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日蓮大聖人・池田大作

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牧口先生と武蔵野 清新の生命よ光れ 憧れの大地

2000.5.21 随筆 新・人間革命3 (池田大作全集第131巻)

前後
1  青葉薫る武蔵野は、私の大好きな希望の天地である。
 牧口先生も、この武蔵野を愛され、しばしば足を運んでおられたようだ。
 先生は、一九一三年(大正二年)の三月二十九日、そのころ参加していた「郷土会」の例会で、武蔵野――埼玉・北多摩方面に一泊旅行されている。
 当時、先生は四十一歳。この直後には、東盛尋常小学校の校長に就任されている。
 小旅行の中心者は、日本の民俗学の大家として著名な柳田国男氏であった。
 氏の記録によれば、一行は、埼玉県北足立郡の野火止(現・新座市内)を探訪。
 「野火止用水」の利用状況を調査したほか、一夜、農家で歓談し、翌日は美しい梅林を楽しんだという。
 この用水は、十七世紀半ば、先にできていた「玉川上水」から分水され、今の小平から、東大和・東村山・東久留米・清瀬を通って、埼玉の新座・志木まで延びている。
 完成から約三百五十年を経ても、今なお水流を残す野火止用水であるが、その開削には、先人たちの大変な辛労があったようだ。
 こんな話も伝えられている。
 ――工事が終わってから二年間、水が流れなかった。当然、失敗ではないかと、工事責任者を難詰する声も起こった。
 しかし、この工事責任者は、「絶対に大丈夫だ!」と、いかなる非難にも揺るがなかった。
 やがて、三年目の秋、ある日の大雨をきっかけとして、彼の確信の通り、勝ち誇った万歳の波のように、水は滔々と流れ始めた――(大田南畝『一話一言』で新井白石が述べた話として紹介。『日本随想大成』別巻3、吉川弘文館、参照)
 史実かどうかは別として、わが精魂を傾けた仕事に対するこの信念。この誇り。まことに天晴れな姿と、私には思える。
2  ちなみに野火止用水は、東村山の久米川近辺を通る。
 武蔵村山などを含め、この″村山″一帯は、中世の武士団・武蔵七党の一つ、「村山党」の本拠地でもある。
 ことに久米川は、鎌倉街道の一宿場で、文永八年(一二七一年)十月、日蓮大聖人が流罪地・佐渡に向かわれる途次に、一泊されたといわれる。有名な寺泊御書にも「武蔵の国久目河の宿」と明記されている。
 三年後の春、佐渡から鎌倉に戻られる時も、同じ道を帰られたのではあるまいか。
 ちょうど四十年前(一九六〇年)の四月、私は、この東村山方面を訪れている。
 木々の花咲き、新緑が萌ゆる春の一日、「愛する東京の桃源境」「私の憧れの大地」と日記につづった感銘は、今も、わが胸に鮮やかだ。
 先日、私は″村山″の記念の総会に和歌を贈った。
  村山に
    はるばる走りて
      四十年
    今や広布の
      太陽昇りぬ
 牧口先生の一行は、野火止での調査を終えると、清戸(現・清瀬市内)に進み、さらに久留米村(現・東久留米市)を通ってであろう、田無に出て、帰途に就かれたのであった。
3  ところで、この小旅行を共にされた柳田国男氏は、国際連盟の事務次長を務めた新渡戸稲造氏らと共に、牧口先生の『創価教育学体系』の第一巻に序文を寄せておられる。
 こうした縁から、先生は、柳田氏にも信心を勧められたが、残念ながら、氏は仏法を理解されるには至らなかった。
 しかし、戦後、柳田氏は、次のように、牧口先生の思い出を書いておられる。
 「若い者を用つて熱心に戦争反対論や平和論を唱へるものだから、陸軍に睨まれて意味なしに牢屋に入れられた。妥協を求められたが抵抗しつゞけた為め、牢の中か、又は、出されて直ぐかに死んでしまつた。宗祖の歴史につきものの殉教をしたわけである」(「故郷七十年拾遺」『定本 柳田國男集 別巻第三』所収、筑摩書房)
 牧口先生と親交の深かった大学者・柳田氏による、貴重な証言である。
4  戸田先生は、一九五三年(昭和二十八年)十一月、初代会長の十回忌にあたり、亡き師匠の『価値論』に自ら補訂を加えられ、世に問われた。
 そして翌年の一月、先生は、この『価値論』を、柳田氏に届けるよう、私に命じられた。
 私は、直ちに世田谷区成城の柳田氏の自宅を訪ねたが、留守とのことで、やむなく家人に『価値論』を託した。先生にご報告すると、先生は一言、「そうか」と言われた。
 ″初代会長は獄死されたが、一人の弟子が、こうして厳然と師匠を宣揚している。この姿を見せたい″――それが、先生のお心ではなかったかと、私には思えてならない。
5  牧口先生は、あの「野火止」への小旅行の後も、よく武蔵野に足を延ばされていた。
 たとえば、白金尋常小学校の校長時代、遠足の引率で、何度も八王子を訪れ、高尾山に行かれている。これまで一九二四年(大正十三年)、二六年(同十五年)、二八年(昭和三年)、二九年(同四年)の四回、″秋の遠足″で行かれたことがわかっていたが、このほど、新たに一九二三年(大正十二年)六月の訪問の事実が発見された。
 「創価教育学会」が誕生する直前の数年間、牧口先生は、列車の車窓に武蔵野の風情を楽しみながら、八王子に来られたわけである。さらに、創価教育学会の会長として、幾たびか武蔵野台地の保谷を訪れ、座談会に出席されている。
6  牧口先生は――
 謹厳実直な先生であった。鋭い眼の内に、深い深い思索の光をたたえた先生であった。
 しかし、また、北へ、南へ、快活に歩き抜かれた、行動第一の先生であった。
 「先生は、いつも先頭切って歩かれました」
 直接、牧口先生を知る弟子たちは皆、その雄姿を懐かしく語る。
 ある時などは、先生は、こう弟子たちに呼びかけられた。
 「われわれ青年は――」
 その当時、先生は七十歳前後であられた。
 先駆、先駆、また先駆の、久遠の青年の生命で、生き生きと生き抜かれた先生であった。
 いつも若々しく、不老不死の妙法を証明しながら、戦い抜かれたご一生であった。
 我らも、また、この旭日のごとき魂で、学会創立七十周年の黄金の日々を走り、勝とう!

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