Nichiren・Ikeda

Search & Study

日蓮大聖人・池田大作

検索 & 研究 ver.9

地域広布の原点・荒川 民衆の大行進 東京の先頭を走れ

2001.2.8 随筆 新・人間革命3 (池田大作全集第131巻)

前後
1  社会は、いつもあくせくとし、不安に行き詰まるかのような日々が多い。
 その目に、厳しさや薄笑い、冷たさや悔しさを漂わせている人びとも多い。
 自分だけを頼りにしながら、自分だけのために生きていく姿もある。
 「生命とは何か」「真実の幸福とは何か」「生きるという意義は何か」との重大なる、切実なる関心事をいっぱい持って、生き抜いている人も多いだろう。
 そのなかにあって、私たちは「広宣流布」という、三世永遠にわたって輝きわたる、真実の平和の建設と、汝自身の荘厳なる生命の黄金の因果の歴史を創りゆくために走る。
2  その忘れ得ぬ闘争の一つとして、私には、一九五七年(昭和三十二年)の八月、東京の荒川の大地で、愛する庶民と共に、一週間にわたり、栄光の人生の究極の歴史を綴った思いは、深く、懐かしい。
 二十九歳の夏。私は、この荒川の担当責任者として、連日連夜、猛暑と戦いながら、一軒また一軒と、広宣流布の松明の火を点火し抜いて走った。
 これは、「大阪事件」で逮捕・勾留された私が出獄してから、まだ三週間しか経っていない時である。疲労も残っていた。
 冤罪で私を獄につないだだけでなく、衰弱されている恩師に手を伸ばすと恫喝した、この権力の横暴を、永遠に断じて忘れない。永遠に許さない。
 無名の罪なき人間を地獄の底に突き落とし、正義の指導者を葬り去ろうとする冷酷な権力の魔性たち!
 その一凶を追いつめ、打ち破らなければ、永久に、善良な庶民が真実の幸福の日々を満喫することはできないだろう。
 戦争中の牢獄から出た巌窟王の戸田城聖は、叫んでいた。
 「いったい誰が、庶民を護るのか? それは、学会である!」
 「庶民が強くなるとはどういうことか? 学会が強くなることである!」
 全くその通りだと理解し納得して、多くの民衆から強い支持を受けた、偉大な学会。
 だからこそ私は、荒川の友と肩を組み、人情と活気にあふれる、この庶民の街を猛烈に走り始めたのだ。
 「生きているあいだ何事も先へのばすな、
 きみの生は行為また行為であれ」(『ヴィルヘルム・マイスターの遍歴時代』登張正實訳、『ゲーテ全集』8所収、潮出版社)
 このゲーテの言葉が、私は好きである。
3  当時の学会の組織は、折伏の人間関係でできた「タテ線」が中心であったが、新しい広布の推進のために、地域ごとの「ブロック」組織の強化が、重要なテーマとなっていた。
 私は、その模範の原点を、荒川に築こうと決意した。
 最初の打ち合わせは、日暮里の道灌山で、牛乳販売店を営まれていた土屋さんのお宅であった。
 かしこまった面持ちで、数人の友が待っていてくれた。
 「いくさには大将軍を魂とす」である。
 私は、満々たる生命力をたぎらせ、同志の心の扉を叩いた。
 「さあ、折伏しよう! それには、座談会が大事だ!」
 その瞬間、皆の表情が引き締まり、瞳が輝いた。
4  尾久へ、町屋へ、南千住へ、そして日暮里へ……私は、楽しき座談会を駆け巡った。
 どの拠点に行っても、上がらせていただく前に、必ずその家のご主人をはじめ、ご家族に、丁重にお礼のご挨拶をしたのは、当然である。
 礼儀と感謝がなければ、強き信頼は築けないからだ。
 どの会場も、友また友であふれた。暑さで蒸し風呂のような部屋を、さらに熱気が包んだ。
 ある会合で、質問に立った人の顔が、低くて見えないことがあった。
 皆があまりに詰めて座ったため、三畳分ほどの床が、すっぽりと陥没したのである。
 人数が多すぎて、ご迷惑をおかけしてしまったが、ご主人は、悠然としておられた。ますます大福運の境涯を開かれ、後継のお子さまも元気に、荒川で活躍されている。
 皆、忙しいなかを集ってくださった方々である。さまざまな悩みを抱えておられる。
 その方たちに、どうすれば満足していただけるか。
 よく参加者の話を聞き、皆の表情や雰囲気を見極めながら、私は語りに語った。
 皆に、勇気を!
 皆に、喜びを!
 皆に、確信を!
 そこに勝敗の決め手がある。
5  一日二会場の座談会が終わると、すぐに個人指導を始めた。
 ある人が悩んでいると聞き、「すぐ行こう!」と、その家に飛んでいった時もあった。電車を待つ間、駅のホームのベンチも語らいの場となった。
 とにかく、こまめに一人ひとりにお会いした。
 一対一の対話が大事である。
 地味な会合が大切である。
 「小さな奮闘のうちにこそ多くの偉大なる行為がなされる」(『レ・ミゼラブル』豊島与志雄訳、岩波文庫)とは、大文豪ユゴーの洞察であった。
6  荒川の同志は、私とともに、本当によく戦ってくださった。
 来る日も、来る日も、連戦連勝の破竹の勢いであった。
 戸田先生から軽井沢に呼ばれたのは、荒川指導の総仕上げの時であった。
 私は、一週間の闘争で、二百数十世帯の同志が誕生したことをご報告した。これは、当時の荒川の学会世帯の優に一割を超す拡大であった。
 「そうか」と、先生は、にっこり微笑まれた。
 この八月末、私は、葛飾の総ブロック長の任命を受け、新たな戦野で戦い始めた。その時も帰り道に、幾度も荒川で信心の楔を打った。
 「地域広布」「地域友好」の王者、原点の荒川の基盤は、こうして築かれていった。
 後年、私は、懐かしき荒川の友の顔を思い、青年の活躍を願いながら、揮毫して贈った。
 「学会と 共に
 これが 全人生
 ここに 全勝利」
7  一九七八年(昭和五十三年)六月三十日、英知の学生部の、結成二十一周年を記念する幹部会が行われたのも、われらが荒川文化会館であった。
 仏勅の学会を破壊しようとする、卑劣な誹謗・中傷の嵐が吹き荒れた時代である。
 まさに、この時、私は、自ら作詞・作曲した「広布に走れ」の歌を荒川で発表した。
  ♪今ほとばしる大河の中に
   語り尽くさなん
   銀波をあびて
   歴史を創るはこの船たしか
   我と我が友よ広布に走れ
 不屈の前進の歌声は、庶民の大河・荒川から全国へ響きわたっていった。
8  私は、荒川が大好きである。
 ここには、いつも変わらぬ、偉大な「民衆」がいる。
 私が、あの夏、荒川に第一歩を印した時、日暮里駅に出迎えてくれた凛々しき青年の一人は、当時十九歳の田口君(現・ブラジルSGI理事長)であった。
 今日のブラジルの目覚ましい「地域友好」「地域広布」の大発展の一つの淵源も、ここ荒川にある。
 常勝不敗の誇りも高き荒川の同志は、人と人の心を結びながら、わが街を広布に走る。
 愛する荒川よ!
 二十一世紀の「大東京の勝利の城」を断固と頼む!

1
1