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日蓮大聖人・池田大作

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弟子の道 「師弟の闘争」に創価の永遠の栄え

2000.6.9 随筆 新・人間革命3 (池田大作全集第131巻)

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1  取り戻すことのできない青春。
 最大限に障害を乗り越え、生きゆかんとする人生。
 人それぞれの使命が、あるだろう。生き方が、あるであろう。
 宿命に流されていく人も、いるであろう。
 怒涛のごとく戦い、独りぼっちで仲間もいない、友達もいない、そのなかを、最大限に手探りをしながら、生き抜いていく人もいるであろう。
 同じ太陽に照らされ、同じ日々を送りながら、一生というものは、さまざまである。
 共通の道を歩みながらも、同じ結果が出ないという矛盾も、あまりにも多い。
 ともあれ、この世に生をうけた以上、満足に生きねばならない。幸福に生きていかねばならない。勝利の人生であらねばならない。
 複雑きわまる宿業に翻弄され、恐怖の緊張と痛みをもって生きねばならぬ人生は、悲惨である。
 侮蔑と非難に屈し、残酷な日々に敗れゆく生涯は、哀れである。
 暗黒の宿命の心を、鎖を、断ち切る強さがなければならない。
 悩み疲れて、この人生を終わってはならない。
 苦しい現実から、また過酷な現実から、幻想を追い払い、唯一最高の青空を仰ぎながら、満ち足りた充実の一生を、生き抜いていかねばならない。
2  善につけ悪につけ、誰人も、いつかは死別する。
 その彼方の世界はいかなるものか。此処では、なにゆえか、わからない。
 釈尊が、生老病死を達観しながら、仏法を説いた淵源も、ここにある。
 非情、有情を問わず、生きとし生けるもの、すべてのものが生死の大海で回転しているなかにあって、「師弟」という大道を示し、残し、訓練したのが、仏である。
 生命の生きる真髄を導いた、この道。
 宵の闇を打ち破って、永遠なる知性と人間性と人格を、平和を、所願満足の人生を、説き開いた釈尊の教え。
 これを、仏法という。
 その一貫して消えざる魂の鼓動は、師と弟子という、不二にして冥合しながら、人類を昇華させゆく法則といってよい。
 「師匠」と「弟子」。これは、何ものにも勝る、人間にとっての根本なのである。
 親子も大事である。
 夫婦も大事である。
 兄弟も大事である。
 隣人も大切である。
 すべて、総体的に大切であるけれども、最も固い岩盤のごとく一体にして、太陽と月とのごとく不二なるものは、「師弟」である。
 この世に、師弟に勝る実在はない。
 世界中のすべての歴史においても燦然と輝く、「師弟」の魂の凝結は、何を意味していたか。
 今の時代、そして次の世紀は、この一点を、もう一度、謙虚に正視眼をもって見極める、一直線の視力が必要だ。
3  あの太平洋戦争の最中、師匠である初代・牧口会長は、暗黒の牢獄で獄死。
 弟子である戸田第二代会長も、また、二年間にわたる獄中生活。
 そして、「巌窟王」との信念をもって、出獄する。
 仏法の次元から、人生の次元から見て、師弟の実在のなかに、「創価」はあった。
 夜となく昼となく、晴れでも雨でも、社会がいかなる激痛の困難にあっても、この師弟の厳粛な祝杯は、揺るぎもしなかった。
4  一九四一年(昭和十六年)の十一月二日、創価教育学会の総会が、東京・神田の教育会館で行われた。
 この折、牧口先生が訴えられたのは、「不自惜身命の大善生活法」であったという。
 さらに、「愚人にほめられたるは第一のはぢなり」との御聖訓のままに、苦難に突き進む、日蓮大聖人の「本当の弟子」の道であった。
 この一カ月ほど前、宗門は、軍部権力を恐れて、御書の「日蓮は一閻浮提第一の聖人なり」など、十四カ所の要文等を削除していた。
 大聖人門下の誇りを、無残にも踏みにじった、卑劣な宗門の違背であった。
 牧口先生は、当時、そうした臆病な敗北者の姿に激怒され、「今こそ、御聖訓通り、師子王の心で、行動すべき時ではないか!」と、よく叱咤されていたのである。
5  この総会の席上、戸田先生は、創価学会の永遠の指針である、「弟子の道」と題する、重要な講演をなされた。(『戸田城聖全集』3所収)
 ここに、厳然と、留め残しておきたい。
 「日興上人は、日蓮大聖人様をしのごうなどとのお考えは、毫もあらせられぬ。
 われわれも、ただ牧口先生の教えをすなおに守り、すなおに実行し、われわれの生活のなかに顕現しなければならない。
 牧口先生は金もうけはされない。しかし、われわれは先生の教えによって金もうけをし、また、ある人は技術を磨かなければならない。
 先生を親と思うのは、間違いをおこす。先生は師匠であり、われわれは弟子である。
 牧口先生のお宅でも、お子様は、師匠と弟子とを混同されている。わたくしの宅でもそうである。
 先生のお子様は、先生を親と思っている。師匠と思っていない。先生が御法のことを申されるときは、峻厳である。それが、師匠である。もちろん、親としての心もある。しかし、師匠の分野としてみるべきときが多い」
 「先生のことばづかいだけをまねて、なにになる。黄金水を流してしまうようなものである」
 「弟子は弟子の道を守らねばならぬ。ことばも、実行も、先生の教えを、身に顕現しなければならない」
6  この「弟子の道」があったがゆえに、創価学会は、日本を動かす、人間と人材の動脈となった。
 世界平和への血脈の脈動が、できあがった。
 大法は根幹であるけれども、忍難弘通する人間がいてこそ、大法は弘がる。
 人法一箇の「師弟の道」は、人類の究極の「仏の道」である。
 「広布の道」である。
 「正義の道」である。
 「師弟」を忘れて、成仏はない。
 「師弟」を利用して、永遠の幸福はない。
 「戸田の命よりも大事な学会の組織」と言われた意味を、断じて忘れてはならない。
 その師の教えのままにいけば、いよいよ、ますます、創価学会は発展し、繁栄するであろう。
 それを利用し、破壊する者に屈服すれば、もはや、不滅の学会は薄らいでいってしまうにちがいない。
7  断固として「師弟の道」を!
 「師弟の旗」を!
 厳然と「師弟の正義」を!
 悠然と「師弟の旅路」を!
 火を吐く魂で「師弟不二の闘争」を!

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