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日蓮大聖人・池田大作

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厳父の人間教育 立て革命児よ「永遠の都」を築け!

2000.6.2 随筆 新・人間革命3 (池田大作全集第131巻)

前後
1  「知識」追求の専門家をつくるのが、真の教育とは言い切れない。
 それは、専門部門の知性家をつくるといってよい。
 「知識」を通して、「人間」をつくる。「人間」を通して、「知識」を追求する。
 そこに、「幸福」になるための真実の学問がある。
2  わが人生の師・戸田城聖先生は、常に強く、読書を勧めた。この点については、幾たびも語ったことがあるが……。
 「大作、きょうは、なんの本を読んだのか」
 「大作、いまは、なんの本を……」と、幾十回となく、厳しく追及されたことが、本当に、私の今日の力となり、知性の力となり、文学の表現の基礎となったことは、いうまでもない。
 まさに、善のために叱られることは、最大の幸福である。
 叱ってくださる師匠の心もわからず、逆恨みして、反逆したり、非難したりするのは、畜生の心の態度である。
3  私への「読書」を通しての指導の具体的な第一巻は、イギリスの作家ホール・ケインの『永遠の都』であった。
 それは、一九五一年(昭和二十六年)の新春のことである。
 「大作、これを読みたまえ。
 読んだら、近しい同志にも読ませてあげなさい」
 戸田城聖先生は、西神田の旧学会本部で、赤い布装の表紙の本を、私に手渡された。私は、驚いた。
 今になっても、その日の慈父のごとき先生の言葉に感謝している。
 先生の事業が、依然、苦境の渦中にあった時である。
 なぜ、読ませたか。
 なぜ、選ばれたか。
 なぜ、今、読めと言われたのか。
 すべてに、深い指導の宝石がちりばめられていた。
4  『永遠の都』の舞台は、西暦一九〇〇年のローマである。
 奇しくも、戸田先生の生誕の年であった。
 青年ロッシィは、腐敗しきった政治権力と宗教権威に立ち向かい、革命の闘争を開始した。
 彼は、高らかに呼びかける。
 「勇敢であれ。自信を持て。忍耐強くあれ。明晩、諸君の叫び声は世界の果てまでとどろきわたるだろう」(新庄哲夫訳、潮出版社)と。
 しかし、民衆の幸福を願って行動する、この正義の革命児に対し、独裁者ボネリィ宰相は嫉妬に狂って、集中砲火を浴びせ、まったく事実無根の低俗な事件まで捏造した。
 人びとから慕われ、団結の柱と敬愛されている民衆の指導者を誹謗し、麗しき人間の連帯を引き裂こうとする。
 これが、いつの世も変わらぬ、陰湿な権力による、分断の策動であるからだ。
 だが、ロッシィの盟友ブルーノは、牢獄に捕らわれ、拷問を受け、謀略の文書を突きつけられても、無二の同志を絶対に裏切らなかった。
 最後の最後まで、「ロッシィ万歳!」「ロッシィ万歳!」と叫び切って殉ずる。
 やがて、悪逆の独裁政権は、打倒される日が来た。
 ロッシィは首班の指名を受け、生死を超えた同志であるブルーノと夢に見た「人間共和の永遠の都」が、ついに扉を開いたのである。
 そこには、燦々と、朝日が輝いていた。
 「知力を養え! 知力を養え! 団結せよ! 団結せよ! これがわれわれの合い言葉であり、われわれの戦う武器なのであります」(同前)
 これまた、印象深い『永遠の都』の一節である。
5  御聖訓に説かれる、広宣流布の前途に立ちはだかる「三類の強敵」とは、現実に、どのような形で襲いかかってくるのか。
 その権力の弾圧の構図を、戸田先生は、この物語を通して、青年の生命に、鋭く焼き付けようとされた。
 「我々を非難するならば、すればよいだろう。
 我々を中傷するならば、勝手にすればよいだろう。
 『真実』は、どこまでも真実だ!
 『正義』は、どこまでも正義だ!」
 小説『永遠の都』を通しながら、戸田先生の言われた指導が、私の心の奥深く入っていった。
 その厳父の巌のごとき姿勢と言葉は、絶対に忘れられない。
 側にいた人びとは皆、軽く、聞き流していたかもしれない。しかし、私の若き胸には、電光のごとく、電流のごとく深く深く響いていた。
6  いかに、悪巧みや嫉妬や、卑怯な悪意の攻撃があったとしても、私は、何も恐れることはない。
 軽々しい憎悪と卑劣な非難に対しては、そして、真実を盗み取ろうとする、嘘つきで怠惰な人物に対しては、必ずや、諸天が峻厳に裁き、審判を下していくにちがいないからだ。
 「正しくあるためには、厳格でなければならない。ひとが悪を阻止する権利と力をもっているにも拘らず、それを容認することは、自分自身が悪人となることである」(河野健二訳)
 戸田先生が青年に学ばせた、フランスの啓蒙思想家ルソーの一段である。
 これこそ、身命を惜しまず、極悪を責め抜かれた牧口先生の模範の姿であられた。
 老齢になられた牧口先生は、あの残酷なる戦時中の牢獄におりながら、「これくらいの難は、大聖人の大難から見れば、九牛の一毛なり」と言い切られている。
 これが、わが創価学会が、大聖人の仏法の真髄としゆく「信心の実像」なのである。
7  牧口先生と同じ時代に、ナチスと戦い抜いた、イギリスのチャーチル首相は語った。
 「世界を旅すれば、大きく分けて、二種類の人がいることがわかるだろう。
 『なぜ、誰も、これこれをしないのか』と文句を言う人間と、『私がやってみせる。誰にも邪魔させない』と言う人間である」(James C. Humes ″The Wit and Wisdom of Winston Churchill″ Harper Collins Publishers, New York)
 わが使命と責任を、強く強く自覚した「一人」の燃え上がる決意から、すべては始まる。
 ナチスの大空襲を悠然と見上げながら、大勝利の歴史を飾った偉大な政治家チャーチルの言動は、本当に重みがある。
 さらに、彼の有名な誇り高き凱歌の宣言がある。それは、
 「われわれは敢然と単独で、しかし全人類のあらゆる同情の心の鼓動に支えられつつ、勝利の絶頂にあった暴君に挑んだのである。
 われわれの潜在した力は、いまや息を吹き返してきた。空の恐怖も底が見えていた。この島国は手を触れることも侵すこともできなかった」(W・S・チャーチル『第二次世界大戦』2、佐藤亮一訳、河出文庫)と。
8  私の祈りは、ただ一つである。わが大切な学会員が、一人ももれなく幸福になっていただくことが念願である。
 毎日が無事安穏であり、健康長寿であられ、福運に満ち満ちた生活を送っていかれることである。
 また、一切の厳しき社会で、堂々と勝利者となって、人生の喜びを満喫していっていただきたいのである。
 朝な夕な、私の祈りの第一義は、常にここにある。
 最高の責任者として、指導する立場として、当然の、これが責務であるからだ。

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