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日蓮大聖人・池田大作

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創価の春 栄光の勝利の道は桜道

2001.4.5 随筆 新・人間革命4 (池田大作全集第132巻)

前後
1   桜花
    来る年 来る年
      笑顔かな
 戸田城聖先生の御命日を前に、東京・巣鴨の戸田記念講堂で、大勢の代表と共に、本部幹部会を行った。
 この三月二十七日は、「さくらの日」であった。
 古代の史書『日本後紀』に、″花の宴″がこの日に始まったとあること等にちなんで、制定されたという。
 「さくらの日」にふさわしく、快晴の青空のもと、講堂周辺の桜も、いっせいに花開いた。
 私は、青春の一書である、ロシアの作家チェーホフの『桜の園』からスピーチを始めた。
 明るい″さくら幹部会″を、会場に掲げられた恩師の肖像画は、じっと見守っておられた。
 この日、関西創価高校野球部も、甲子園に嬉しい初陣の勝利の桜を咲かせてくれた。
 その後、さらに″ベスト4″まで快進撃「栄光の青春万歳!」と喝采を贈りたい。
 本当にご苦労様!
2   思いきり
    咲きて散りゆく
      桜かな
 桜は多彩であり、その品種は三百種以上にもなるそうだ。それぞれに味わいがあり、趣きがある。そのなかで、今、全国の桜の八割から九割は「ソメイヨシノ」といわれる。
 いまだ葉が出ぬうち、パッと咲き、一週間ほどの開花の命を燃やし尽くすと、パッと散って、花吹雪と舞う。春先から、日々、報道される日本列島の桜前線も、おもにソメイヨシノが基準となっている。
 このソメイヨシノの発祥の地は、戸田記念講堂に近接する豊島区の駒込付近という説が有力である。
 わが巣鴨戸田本部の染井支部吉野地区などの同志が活躍される地域である。
 幕末、イギリスの高名な植物学者は、この地を訪れ、世界でも稀な園芸地帯として、感嘆の声を残している。十八世紀の前半、ここ染井の名高い植木職人のもとで誕生したのが、「染井吉野」といわれる。
 学名も「プルヌス・エドエンシス(江戸桜)」と呼ばれるように、いうなれば、ソメイヨシノは「江戸っ子桜」である。
 それは、二つの品種の交配から生まれたとされる。一説に、父は薄紅に燃える「江戸彼岸」。母は白く輝く「大島桜」。
 両方の色合いを受け継いで、蓄や咲き初めには、濃き紅に染まる。
 満聞になると、霞か雲かと見まがうほど淡く白く、そして散り際は、再び花弁の底から紅が湧き上がってくる。
 その色調は、場所や年によっても、微妙に異なる。
 信濃町の学会本部周辺のソメイヨシノは、この春は、ことに白さが映えるようだ。
3   誰見ても
    心を飾らむ
      桜かな
 ソメイヨシノは、当初、「吉野桜」と名付けられ、明治維新のころから、全国へ広がった。
 日本を代表する奈良の吉野の桜を、そのまま花見できるというイメージで、人びとの心をつかむ絶妙な命名であり、大きな宣伝の力となった。
 奈良といえば、わが同志は、この春、「優秀県」の第一号という桜花を、晴ればれと飾らられている。
 正式に「ソメイヨシノ」の名が冠せられたのは一九〇〇年(明治三十三年)。桜がお好きであった、戸田先生の生誕の年である。
 長い伝統と由緒を誇る「山桜」などと比較され、新参のソメイヨシノは、多くの悪口を浴びせられた。
 「気品に欠ける」「単調」「平凡」「大衆的」等々、これほど貶され、排斥されてきた桜はないという。
 しかし、この百年間、江戸っ子桜は江戸っ子桜らしく、毀誉褒貶を超えて、咲き続けてきた。
 接ぎ木が容易で増やしやすく、新しい環境に適応する生命力を生かしながら、世界にまで、堂々と広がっていった。
 有名なワシントンのポトマック河畔の桜も、ソメイヨシノである。
 デンバーのSGI(創価学会インタナショナル)の友も、ソメイヨシノを中心とした桜の植樹で、地域社会から大変に感謝されている。
 日本よりも世界の桜の方が、丹念に整備され、樹勢がよいとの声もある。
 わが戸田記念講堂の地元から、ソメイヨシノは、世界へと″広宣流布″していった。
4   心まで
    平和になるらむ
      桜かな
 日蓮大聖人は、人間界で、めでたい花の代表として「桜」をあげておられた。
 御書には、「さくらはをもしろき物・木の中よりさきいづ」とも仰せである。
 明るく心ひかれる桜も、暗い色のゴツゴツとした木の中から咲き出ずる。同じように、凡夫の心にも、尊貴な仏の生命が具わっている。
 宿命と試練の苦しみの厳冬を越えて、皆が生命の最極の花を悔いなく咲かせきっていく。その幸福と平和の哲学の桜道を開いてきたのが、牧口、戸田両先生であり、私たちである。
5   世界まで
    ともに歩まむ
      桜道
 かつて桜は、散り際の潔さから″軍国の花″とされた。
 どれほど多くの若人が、尊き青春桜を散り急がされていったことか。
 戦争中、燃えやすい桜の木は、次から次へと、薪や炭にされた。激しい空襲で、幾多の桜の命も奪われた。
 桜の面倒をみる方々が「国賊」呼ばわりされることさえあった。
 近年、私たちが真心と誠意を込めて、大石寺に植樹し続けてきた桜が、ただ嫉妬の激情から、幾百本も切り倒された。
 若き日興上人は、ある悪僧が寺の桜を一本切っただけでも厳しく問責された。桜の乱伐は、破壊の象徴の所業である。
 二十一世紀の平和と友情の「桜の城」を、私たちは世界の友と築いている。
 このほど、中国で発刊された研究書『周恩来と池田大作』でも、わが創価大学の周桜、周夫婦桜に、両国友好の縁の桜として、大きな光が当てられた。
 セーヌ河畔のシャルトレットの壮麗なプレ城(フランス総合文化センター)をはじめ各国の会館にも、桜が「人道の新世紀」の希望の春を告げている。
6   創大城
    今年の桜
      同級生
 恩師の命日の四月二日、向学の英才たちが、日本中、世界中から集い来り、満開の桜に包まれて、二十一世紀最初の入学式が行われた。
 桜は、風雪に耐えて、自ら育ちゆく芯の強さを秘めている。
 長年、桜の愛護に尽力され、世界に桜を植樹してこられた「日本さくらの会」の品川実先生(常務理事)は、その著書のなかで、桜を立派に育てるためには、花が散って見向きもされない時にこそ肥料をやり、手入れすべきことを強調されている。
 人間教育も、青年の心の根に、人知れず、生命の滋養と励ましを贈り続ける以外にない。
7  桜も、害虫や病気との闘いの連続である。
 天狗巣病などに罹れば、その悪い枝を早く断ち切らねばならない。
 そうすることによって、新しい健全な芽を伸ばして、花を咲かせることができるからだ。
 広宣流布の和合僧も、悪とは徹底して戦い抜いているからこそ、常に、新しい正義の人材と福徳の花が、爛漫と咲き薫ってきたのである。
 四月二日から五月三日へ。
 我らは、年々歳々、桜花と葉桜の満々たる勢いをもって、「求道」と「向上」と「前進」のリズムを、朗らかに刻む。
  栄光の
    勝利の道は
      桜道

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