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日蓮大聖人・池田大作

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新生・埼玉の槌音 飛び立て! 二十一世紀の″新都心″よ 

2000.6.11 随筆 新・人間革命3 (池田大作全集第131巻)

前後
1  躍動的な獅子たちは、立ち上がった。
 百獣の王冠をもてる、創価の巨人は、走り始めた。
 その雄姿は、勝利と栄光の大旗を、高らかに掲げていた。
 広布の英雄、戦いの英雄たちは、運命を決する、誇り高き決戦に突入したのである。
 埼玉よ。
 偉大な埼玉の同志よ。
 無限に連なる広宣流布の勝利を、断じてつかめ!
 空しく繰り返す非難・中傷など、眼中に置くな!
 愚かな嫉妬の苦悶など、笑い飛ばせ!
 仏法は「現当二世」である。
 複雑に、また複雑に変化しゆく時代のなかにあって、魂を打ち込んだ現在と未来こそが、我らの唯一の永遠の記念碑となりゆくことを忘れまい。
 また、我らは、断じて、仏敵を告発する。民衆を苛め、正義をどす黒い手で破壊せんとした彼らを、永遠に許さない。
 悪は悪として、明確に、明らかにし、断罪しなければならない。これが正しき道である。
2  二〇〇一年(平成十三年)の五月。
 奇しくも、この年、この月、埼玉の浦和・大宮・与野の三市が合併し、新しい百万都市「さいたま市」が誕生する。
 この三市を中心とする合併構想は、七十年以上も前から、何度も提唱されては、立ち消えになってきた。その夢が、いよいよ実現するのだ!
 埼玉には輝く希望がある。
 埼玉には建設の槌音がある。
 埼玉には躍進の勢いがある。
 私は、″新都心″の大舞台となりて、二十一世紀に飛翔しゆく新生・埼玉の発展に、心から期待している。
3  古来、「北武蔵」と呼ばれた埼玉の地は、江戸時代には、幕府の直轄領や譜代の大名領となり、江戸の経済、大衆の生活を支えてきた。
 いわば「埼玉あっての江戸・東京」というのが、歴史の重要な事実であった。
 ゆえに東京は、埼玉に感謝し、埼玉と共々に栄えていく心を忘れてはならないと、私は常々、思ってきた。
 ともあれ、既に東京の「一極集中」の時代ではない。埼玉は埼玉らしく、堂々たる大勝利の前進をしていただきたい。
 かつて「都市の分散」が叫ばれるなかで、埼玉の同志に語ったことを思い出す。
 ――東京が陥った経済主義、物質主義に巻き込まれるな!
 埼玉の国土と県民性とを豊かに守れ! 新しき型の生活環境を確保しながら、新しい精神環境を提供する埼玉を築け!
 一九七三年(昭和四十八年)に、上尾市で行われた第一回埼玉県幹部総会でのことである。
 会場の体育館のバックパネルには、埼玉が全国の模範を示さんと、「鉄桶の団結」のモットーが大書されていた。
 この日は九月十二日。日蓮大聖人の「竜の口の法難」の日であり、後年、「新生」の誓いを永遠に刻印すべく、「埼玉の日」となっている。
4  民衆の力で、埼玉を豊かな関東の穀倉に変えた「利根川の治水工事」について語ったのも、この時であった。
 ――徳川家康は、天正十八年(一五九〇年)、関東に入るとすぐに、水害を防ぎ、沼沢地を活用する、治水事業と新田開発に取り組んでいった。
 この大工事に力を尽くした一人が、伊奈忠次である。
 彼が家康から与えられた領地は、武蔵国足立郡小室・鴻巣領(現在の埼玉県北足立郡・鴻巣市・桶川市・北本市の一部)などで、まさに埼玉ゆかりの人物であった。
 利根川、荒川の流路変更、用水路の開削など、どれも難事業であったが、その最大の工事が利根川の東遷であった。
 江戸湾に注いでいた川筋を大きく東に移し、千葉県の銚子から太平洋に流し込むのである。
 工事は文禄三年(一五九四年)に始まり、承応三年(一六五四年)に完成。工事の推進と指揮は「父から子へ」「子から孫へ」と、″三代″にわたった。まことに壮大なる事業であった。
 また、その労作業を汗まみれになって担ったのは、名もなき民衆である。彼らのなかにも、二代、三代にわたって取り組んだ人びとがいたであろう。
 わが創価学会も、″三代″で築き上げてきた民衆の城である。世界の城である。
5  この一九七三年は、私自身、埼玉との縁が特に深かった。
 五月の欧州指導の折、「フランスの庭」と呼ばれるロワール地方に足を運んだ。
 このロワール地方は、絢爛たる歴史とロマンの舞台であり、パリを動かす豊かな「文化」と「力」をもち、フランス・ルネサンスの源泉の地でもあった。
 それは、日本の埼玉の歴史的意義を思わせ、帰国後、私は、新体制となった埼玉の同志に、「妙法のロワールたれ」と指針を贈ったのである。
 関東の要、ロワール埼玉! 限りなく創価を前進させよ!
 わが念願の通り、偉大な埼玉の皆様は、見事に戦い、勝利の波動を全国に広げてきた。
 御書には「いかに強敵重なるとも・ゆめゆめ退する心なかれ恐るる心なかれ」と仰せである。
 思えば、あの″救国の乙女″ジャンヌ・ダルクが、フランス人の心を奮い立たせた戦いも、ロワールのオルレアンが舞台であった。
 彼女は、攻撃の時も、兵を引く時も、常に、最も大変な場所で戦ったという。
 彼女の真剣さが、大の男たちを本気にさせた。
 彼女の勇気が全軍を鼓舞した。
 「乙女の旗印は常に攻撃の合図であり、勝利の象徴」(高山一彦訳)であったと、彼女の奮戦を見た従者は語った。
 今、新生・埼玉には、あの地にも、この地にも、晴れ晴れと創価の三色旗が翻る。
 われらの旗印が立つところ、「進め、進め、勝利せよ!」と軍鼓が轟き渡る。
 痛快に行け、埼玉の友よ!
 忍耐と勇気の旗を掲げて、汝自身の栄光の″戦勝碑″を打ち立てよ!

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