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日蓮大聖人・池田大作

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不滅の歴史・関西の文化祭 大雨に勝ち誇る英雄の讃歌

2000.6.14 随筆 新・人間革命3 (池田大作全集第131巻)

前後
1  それは、照り輝く、完璧な芸術であった。
 そこには、威厳に満ちて、自信にあふれる逞しき胸を張った、恐るべき英雄のまなざしがあった。
 豊かな首から、雨と汗が降り注ぐように流れ出ていた。
 彼ら一人ひとりの生命は、殉教者のごとく尊貴であり、自身の尊い生涯を発光していくようでもあった。
 明るい澄んだ瞳の高貴な人間が乱舞しゆくグラウンドには、東から西から、静かな海の風が吹いてきた。
 彼らの背中にも、流れる光沢の輝きがあった。
 歌い続けよう、生命讃歌を!
 歌い続けよう、青春讃歌を!
 筋肉質の両腕は、何ものにも屈せぬ金色に輝いていた。
 凛々しき顔は、勝ち誇っていた。
 大難にも、苦難にも、勝ち誇った永続的な生命の存在を、大きく雄壮に広げ抜いていた。
2  彼らのどの眼光にも、仮面を剥ぐ力があった。呪われた仮面の権力者どもを叩き倒し、正義を完遂しゆく、高邁な微笑があった。
 大観衆は声高く、自身の最大の自由を見出して、人間の歌を無限に歌い続けていった。
 時代を急回転させゆく、演技の真髄ともいうべき、その闘争の心意気は、邪悪に対する痛烈な憤りとも感じられた。あまたの、卑劣な麻薬をもつ輩を猛襲しゆく、武闘の反撃の姿でもあった。
 そこには、偽悪も許さない、虚偽にも妨げられない、陰惨な魔物の悪意をも許さぬ、強き英雄の情熱の輝きがあった。
 さらに卑怯者や、浅薄で貪欲な、猪や豚や蛇のごとき目つきの悪逆な輩を、打ち倒しゆく炎が、胸に燃えていた。
 彼らの世紀の芸術的な体操の隊列は、この世の想像以上のできばえであった。
3  嵐と戦い抜いた青春!
 突風の中を着実に疾駆してきた青年!
 沈黙を打ち破って、猛烈に確固とした軌道を走り抜く若人!
 一日中、休む暇なく、「生命の世紀」の建設と人間革命と、そして、世界の確実なる栄光を飾らんとして、自らを鍛え上げた青年たちよ!
 彼らこそ、無名の真実の先駆者である。
 無名の偉大な指導者である。
 彼らの生命に流れゆく血には、人類が夢に見た平和への第一歩を印す英雄の魂が、迸っていた。
 どんな豪華な財宝よりも、貴重なものは、平和である。
 身を守る武器よりも尊きものは、平和である。
 強力な世界とは、平和へと人類を変化させゆく世界である。
 とともに、「庶民の世界」であり、「労働者の世界」であり、新鮮な希望に力強く歩みゆく「青年の世界」である。
 抵抗しがたい、静かな休息を母たちに与える世紀であり、悲しみを憎み、優しさを愛する世紀であらねばならない。
4  それは、一九六六年(昭和四十一年)の九月十八日の日曜日であった。あの有名な甲子園球場で、「雨の関西文化祭」は開催された。
 約四万人の出演者の多くは、入会新しい青年たちであった。
 その彼らが、難攻不落の城を築くがごとく、真夏の厳しい練習に挑んでいったのである。
 一日一日が勝負であった。
 一日一日が戦闘であった。
 一日一日が″天王山″であった。
 マスゲームなどの練習は、大阪城公園、中之島公園、藤井寺球場、淀川の河川敷などで行われた。
 あるいは、兵庫・武庫川の河川敷、神戸の須磨の海岸も使われた。
 さらに、人文字の練習では、住吉の長居陸上競技場、淀川に架かる守口の鳥飼大橋下、もっと下流の淀川堤防、住之江と堺の間を流れる大和川の堤防などが利用された。
 勝利の足音は、この目立たぬ、真剣な鍛錬の場から高鳴っていったのである。
5  「雨の文化祭」の波動は、国境さえも超えた。
 中国の周恩来総理の指示を受けて、創価学会を研究していた側近たちは、この文化祭の熱演の映像を見た。
 後年、私と総理の会見の通訳を務めてくださった、林麗韞りんれいうん先生は、こう証言されている。
 「若人が泥んこになって生き生きと演技している姿を見て、本当に素晴らしいと思ったのです。と同時に、創価学会が大衆を基盤とした団体であることを実感しました。中日友好への大切な団体であると深く認識したのです」(「聖教新聞」一九九七年五月二十四日付)
 我らの関西魂は、世界の歴史の底流も、平和の方向へ、大きく動かしていったのである。
6  立った!
 立った、立った!
 ああ、立った、立った!
 五万の観衆も、総立ちになった。
 五千五百人の来賓も皆、賞賛の歓声をあげながら立った。
 一九八二年(昭和五十七年)の三月二十二日の月曜日、午後三時六分。
 世界的な舞台で、初めて六段円塔が直立した瞬間である。
 これこそ、世紀の栄光と勝利の六段円塔であった。
 万雷の歓声と怒濤の喝采が暴風のごとく、吹きまくった。
 その驚異的な、初めて見る、若き眩しき直立の円塔は、威厳を保ちながら、立っていた。
 数万の全観衆が、皆、総立ちになった。
 本当にこの世の出来事かと、夢を見ているようであった。
7  高さ地上九メートル。
 一段目の六十人が支える重量は、優に二トンを超える。円塔は、この重圧を、全員で分散して支えるのであった。
 バランスが悪ければ、たちまちに崩れる。一人の油断が、全体の失敗につながる。
 一段一段、タイミング良く、同時に立ち上がりゆく、芸術的な魔術である、といってもよい。
 それは、呼吸と団結の勝負でもあった。安全のために、多くの補助メンバーも、真剣なまなざしで、厳として見守り支えていた。
 六段円塔をはじめ、組み体操に出演した、男子部の平均年齢は、二十四、五歳であった。
 体力づくりに、連日、腕立て伏せを、二百回、三百回と、やり抜いてきた丈夫である。
 しかし、円塔の練習では、二十回もの失敗が繰り返されていた。
 ようやく、完成したのは、文化祭の四日前の三月十八日、交野にある関西創価学園で行われた練習であった。これが、一度きりの成功であった。
8  そして迎えた当日。まず、五段円塔が、一カ所、二カ所、三カ所、四カ所……全部で八カ所、立った。
 いよいよ、六段円塔である。
 一段目、二段目、三段目まで立った時、一瞬、円塔が、グラッと揺らいだ。観衆の中から、どよめきの声が唸った。
 しかし、全員が懸命に持ちこたえながら、四段目、五段目……。
 皆、重苦しい苦痛をかかえていた。
 やがて、どこか遠くから突然、歓声が鳴り始めた。
 一閃の稲妻が光り、そして、幾つもの巨大な落雷が一遍に轟いたかのごとく、心を奪い、揺さぶるような、感激の拍手が響きわたった。
 立った! 立った!
 大六段円塔が!
 幾万の青年たちは、歓び勝ち誇った勝鬨をあげ、獅子が強敵に襲いかかり、唸り吼えゆくような、気迫が迸り、燃え上がっていた。
 立ったのだ!
 ついに立ったのだ!
 勝ったのだ!
 我らは、断固として勝ったのだ!
 我らは挑戦し、ついに世紀の勝利の塔を打ち立てた!
 あの壮大なる究極の芸術の「生命讃歌」「青春讃歌」の大円塔は、今もって、わが生命に光っている。
 この大文化祭の写真は、英字紙にも大きく掲載され、世界中に発信された。
9  この六段円塔の歴史的一瞬を永久に残したい。
 我らの恩師・戸田城聖先生の故郷である北海道・厚田村には、三トンの重さのある、見事な人間円塔の彫刻が飾られている。
 六段円塔を思うたび、厚田のこの像が二重写しに蘇る。私には、この像は、六段円塔の不滅の栄光と一体なのである。
 なぜ、この像を、戸田記念墓地公園に置いたか?
 若き弟子たちの勝ち抜いた姿を、私は、戸田先生に見ていただきたかったからである。そして、弟子が偉大であるとともに、偉大な我が師を讃えたかったからであった。
 それは、永久に、恩師を忘れてはならないという、「弟子の道」の意義を含んでいるのだ。
 六段円塔に挑戦した青年部の芳名は、万代へと留め残されている。
 あの「雨の文化祭」と並んで、この長居陸上競技場での「第一回関西青年平和文化祭」は、永遠の広宣流布の道に、誉れ高く、「学会精神の鑑」として、綴り残されていくにちがいない。
10  嬉しいことに、この文化祭を成し遂げた栄光の友が、今、二十一世紀の大関西を担い立っている。
 この常勝の歴史は、広宣流布の創価学会史に、今もって不動である。
 輝いている。
 そびえ立っている。
 不可能を可能にしゆく「関西魂」!
 これを「常勝関西」と、私は呼ぶ。「常勝関西」と、私は叫ぶ。

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