成し遂げた。
 勝て、師のもとに馳せ参ずることほど、弟子として嬉しき栄光はない。
5  幕末、江戸城の無血開城を導き、百万の民を戦乱の危機から救った勝海舟は、わが墨田の本所の生まれだ。下町育ちの江戸っ子である
 日本の大きな岐路にあって、海舟は、幕府の独裁でもなければ、薩長の独裁でもない、「連立」による人材と衆知の結集を提唱した。
 ある時、彼は語っている。
 「世に処するには、どんな難事に出会っても臆病ではいけない。さあ何ほどでも来い。おれの身体が、ねじれるならば、ねじってみろ、という了簡で、事をさばいてゆく時は、難事が到来すればするほど面白味が付いてきて、物事は造作もなく落着してしまうものだ」(『氷川清話』、江藤淳責任編集『日本の名著』32所収、中央公論社)
 墨田の友に脈打ってきたのも、この勇気であり度胸だ。
6  墨田は、関東大震災の被害も甚大であった。戦時中は、東京大空襲で、最も戦禍に苦しんだ地域でもある。
 だからこそ私は、この地に、揺るぎない平和と安穏の「庶民の王国」を建設したかった。
 東京の原点の地の人材城である墨田文化会館にも、何回も足を運んだ。
 大切な功労者宅への訪問も、人知れず重ねてきた。
 あるご夫妻のお宅では、家の裏手にあった防空壕での痛ましい戦災の悲劇を伺った。
 この時、一緒に勤行をしたご長男は、創価学園、創価大学の第一期生として、来る五月三日に開学するアメリカ創価大学の初代学長となった。
 「東京の先駆たれ」「日本の模範たれ」、そして「世界の鑑たれ」──これが墨田の心意気だ。
 なかんずく、「聖教の墨田」は誉れ高き伝統となった。
 毎年、届けられる、聖教の推進と広布の発展に尽力された、尊き墨田家族の署名簿に、私は常に合掌している。
7  第三代会長誕生の五月三日のその朝。前夜の雷雨は止んでいた。
 日の出の光は、両国の日大講堂のドームの窓から差し込み、徹夜で準備に当たってくれていた、わが友の神々しき顔を照らした。
 そして、五月の空には、鮮やかな朝陽の虹がかかった。
 今、五月の三日は、「墨田広布原点の日」となっている。
 新たな七つの鐘」は、再び墨田から打ち鳴らすのだ。
 墨田の友よ!
 大勝利の黎明の鐘を、断固と頼む。

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