Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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四大天王の力用 「創価の英雄」を厳然と守り賛嘆

2000.6.18 随筆 新・人間革命3 (池田大作全集第131巻)

前後
1  一日の執務を終え、夜、私がお風呂から出て、妻と懇談する時分になると、長男が、必ず、やって来る。
 政治の状況や経済の情勢や、さまざまな情報を語り、また報告するのが、日課になっている。もう何年も続いている。
 私の耳に、目に、正確に、あらゆる次元の事象を入れたい、という心が嬉しい。
 談たまたま、勤行の話となり、その時に、長男から、毘沙門天をはじめ、「四大天王」に関して、質問があった。
2  日蓮大聖人は、日女御前という女性の弟子へのお手紙の中で、御本尊を顕された意義を、「法華弘通の旗印として」と、御指南されている。(御書一二四三ページ)
 一切衆生の成仏の根本であるとともに、「広宣流布」のすべての大闘争に勝利しゆくための御本尊であられる。
 大聖人は、この御本尊の相貌について、「首題の五字は中央にかかり・四大天王は宝塔の四方に坐し」と説かれている。
 御本尊の四隅に認められ、妙法五字の光明に照らされて、「本有の尊形」として、輝きを放つ存在が、四大天王である。
 それは「護世四王」とも呼ばれ、東西南北の四方にわたって、この世界を護る。
 なかんずく、正法の行者を護り抜く、大指導者の自在なる力用の意義をはらんでいる。
3  まず、東方を守護するのは、「持国天」である。
 「治国天」とも書き、「安民」の名でも有名だ。文字通り、国を治め、民を安んずる働きである。
 さらに、西方を守護するのは、「広目天」という。
 浄らかな天眼をもって、一閻浮提の全衆生を観察し、悪を見破り、悪人を厳しく呵責する。
 その名前の別訳は「雑語主」ともいわれる。それは、邪論に対しては、種々の正論をもって徹底的に反撃し、破折していく雄弁の力に通ずるであろう。
 さらに、南方を守護するのは、「増長天」である。
 「悪」を打ち砕き、「善」を増長する。その名が「免離」とも訳されたのは、衆生を悩ませる不幸や災難などを、決して寄せ付けない力のゆえか。
 そして、北方を守護するのが、「毘沙門天」である。
 これは「多聞天」ともいわれ、常に仏の説法を多く聞き、仏法の道場を厳護する役目である。
 また財宝や富貴を司り、その福徳の大力をもって、正しき法と正しき人を、徹底して擁護する。
 この使命は、「法華経」の会座において、元初より厳粛に誓願されている。
4  幼い娘の病気で悩む四条金吾夫妻に対して、大聖人は、「福は毘沙門びしゃもんの如くなるべし」と励ましておられる。
 また、日蓮仏法の真髄を顕された「御義口伝」では、「妙法蓮華経」の五字について、
 「妙」は、十羅刹女
 「法」は、持国天
 「蓮」は、増長天
 「華」は、広目天
 「経」は、毘沙門天
 とも配しておられる(御書七七八ページ)。
 四大天王の力用といっても、妙法を唱え行ずる、我が身の一身の当体に、全部、具わっているのだ。
 その偉大な力は、生死を超えて永遠に、この生命を、幸福と栄光へ導く「黄金の翼」と、譬えていいだろう。
5  よく、戸田先生は、わかりやすく、勤行の意義を語られた。
 ――朝、東天に向かって行う初座は、四大天王など、一切の法華守護の善神に相対して、南無妙法蓮華経という法味を捧げるのである。
 初座を終えて、御本尊を拝すると、その諸天善神が、我々の後ろに、大王に仕える臣下のごとく、粛然と並び控える。そして、我らの唱える題目の音声を欣喜雀躍と聞いている。
 「勤行とは、かくも荘厳なる儀式なのだ。それがわかれば、居眠りなどしていられないよ」と、先生は呵々大笑しておられた。
 御書には、「善神は悪人をあだむ悪鬼は善人をあだむ」とあり、この善神と悪鬼が、日本国中に入り乱れ、熾烈な戦いを繰り広げていることが、明確に示されている。
 ゆえに、諸天善神の威光勢力を倍増し、悪鬼魔民さえも、仏法を護る働きに変えて、勝利していく。ここに、広宣流布の重要かつ不可思議な、現実の展開がある。
6  我々には、未来への令法久住のために、断じて越えねばならぬ峰がある。断じて勝たねばならぬ戦がある。
 その試練に挑みゆく大勇の魂には、四大天王の加護と力用が、歴然と現れる。
 御書には、その歴史上の例も、種々、挙げられている。
 たとえば、有名な鳩摩羅什が、西域から中国へ法華経を渡すために、険難の葱嶺そうれい(パミール高原)を越えゆく時、無数の兵士が遣わされて、その警護にあたったという。
 大聖人は、それは、毘沙門天の計らいであるとされている(御書一二二〇ページ)。
 また、仏教が日本に伝来した折、排仏派からの激しい攻撃を受け、若き聖徳太子は、三度、敗れた。
 しかし、最後の戦いに際し、法華経を奉ずる太子は、「これは、私が放つ矢ではない。四天王が放ち給う矢である」と宣言して、一矢を放った。
 その渾身の矢によって、勝負が劇的に決したという故事も、御書には留められている(御書一一六七ページ)。
 いま、青年が放つ「正義の言論」の痛烈なる矢と、その意義は同じである。
7  特に、極悪の仏敵は、断固として許さない。倒すまで戦う。これが、四大天王の存在証明である。
 その烈々たる闘魂をば、御聖訓には、
 「法華経の行者を怨む者を、父母の仇に対してよりも、さらに強く戒める!」(御書一四五九ページ、通解)
 「法華経の行者を怨む者を、瞬時たりとも、見逃しはしない!」(御書三五六ページ、通解)
 「今生に法華経の敵となった者を罰して、皆への見せしめにする!」(御書一一三八ページ、趣意)等々、厳然と記されている。
 とりわけ、「讒訴」(讒言による訴え、デマの陰謀)によって、本来の政道が歪められ、正法正義の人が迫害されたならば、四大天王等の憤激は、隣国や他国の英邁な指導者の心をも揺り動かす、とある。
 そして、周囲から、その邪智謗法の国を峻厳に責め、戒め正していく、と明快に説かれている(御書二八三、三六二ページ)。
 これが、御書に、繰り返し繰り返し、明かされた真理であり、法理である。
 近年、世界中から寄せられる、創価学会への顕彰と賞賛は、この御金言に符合した実像の一つなのである。
8  大聖人は、″法華経を持つ人は、いかなる人であれ、梵天、帝釈、四大天王、転輪聖王よりも勝れている。いわんや、その家来に過ぎない権力者たちなど問題にならない″(御書一三七八ページ、趣意)と宣言なされた。
 来る日も来る日も、悪口されながら、広宣流布のために、すべてを耐え抜いて奔走しておられる、誇り高き如来の使いである、わが創価学会員こそ「正義の中の正義」であり、「王者の中の王者」なのである。
 「法妙なるが故に人貴し・人貴きが故に所尊し」との御聖訓を、満身に喜びをもって受けるべきだ。
 蓮祖の正統直系たる、わが「創価の英雄」の尊き行動が光りゆく大地は、いずこであれ、「本有常住」の「常寂光土」となっているのである。
 今いる、その多忙な地域、複雑な地域、嫌悪するような人間と人間との争いの地域で、また同じく、その国土世間でこそ、絶対に勝ち抜くことである。
 これが、仏法という法理なのである。
 ゆえに、信心より、強きものはない!
 信心より、尊きものはない!
 信心より、楽しきものはない! 信心に勝るものは、永遠にない!
 その信心の「心こそ大切なれ」との、蓮祖の御断言を胸に、その場、その地域、その天地で勝ち抜いていくことが、最大の仏法の行者なのである。

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