Nichiren・Ikeda

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日蓮大聖人・池田大作

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長兄の出征 我らは絶対に「戦争」に反対

2000.5.29 随筆 新・人間革命3 (池田大作全集第131巻)

前後
1  創立七十周年を記念すべき本部幹部会が、先日、五月晴れに包まれて、晴れやかに東京の牧口記念会館で開催された。
 皆の超人的な闘争!
 嵐の空を突き抜けて戦う勇敢なる闘志!
 永遠なる理性と、法剣を持ちて、仏敵を致命的に打ち倒さんとしゆく、猛然たる祈りと行動!
 広宣流布という尊い大偉業に励む同志の姿は、あまりにも清々しく、神々しく見えた。
 海外からの多くの友も、殉教の栄誉の魂を光らせながら、意気揚々と集まった。
 その数、十三カ国・地域。
 我々の願望は「平和」だ。
 「進歩」だ。
 「世界の幸福の前進」だ。
 皆の心は、仏のごとく躍っていた。
 終わって、妻と、牧口記念会館の前の「月光の丘」を眺めながら、さまざまなことを語り合った。
 談たまたま、小学校時代の先生から、お手紙をいただいたことに触れ、幼き日の思い出へと、話題は広がっていった。
2  昭和十二年(一九三七年)、私は九歳であった。
 大病(リウマチ)を患っていた父が、ようやく回復へと向かいつつあったころである。
 その矢先に、長兄が徴兵された。
 兄の名前は、喜一である。
 私より十二歳年長で、この時、二十一歳であった。
 大変、真面目で誠実な、尊敬できる兄であった。
 父の闘病生活のなか、苦しい家計を支え、一家の柱となって働き、懸命にわが家を守り抜いてくれていた。
 この長兄をはじめ、働き盛りの四人の兄たちが、次々に、軍隊に奪われていった。
 老いた両親の面倒を託された私は、肺病で、病弱であった。
 父の病気も、長く続いた。
 国家主義というものは、なんと冷酷無慈悲なものか。
3  長兄が兵役に就いてから、二年後の、昭和十四年(一九三九年)の初春であった、と記憶する。
 いよいよ、兄が外地に出発することになったので、面会に来るようにとの連絡があり、急きょ、母と私が、東京駅に向かった。
 私は、小学校の五年生になっていた。
 母は、「長い、お別れだから」と、海苔をいっぱいに巻いた、おにぎりなど、できるだけのご馳走を用意した。
 出征姿の兵隊は、総勢で三百人ほどであったろうか。
 駅前の広場には、駆けつけた家族と、楽しそうに食事をつつきながら語り合う光景が、あちらにもこちらにも見られた。
 ひとたび戦地に行けば、これが最後の別れになるかもしれない。目に涙を浮かべた母たちや、新妻の姿もあった。
 しかし、急な出立であったため、山形や秋田など遠方の出身者は、国元への通知が間に合わなかったのであろう。
 面会の家族もなく、静まり返って、コンクリートの地べたに座り、肩を落としていた軍服姿が、今でも強烈に印象に残っている。
 その方々へ、私の母は「こちらへいらしてください。ご一緒に、どうぞ!」と、声をかけた。遠慮がちな人たちに、私がおにぎりを持っていってあげた。
 寂しげだった兵隊の顔が、ぱっと明るくなった。皆で、なごやかに、喜んで、心づくしの食べ物をいただいた。
4  やがて、名残が尽きぬまま、出発の時間となった。
 兄たちは、ゲートルを巻き直し、帯剣を確かめると、隊列に戻っていった。
 母と私も、帰途につき、省線電車で、品川駅に出た。
 もしかすると、兄たちを乗せた出征列車が通るかもしれないとホームで待っていると、まもなく、兵隊を満載した列車が入ってきた。
 母は早足に歩き出しながら、窓から窓へと、兄の姿を捜し始めたが、兄らしい人影は見あたらなかった。
 その時、初老の親切な駅員さんが、駆け寄ってくれた。
 私たちの事情を察すると、即座にメガホンを使って、大きな声を張り上げながら、「池田喜一さん、いますか?」「池田喜一さん、お母さんが来ていますよ」と、二度、三度と、ホームを往復してくれたのである。
 発車の時間が、迫っていた。
 すると、一人の戦友が気づいてくれた。先ほど、一緒に食事をした山形出身の青年のように見えた。
 急いで、反対側の席にいた兄を、「喜一、お母さんだぞ!」と呼び出してくれた。
 すでに、列車は静かに動き始めている。
 兄は飛んで来て、窓から身を乗り出した。
 母は、「喜一、喜一、体に気をつけるんだよ」と叫びながら、列車を数歩、追いかけた。
 兄は頷きながら、大きく手を振った。
 母も、私も、この出征軍人を乗せた列車が見えなくなるまで、手を振り続けた。
5  昭和十六年(一九四一年)、長兄は、一度、除隊となり、中国大陸から戻ってきた。
 兄が私に、「日本軍は、ひどすぎる」と、憤怒を込めて語って聞かせたのは、この折である。
 父は、「またいつ、戦争にとられるかも知れないし、早く、結婚も考えた方がいいのではないか」と、母と陰で、そっと話をしていたようだ。
 「長男なのだから、お嫁さんを決めておくべきだ。どうするのか」と言って、親戚中の問題にもなった。
 しかし、軍国主義の徹底した当時の日本では、幸せな結婚など思いもよらなかった。
 「軍隊に行って、華々しく国のために尽くし、死んでいくことが、最高の名誉だ」と、叩き込まれた時代である。
 翌年、長兄は再び、召集された。
 戦地から届いた手紙には、「自分は、海苔屋の息子だから、寒い場所の方がいいと思っていたら、暑い南のビルマに派遣された」という、そんな不服が綴られてあった。
 その一言は、今なお、「ああ、かわいそうに」という思いとともに、心に残っている。
 その後、太平洋戦争で、最も無謀といわれた「インパール作戦」の犠牲者の一人として、兄は、昭和二十年(一九四五年)の一月、ビルマ(現・ミャンマー)で戦死した。
 二十九歳の青春であった。
6  私は、断じて戦争に反対する! 絶対に反対する!
 私と同じ世代の多くの青年たちが、国家からはおだてられ、喜び勇んで、戦地に行かされた。
 残された一家は、「軍国の母」とか、「出征軍人の家」とか、名誉ある賛辞で讃えられた。
 しかし、その家族の心の奥には、どれほど苦痛と悲嘆と不幸のわびしき嵐が吹き荒れていたことか。
 その心を知らぬ、人びとのつくられた賞賛や同情は、母や子の心を、どれほど深く、傷つけたことか。
 本来、「お国のために」などという美名に、決して騙されないのが、母性愛の強さであり、賢さであるからだ。
7  戦争中は、春夏秋冬、すべてが、厳冬のようだった。
 やがて、終戦と同時に、静かに強く明るく、新しき平和の太陽が昇り始めた。
 八月十五日のラジオの放送を、十七歳の私は、疎開先の大田の馬込にある親戚の家で聞いた。
 その時の複雑な感動は、今もって、骨の髄まで染み込んで離れない。
 戦争は、絶対に反対だ!
 ゆえに私は、戦争の犠牲となり、入獄された牧口先生、戸田先生を、「正義の中の正義の人」と、心から尊敬する。
 そして、進んで″創価の師″の弟子となった。
 何にもまして、「永遠の平和」の仏たる、日蓮大聖人を信奉するために、殉教なされた両会長に続くことを、私は誇りに思う。
 断じて私は、心に戦争を抱く人間と戦う!
 あの、どす黒い魔性の権力と戦う!
 私には、一千万に近い、真の平和のための、強力な魂で武装した仏の軍勢が、厳然と全陣列を整えているからだ。

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