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日蓮大聖人・池田大作

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荒海の新潟・佐渡 嵐の怒濤に断固指揮とれ!

2000.5.26 随筆 新・人間革命3 (池田大作全集第131巻)

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1  「われわれは世のなかでもっとも強力な武器、すなわちわれわれは正しいのだという確信を抱いている」(『黒人はなぜ待てないか』中島和子・古川博巳訳、みすず書房)
 アメリカ公民権運動の指導者、キング博士の言葉である。
2  いま、正義の新潟は、新しい歴史をつくり出さんとして、燃えている。
 本年の夏には、長岡市で″平和の音楽の祭典″が盛大に行われるようだ。皆の心は、新しい鼓動に脈打っている。
 さらにまた、今年の秋には、「新潟家族十万人の歓喜の大行進」と銘打って、新潟本来の生命の力が一段と強くなりゆく、十万のわが友が集い合う、画期的な大座談会運動史をつくりあげるというのだ。
 なかでも、わが新潟の偉大な青年部は、金の星のごとく輝き成長し、そのうねりは目覚ましく頼もしい。
3  私は、途方もなく遠いところに船出するような気持ちで、新潟の港を出た。海は、強風のために荒波であった。
 私たちは、佐渡の地をめざした。一九五八年(昭和三十三年)七月二十日のことである。
 一年ぶりに、私が新潟入りしたのは、その前日であった。
 本来、一夜明けたこの日は、初めは、新潟支部の第一回運動会が、賑やかに開催される予定であった。
 皆、それを楽しみにしていた。しかし、朝から降りしきる雨のため、午後からの開催としたが、妙技開始後に再び雨が激しくなり、最終的に中止せざるをえなかったのである。
 ともあれ、午前中、私がメンバーの激励の指導会を終えると、その夜に行われる佐渡島での会合について、幹部から確認の報告が入った。
 島の同志が、私の出席を心待ちにしてくれている。天候が悪化すれば、船が欠航する恐れもある。
 私は、「そうか! それでは、すぐに応援に行こう!」と、電光石火、佐渡に渡る準備を急いだのである。
 ――なお、この初の運動会は雨天のため中止になったが、後年、新潟市と十日町市において、二年連続で、それはそれは美事な「青年平和文化祭」の舞台が鮮やかに刻まれた。一九八四年(昭和五十九年)と八五年(同六十年)のことである。
 粘り強き新潟の友は、二十数年の風雪を乗り越えて、驕慢な魔物に頭を下げさせたのであった。
4  はるか彼方の佐渡へ向かいゆく船は、時折、雨が激しく窓を叩き、波が船腹を打った。
 船は大きく揺れながら、漂泊するがごとく前へ進んだ。
 私たちを乗せた「おけさ丸」は、五百トンほどの船であった。皆が船酔いしても、船は容赦なく、木の葉のように、揺れに揺れた。
 私たちは、幾世紀という歳月を超えながらも、人知れず、日蓮大聖人の佐渡流罪に思いを馳せたのである。
 文永八年(一二七一年)の十月、大聖人は、越後国寺泊で、佐渡へ渡る舟の風待ちをしている間に、門下の富木常忍にお手紙を送られた。
 「今遭っている苦難など本より覚悟の上である。今更、嘆くことなど何もない」(御書九五一ページ、趣旨)
 この御言葉が胸に迫った。
5  当時は、私たちの人生の師である戸田先生が逝去されて、まだ三カ月を過ぎたころである。
 多くの創価の友は、輝く太陽が沈んだように悲嘆に明け暮れ、「学会は空中分解する」等の冷酷な非難・中傷が、ここぞとばかりに学会に襲いかかっていた。
 御聖訓には、
 「いくさには大将軍を魂とす大将軍をくしぬれば歩兵つわもの臆病なり」と。
 勇気を出せ! 恐れるな! 何ものも恐れるな!
 断じて、万年に富み栄えゆく広宣流布の大河を切り開くのだ。
 それが、師匠から、信心の不滅の光輝ある「印綬」を受け継いだ、不二の弟子の責任であるからだ!
 海礁のほとりに警鐘を鳴らすかのごとく、我らを乗せた船は、注意深く舵をとりつつ進んだ。そして、灰色の空を横目に急ぎ、喜々として、無難に佐渡の両津港に着いた。
6  佐渡では、公民館を借りて、指導会が行われた。いまだ、地区も誕生していなかった。
 しかし、雄々しき使命に奮い立ったわが同志は、旧習の深き島で、毅然として、正義の旗を掲げて戦っていた。
 その満々たる熱気が会場を包むなか、私は、佐渡が金山として有名だったことから、全同志が「黄金」に輝く人生を、と念願した。
 いかなる大難があろうとも、御本尊を抱き締め、広宣流布のため、人間革命のために、断固として、生きて生きて生き抜くことだ、と。
7  佐渡といえば、蓮祖が、数百人の敵人を完膚無きまでに論破された、有名な「塚原問答」の舞台である。
 そのお姿は、「利剣をもて・うりをきり大風の草をなびかすが如し」と仰せである。
 それは、後世の末弟も「かく戦え!」との、不滅の教えであるといってよい。
 「人貴きが故に所尊し」である。
 「皆成仏道の法」も、宗祖の御心を体現せんとする「人」なくしては、継承されない。いかに由緒ある土地であろうとも、広宣流布の開拓がなくなれば、ただの「精神の廃墟」と化してしまうであろう。
 大聖人滅後の身延がそうであった。
 また、日興上人が開創された大石寺も、ごく一部の聖僧を除いて、歴史の大部分が謗法の魔窟となっていた。
 そのなかにあって、宗開両祖の御精神を現代に蘇らせたのが、創価学会であり、新潟に誕生された初代会長牧口先生であった。
8  翌七月二十一日、私たち一行を見送ろうと、大勢の佐渡の友が両津の波止場まで駆け付けてくださった。五、六十人もおられただろうか。
 せめてもの思いで、「こがね丸」という船をバックに、全員と記念写真に納まった。
 この時のメンバーが中核となって、今日の偉大な佐渡広布を築いてくださったのである。
 私は、今もって、感謝の祈りを捧げている。
 本年一月、佐和田町で行われたフォーラムでは、佐渡青年部が中心となって、約千二百名という大結集を達成し、大きな反響を呼んだ。
 四十余年前、私が訪問した折に指導会を行ったのも、この町内であった。
 「塚原問答」七百三十周年へ向けて、同志はますます意気軒昂である。
9  思えば、牧口先生の故郷である荒浜のある柏崎は、文永十一年(一二七四年)の春、佐渡を後にされた大聖人の舟が、たどり着いた場所でもあった。
 牧口先生は、約百年前、大著『人生地理学』で、中国、韓・朝鮮半島、ロシア等を結びゆく、日本海とその周辺海域を、「花綵かさい(花づな)内海」と呼ぶことを提唱され、大いなる希望を寄せられていた。
 先生の先見通り、この「環日本海圏」が、二十一世紀の新しい国際秩序の要衝として、脚光を浴びている。
 その大きなリーダーシップを、新潟の天地が発揮しゆくことを、私は期待したい。
10  大聖人は、新潟で、末法の御本仏の大境涯を刻印された「開目抄」に仰せである。
 「詮ずるところは天もすて給え諸難にもあえ身命を期とせん
 誰が、大聖人の滅後、御書の通り、あえて大難の嵐を呼び起こしたか!
 誰が、世界広宣流布の大闘争を起こしたか!
 それが創価の誇りである。
 それが創価の魂である。
11  私の大好きな箴言に、こうあった。
 イギリスのチャーチル首相いわく。
 「『最善を尽くした』と言ったところで、なんの役にも立たない。必要なことを成し遂げることこそが要求されるのだ」(James C. Humes ″The Wit and Wisdom of Winston Churchill″ Harper Collins Publishers, New York)
 そしてキング博士の叫びには、「正義がつきない川のように流れるまで闘い続けることを決心したのだ」(梶原寿『マーティン=L=キング』清水書院)と。
 大聖人に直結し、牧口先生に続く、わが新潟家族よ!
 いかなる三障四魔の怒涛も、堂々たる「勇気」の行進で、悠然と勝ち越え給え!

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