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日蓮大聖人・池田大作

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桜の城 輝く創価の大道に 勝利の花は爛漫と

2000.5.30 随筆 新・人間革命3 (池田大作全集第131巻)

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1   桜花
    来る年 来る年
      笑顔かな
 今年も、学会本部の青年桜が、雄々しく美しく咲き薫った。
 北海道では、寒くて咲かないといわれた、厚田村のソメイヨシノも、満開であった。
 それはそれは美事な、この世の絶景を思わせる、桜の花吹雪の「生死不二の城」であった。
 これも、桜の生命が強いからである。強靭な生命力があるからである。
 人間もまた、同じである。
 一番、強く生きた人が、一番、幸福なのである。
 何度も何度も、ホイットマンを使わせていただくが、それは、私どもと共鳴、共感する詩があるからだ。
 真理の言葉があるからだ。
 彼は、歌うがごとく書いた。
 「臆病者は必ず消えてゆく。いのちに溢れた偉大な人のもつ期待は、いのちに溢れた偉大な人のなす振舞いによってのみ満足させられる」(「『草の葉』(初版)の序」夜久正雄訳、『ウォルト・ホィットマン』所収、研究社)
2  十日ほど前、「恩師の故郷厚田と桜」と題して、北海道の同志が、戸田記念墓地公園を彩る、美事な桜の写真を届けてくださった。
 五月中旬、約八千本の桜が、万朶と開花した写真である。
 まさに、わが師・戸田先生のご生誕百周年を寿いでいるかのようであった。
 今年の桜の″見納め″にと、先の日曜(二十一日)には、数千人の方々が来園されたとも伺った。
 この墓園が開園したのは、一九七七年(昭和五十二年)の十月二日のことである。
 その時から、私は、この三世の生命の王宮を、恩師がこよなく愛された桜の花で荘厳したいと念願してきた。
 妻と二人、″厚田と桜″のアルバムを拝見しながら、私は、一人の懐かしき″桜守″の方を思い出した。
 お名前を佐々木忠さんという。彼が中心になって、ソメイヨシノを移植してくださったのである。
 かつて、札幌以北では、ヤマザクラは咲いても、ソメイヨシノは育たないといわれていた。
 実際、今日でも、北海道の桜の名所の多くは、エゾヤマザクラが中心である。
 夏が短く、長い冬に閉ざされる北の大地では、桜の葉が生い茂る成長・栄養吸収の期間が、本州の桜に比べてわずか半分しかないそうだ。そのために成長も不十分で、厳しい風雪や異常低温、また、潮風等に耐えられないというのである。
 しかし、いかに厳しい土地であれ、桜の木は自らの命を燃やして、爛漫と咲く日を願っているにちがいない。
 大事なのは、このあらゆる障害を乗り越えて生きようとする、桜の生命力を引き出し、最高度に発揮させることだ。
 佐々木さんは、わが子に対するかのように、一本一本の桜に「元気か」「頑張れ」と祈り、語りかけながら、丹精してこられた。まさに、学会伝統の個人指導と同じである。
 その献身的な努力によって、不可能と思われた北限の地に、あの桜花の園林ができあがったのである。
 「厳冬に負けず、不可能を可能としてみせた、その一本一本の木の戦いに、深い感動を覚えるのです」――以前、彼が「大白蓮華」に書いた、すばらしい言葉である。
3  かつて総本山でも、日達前法主の時代に、私は、数多くの桜を植えてきた。
 正本堂の建立に向けて、広宣流布の大いなる前進を刻んでいた一九七一年(昭和四十六年)のことである。
 私は、総本山を、民衆の幸福と世界の平和を祈念するにふさわしい聖地とすべく、「十万本の桜」をもって荘厳したいと考えていた。
 四月二十八日、この十万本の桜の植樹への意義を込め、盛大なる桜の植樹祭が行われた。
 私も、あの記念の苗木を植えたことを、忘れることはできない。
 この時、日達法主の命名によって、植樹の中心となる丘は、「池田山」と呼ばれることになった。以後、着々と、十万本の桜が植えられていった。
 その後、″提婆達多″のごとき、次の法主の嫉妬のゆえに、「池田山」の名はなくされてしまったようだが、事実は事実である。いくら悪人が″焼き餅″を焼こうとも、厳然と、歴史は残っている。
 この桜の美事さは、何ものをもってしても、消すことも切ることもできないであろう。
4  わが故郷・大田の桜も、すばらしい。
 大田の文化会館が立つ多摩川堤に沿って、毎年、豪華な花の宴を見せてくれる。
 その美事な桜花爛漫の季節になると、あの懐かしき、大田の王者と姫が語り合い、舞い合っているかのような満開の桜並木を、見に行きたくなる。
 私は詠んだ。
  桜王
    大田の城は
      花びらに
    守られ包まれ
      風まで香らむ
 大田の桜といえば、一九七六年(昭和五十一年)三月、私の提案で、学会から大田区に「千本の桜」の若木を寄贈したことがある。翌年、区から感謝状もいただいた。
 現在、区内の公園など数十カ所に植えられ、あちらでも、こちらでも、あの微笑の桜の祭典を広げているそうだ。本当に嬉しい限りである。
5  桜は「平和の象徴」である。
 かつて、戦争に利用された桜は、あまりにも悲惨であり、かわいそうだった。
 四年前の五月、私は、羽田平和会館を初訪問する道すがら、″千本桜″の一部が植えられている公園に立ち寄った。
 東糀谷第一公園。この辺は、私が幼少時に住んだ思い出の地域であり、生き生きとした葉桜を見つめながら、あまりにも懐かしかった。
6  新宿の、わが家の小さな庭にも、二本の桜が雄々しく咲き薫る。
 一本は玄関の右手に立っているソメイヨシノ。もう一本はヤマザクラで、左手の隣家の側にある。
 私は、一本を「平安桜」、また、もう一本を「元禄桜」と命名した。例のごとく、妻は「何を見ても、あなたは優雅ですね」と微笑して言った。
 私たちが信濃町に引っ越したのは、一九六六年(昭和四十一年)の秋のことであった。
 早いもので、もう三十年以上になる。
 移転した時、既に植わっていた二本の桜は、現在、どちらも樹齢四十年ぐらいと聞いている。
 しかし、幹の太さや、樹皮の表情から、見立ててくださった造園業者の方は、「樹齢七十年ぐらいの風格があります」とおっしゃっていた。
 風格――人間もまた、風雪を越え、何ものにも揺るがぬ人格を磨きたいものである。
 ともあれ、桜は、厳しい冬を耐えて、耐えて、耐え抜いて、遂に迎えた春を、歓喜の勝鬨のごとく咲き誇る。
 勝利と祝賀を、賑やかに繰り広げゆく姿といってよい。
 今しかない、今しかないと、命の限り、清浄なる白き炎となって、燃えて咲きゆく景観は、皆の心に、安堵と平穏の憩いを与えてくれる。
 「瞬間即永遠」である。
 今を生き抜き、断固として、勝ち取るなかに、三世に薫る、「勝利」と「栄光」の人生の開花がある。
 「毎日その日の闘いを!……闘おう、最後まで」(『魅せられ樽魂』10、宮本正清訳m岩波文庫)とは、私の好きなロマン・ロランの言葉である。
7  私は一昨年の正月、七十歳を迎えた時から、この「随筆」を書き始めた。
 以来、連載は百五十回を超え、優に数巻の本になるほどになった。
 今回、そのうちの三十数編を選び、長編詩二編を加え、一冊の随筆集とし、そのタイトルを『随筆桜の城』とさせていただいた。
 大切な皆様方の御愛読に、心から感謝しつつ。
  来春も
    桜花の爛漫
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